安倍古事録

(※此の部分、ページ欠落か)

日之本將軍 安倍賴良

〽富士見ても
  富士とはいはむ
    みちのくの
  巌鬼の山の
    雪の曙

(※此の部分、ページ欠落か)

する破目と相成りぬ。相次ぐ朝議ありて奥州への登任に変る武將を選抜し、その決したるは源賴信の嫡男賴義と議決されたり。丑寅の賊・安倍賴良を誅しべしとの勅を奉じて、永承七年三月、十三万と曰ふ大

(この部分欠落)

十萬餘の大軍、来襲すと曰ふ。坂東の鹿嶋次郎直胤よりの報に備へたる安倍軍は、その先鋒を淸原武則を寄せて六萬を棚倉に、五萬を白河に布陣し、賴良本軍は膽澤と磐井に六萬を集めその威勢にあったれば、官軍が坂東に入るや熊谷の倉太郎、鹿嶋の直胤ら田子の浦海辺に布陣して源軍に楯垣を構へたり。

賴義の軍は富士に封ぜられ、想はざる坂東勢が阿倍の加勢にありきを京師に報じたり。坂東諸家を討つは二十萬餘騎なりとして戦に相應せざる旨を急使をして報せありきに、朝議は夜を通して策謀せしに何事の的案も是無く、平城京・平安京建立の負費未だに民に苛酷なる租税の尾引く現に在りきに、二十萬の官軍を募るるは能はざる處なり。

何事をしても是術よく留む策ありやと思考せしに、立案せしは、上東門院の被疫平癒祈願ありとて安倍氏討伐の大赦令として官軍を解きたり。時に安倍勢は天惠吾らに在りと悦べるも、賴義はやるかたなく引揚げたり。

然るに天喜甲午二年七月六日夜、半月の左空に眞昼の日輪より尚まぶしき妖星輝き、不吉なる前兆とて卜部は賴良に告げたり。時に賴良、意を決して未だ幼き行任、一説に則任を東日流十三湊に分つ事にして、一族の者二千人を即坐に移しめたり。源氏との戦、今に再起せば一族總滅を忍び難しとて、東日流に一年を通じて望むる者を添しめたり。是ぞ、後なる安東水軍の創祖となりぬ代々を氏季と襲名なして臨君せし十三湊安東は、後に藤原安藤と姓を攺めたり。

この一挙に二千人と曰ふ大移住せむ賴良は、是れも一族が世にあるべき奇策なりと曰へり。古来より天動・地動・宇宙の起異を不吉なる前兆とせるに移住ありきは、祖来のことにて、十和田の地爆、田澤の地爆を人命に救ひし例これありて、賴良このとき既にして戦の敗北を餘知したるものと曰ふ。

源賴義、少勢にして多賀城に陸奥守に任住せし間、事々にして賴良を忿怒せしむ作爲を挑しけるも、賴良はその任期に退任あるを以て忍びけるも、天喜丙申四年その任を解かれむに至りて、その送別宴を阿久利川にて催したり。

岩石峽の眺望よき處に賴義を迎へて宴せる中に、賴義警護にありき藤原權守説貞その子息たる光貞と元貞ら、かねて賴義と謀り戦因ともなるべき策謀をこらしたるを知らざる厨川太夫貞任は、國府多賀城に歸るを磐井まで送行しての途中、後發の藤原説貞の行列と行會ひたり。

ときに通り過ぎざま、説貞の列より石礫が貞任の乘馬の尻に投げつけたるあり。驚激せる馬は棒立に相成り、あわや貞任落せんとしたるとき、轡持の平野重内必至の制えに貞任事無きたるも、元貞曰く、猪かと思いしに蝦夷侍の馬たるか、と。是に合せて光貞曰く、いやこれはしたり、吾が妹なる乘台に見とれし餘り馬を落なんとせし愚能なり、とそやしければ列侍どっと笑いけるに、流石貞任も忿怒に押へず聲一令に、かかれ、と一喝せば茲に修羅一變にして白刃打火を發する戦となりて、説貞一人遁げたるも、三百二十人ことごとく貞任軍に討たれたり。

是く起るは、かねての賴義と謀れる挑發なるも、説貞一挙にして光貞・元貞を失ふ。またその息女とて、人馬の暴動せるなかに、見るも無慘なる顔傷に自害して果たりと聞き、狂気の如く賴義に參上なして、安倍氏討伐の報復を訴求せり。時に賴義、事の不手際を怒れども、仕掛を賴みたる段、詮無く、作りき奏上書を京師に參らせり。

この事状を貞任より聞こしめせて、安倍日本將軍賴良、自から國府多賀城に赴きて事の實相を尋ねきに、賴義曰く、

春には、夷國が故に春待遠しき虫までが、雪上をもかえりみじ動揺するが如く、汝の息子、よこしまに説貞の息女を色慾に惑ふて、馬乘乍ら不埒千萬なる行爲に、馬驚せる。事の因は説貞になくして、討つとはもとより余を討つが目的なる行爲なり、

と責めかかれり。時に賴良、卽座に曰く、

これはしたり、我等が浂を討つ魂膽なれば、説貞如きを討つに及ばざるなり。此の國は丑寅なる日本國なれば、如何ようにも汝を討つは我が掌中にあれども、國事泰平の爲に、汝ら倭朝の輩を此の多賀城に進駐を認むるの識にありけるものなり。古来より、此の地は皇土に非ず。汝ら皇化の蒙むる由なし。是の如き説貞の仕掛たる行爲は、かねて汝が既存の筈なり。吾が子貞任をして、説貞息女に惑ふほどなる女渇はなし。吾が國は女人をして美形にそろふ國土なり。吾が子貞任を、春待つ啓蟄の如き蝦夷者とは何ぞや。汝こそ、發つ鳥はあとを濁さず、歸京あれかし、

と座を立って去れり。時に賴義、阿然とて言なかりけり。馬乘にある賴良を出送る賴義曰く。あいや、日之本の君よ、暫時またれかし。御短慮は乱を兆す因となり申そうぞ、と曰へけるに賴時馬乘にて曰く、

人の道、世にありけるは是れみな妻子の爲に在り。貞任、我が子なり。父子の情を棄てて忘却を能はず。罪ありとひとたび刑に伏せば、吾その悲しみになんぞ忍びんや。貞任の説貞勢を討てるは、説貞の仕組めし挑發行爲なり。まして汝が國府を去り難き一念にてかかる乱を起し、再任あるべく魂膽は汝が影なり。この度なる發端は總て汝が胸に在りける仕業なり。

と曰せば、賴義曰く。

越言無禮の段は悔ゆるなり。されば汝、この後とも我等が天朝に忠誓の所存ありや。今にして誓ふれば、道も開け給ふに如何がか、否や。

と曰ふ。賴良答へて曰ふ。

吾が丑寅の日本國は、古来より吾が祖君の治めし召せる國なり。吾れは、その系に在りて継ぐるものなりて、古事より傳統授継ぎし吾は、今なる日本將軍なり。汝が仕ふる倭王に、かかはりなき國土なり。依て、汝が歸京に目安を奏上し、前なる征夷の軍にて再度罷り来たるとも、吾は國を賣り心を賣らざるなり。以て吾を朝敵とせば、以上の問答無益なり。今日より關を閉し、汝は君なる勅許なくして、吾を攻むとも叶ふまい。卽座に陸奥を去り、誠に以ての和睦なれば、吾れ自から日本の道を開かん。

と曰して賴義の返答を背に、衣川に戻りき。衣川柵に迎ふる貞任、事の首尾を尋ぬれば賴良曰く。

去る年になる妖星の凶兆ぞ、今になる源氏の挑戦なり。我は今日より名を賴時と攺め、この凶兆に楯とならん。

とて一族の老人・女子・童を遠野亦は生保内に移しめて、衣川に關を閉したり。賴義、國府多賀城を拔け、急ぎて坂東の鎌倉に縁者を集めたり。再任のなきまま兵を募り、安倍氏を討つべく房總の千葉氏・里見氏他、坂東源氏を二十七人の武將に援を受けにして、その數十六萬の、歩騎輜重兵合わせたる數なり。

天喜四年八月、猛暑を突きて坂東を白河關にかかるとき、突如として鹿嶋勢・熊谷勢の併軍に不意を突かれ、輜重車・武具車の後續軍がことごとく誅滅され、奪取され、白河越えては夜営を襲はれ、軍馬六千頭が霞の如く消え失せたり。

後續の輜重兵もなく、残れる兵量も十日に未足らざれば、兵の逐電相次ぎて、栗原一迫に至りて前に進むを能はざるなり。是を、味方に間諜ありとて、先づ以て平永衡及び藤原經淸が衆臣の目安に挙げられたり。平永衡をして先んじて捕えたのは永衡家臣四人にて、拷問し責めければ苦しさに白状せり。

然るに事實、永衡が間諜せしは知るべきもなけれど、賴義は、敵將賴時の娘を妻にして間諜なきはなしとて、永衡を漬刃の差料にて自刃せしめたり。ときに、藤原經淸とて賴時の息女を妻しけるに、永衡如き自刃もまぬがれるはなしとて、密かに永衡の家来を併せなし、護兵だけなる多賀城に赴きて、賴義が留守居にある多賀城を圍みて、官軍將士の女子を捕えて人質とし、己れは衣川の賴時に走れり。

源賴義は次なる經淸を責めんとて、經清を捕はしむに彼の陣営に向かはしむに、もぬけの空にて、平永衡の家来も一人だに残らず經淸に從って逐電せる耳ならず、多賀城は炎上し、留守居の女子等ことごとく連れ去られしあとにて、賴義の軍は此の日より一日の兵糧なく軍馬を殺して喰う兵を軍律の統治ならず。

賴義自身もまた反徒に暗殺の憂い生ぜり。詮なく九月一日、賴義は坂東に軍を退かしめ、再起せんとせるも、そのもとに集まるは五萬にも足らず、まして賴義が無役とては一俵の兵糧も寄進せるものなし。

安倍古事録 三

賴義、坂東に再起をなさんとて、退きしあとを金爲時に委ねたり。然るに、金氏は爲時以外の親族はみなながら安倍方なり。金爲行・金經永・金則□・金依方・金師道らは、賴時左右を委す猛將なり。賴義坂東にありて奥州の倭人は追放さるる間、金爲時は小松柵なる安倍良照を攻めたるも、敗北して自城の気仙に退きたり。

朝庭に於ては、賴義退官のあとに藤原良綱を陸奥守に任じたるも、良綱卽座に以て是を辭任しければ、源賴義に再任され若干の軍資を賜りたり。依て賴義、勅令とて坂東に兵を募りたり。集むる兵馬は十八萬人にて、貧農漁民はその半數以上なり。

天喜四年の暮れゆく十二月、金爲時は坂東に源賴義を訪れたるとき、この募りたる兵馬の武威の底質なるを進言せり。

戦に數のみを以て當戦するとも、闘魂なき者耳の挙兵は烏合の衆にて、一羽の逐電あらば千羽の羽及におよぼしぬ。依てかかる烏合の衆を説得に時は無かりける故に、解きて屈強の人馬を選拔せでは、前挙の恥に事更なる上塗なり。安倍一族を崩すは先づ以て、彼の味方に反忠を策して謀りきは上策なり。拙者の見當せし安倍方の反忠に動ける者は、宇曽利太郎大夫・安倍富忠、出羽なる淸原武則らを反忠に拔きては此の戦勝利に速やかなり。

と言上せば、賴義曰く。

宇曽利富忠、出羽武則の軍を併せむ數は六萬餘騎を越ゆ數なり。如何して反忠を誘う手段ありや。

と問へば爲時、座を詰めて曰す。

宇曽利氏は安倍氏の外腹なる系にて、常にして所領を西領に望むるも果されず。出羽殿は都の士風を好めり。

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官位に權守を約せる勅許及び軍資一萬両。武則に約せしは陸奥鎭守府將軍・少納言と軍二萬五千両なり。賴義はその證とて、武則に官軍への參陣挙兵を、富忠に安倍賴時暗殺を遂げて朝を認むるの念書、両者より受取りて見事に策謀果したり。

宇曽利富忠は六千の兵馬を荷止呂志越えに安代に至り、日髙河添へに金ヶ崎江刺郷に陣営したるは七月二十五日にして、その翌日六日の昼飯どき賴時と對面せる手配に及べり。この日に淸原武則もまた橘貞賴・古彦秀武ら二萬八千騎を賴義のもとに派遣せり。

安倍日本將軍賴時の悲運は、この日起りたり。賴時暗殺の刺客とて平貞新を富忠のもとに賴義の遣はしたるは、弓の名人にて百箭的中の技ありき。かゝる罠ありとは知る由もなく、賴時は二千騎の手勢を倶ふて富忠と對面に赴くとき、近臣の川辺左衛門に將軍自からの對面を請て来たる富忠を、不審とみて出向くをとどめたれど、賴時はためらいもなく鳥海の柵を江刺に出向いたり。

夏天の暑きに賴時、暫時木下に冷をとりしとき、何處よりか矢羽音ありて、不覚なりや、賴時が側腹深く箭を射られたり。居並ぶ家臣、身を楯に八方に目配りて、射手を見當らぬまま急挙鳥海の柵に返して、厚く手當を施せど、賴時重態にて生死の間をさまよう如くして、貞任・宗任・重任・家任らの見添ふ床に、それぞれ遺言を遺して入寂せり。

一方、阿修羅の如く忿怒に燃えて江刺の富忠軍に突進せる川辺左衛門正胤は、馳寄る安倍良照の軍と併せて一萬騎、富忠退却を追って猿石川辺に追詰めてことごとく討取りしも、富忠は見當らず。猟師の報に、人首に山越ゆ富忠を圍みて、討殺したり。

安倍一族の悲遇に悦ぶ源氏の將士は、各々陣中に喴聲あがり、賴義は安倍氏を降すは年の内と算段せり。

一方、安倍方にては和賀の極樂寺にて賴時の仮葬をなし、その式場にて安倍貞任が日本將軍の継君を相續し、宣言せり。

一方、源賴義の再任期は仮任故に、一年たる期を越えたれば、賴義が獨断に安倍氏に征討の權限はなかりきに依て、再參に渡りて正任の申請せども、その勅許は下賜されぬままこの年は過ぎ逝きたり。

安倍一族は此の間をして要處に柵を築き、皆兵の宣布を領内に渉らしめたり。天喜五年十一月、陸奥は白き冬將軍が訪れるも、賴義は征夷の勅許を多賀城に待つも通達なきに、獨断にて挙兵し、總勢六萬四千人を卆いて磐井郡川崎に軍を進めたり。

貞任はこれを金爲行に四萬の兵を与へて河崎柵に籠らしめたり。河崎柵は、日髙川に千厩川・砂鉄川の落合に在り、その州丘に出砦を築き、源軍は吹雪を突いて黄海砦に寄せ攻めたり。

武運は安倍方に有利にて、吹雪の風を背に源軍は視界を閉す。向風に攻むれば、是を手に執る如く箭射にとらえて、一挙に弓箭は追風に力乘して、源軍を將棋倒しに兵馬を射殺したり。

射手三段に、敵箭を一矢も垣楯に受けぬまま、敵は屍の山を築き、詮なく退却の令ありて四散に遁ぐるを、金爲行は騎馬軍に追はせ、一騎も遁さずと討倒したり。途端、雪と血にまみれて、金爲時の屍を爲行は馬蹄にかけて、気に留めたる敵將賴義とその子息八幡太郎義家の姿は見當らず、追手を返したり。

時に、腰までの深雪を漕ぐようにして源賴義、子息の義家、その家来藤原景通・大宅光任・淸原貞廣・藤原範季・藤原則廣ら併せて七名にて、その脱路に命懸けの逃亡行たり。

黄海の合戦にては源軍の全滅にて、年は明けて康平元年と曰ふ攺號となりにける。面目を潰し、都に命からがら還りたる賴義は、參朝して苦しい辨解をなしけるさま、哀れなりと四衆は曰へり。

安倍古事録 四

勅許なる討伐行ならずとも、源軍皆滅の報は朝庭に於る諸卿衆の膽を拔く如く、安倍一族の將軍賴時の報復に怖れたり。

朝庭が急挙諸國より兵糧及び飼馬・兵士を徴發し官等にて官軍は募られり。亦、陸羽への役目も解任され、源斉賴を後任に命じたり。

安倍貞任は陸羽に存在する倭の郷倉を解きて地民の糧とし民の信を得たるも、淸原氏の反忠を知らずに、淸原一族反命を拾ひたり。源軍に倶ならずば、淸原氏の軍など安倍氏の敵では一蹴に伏される。貞任の勢は坂東堺・越州に達したり。

康平元年の秋、淸原氏は、平泉の中尊寺以前に存在したる安倍氏の菩提寺とも曰ふべく佛頂寺藥師堂に、源氏より得たる黄金二萬五千貫を奉寄し、事露見時の自衛手段とせり。

是を貞任は、和賀の極樂寺修復、荷薩體の淨法寺、閉伊なる西法寺、多賀城の荒覇吐神社及び塩竈の荒覇吐神社に奉寄せり。

康平三年八月、貞任は生保内より庄内を巡り、倭人にあるべく者を追放なし、武家にある者を刑殺せり。亦、倭朝に進駐せし者も刑に伏し、淸原武則に令し彼の領内に遁住せし者を貞任が立合にて、その刑に伏さしめたり。

淸原氏も亦、倭人を己が賴義との約を念書せしめたる知者を殺して、急場を過しけるも、武則は何れ事露見を怖れたり。然るに朝庭の討伐行は座折せるまま源氏は再任のなかるままにて年は逝きける。

康平四年十二月に朝廷は源氏を退けて、髙階經重を陸奥守に任じて安倍氏との和睦を謀りて、その使者を衣川に遣したるも、貞任は賛否のないまゝ康平五年に年を越せり。

髙階經重が、貞任の返事なきに依りて、十萬騎を挙兵し陸奥に軍別行と相成り、長蛇の如く發進せり。然るに、坂東の泰野にて軍を退きて歸れり。その由は、鎌倉にて源賴義が七萬騎を得て朝庭の任官を待はびたると曰ふ賴義への配慮なりと曰ふ。

朝庭に於ては詮なく經重を退けて、康平五年六月賴義を征夷大將軍に任じ、茲に至って淸原一族は七月に挙兵し、八月九日栗原一迫に源軍と兵を併せ、今までの怖感を去りける。

征夷大將軍の陣立は、淸原武貞・橘貞賴・古彦秀武・橘賴貞・源賴義・淸原武則・吉美侯武忠・淸原武道ら七陣にて、白河より伊津沼に安倍の先鋒を押突く如く抜き、玉造より磐井に進軍し萩荘の小松柵にて大いなる攻防が夜を徹して激戦せり。

此の戦にては安倍軍の戦殉一人もいださず、官の(※この一行、判読不能)その中に深江是則・大伴員季・平眞平・菅原行基らの官軍武將が討死せり。

安倍兵法としては、小松柵は敵總勢を結するに在り、その囮戦にて敗れたりと見せて要害の地へ誘う戦法なり。然るに、源軍總結までに防ぐ能はず、安倍軍は髙梨宿に退きて囮軍を本陣と見せ、實軍は征夷軍の後方に夜をして行軍し輜重の敵を討って兵糧・武具を奪取し、日髙見河を衣川に水運し了る頃、髙梨本陣はもぬけの空なり。時に、賴義地たんだ踏んで怒るも、先の戦の如く兵糧・武具は安倍軍に奪取され、進軍も髙梨に釘付けらる如く、ただ全軍の警に気を配したり。

安倍軍は川崎柵に官軍の来襲を備ふれども、三日を過しとも来らず、物見をして探らしむれば、髙梨の地は兵馬十萬に集めて出羽よりの兵糧を入れて士気𨄌々たりと聞きて、安倍良照は無念やるかたなく、昨年に淸原氏を討つべきなるを彼の黄金奉寄にためらったは不覚なり、と曰ふを宗任曰く、

淸原氏は源氏と通じたるは、兄上をして彼の時既承し居る事と聞く。討たざるは、武運を天に委ぬるとて今日に至り居るところなり。此の戦は吾等武運なく敗北せしとも、陸羽の民を私恨にして巻添ふを忍びてのこと。亦、吾が領域にても、敵に難遇を受けざる移住にも多忙たる故なり。

とて戒む。良照笑いて曰く、敵の輜重は我が軍なるものぞ。一両日内に奪取を企つなり。気に留む勿れ、とて軍策にこらしたり。

官軍は一波二波の戦法を攺め、一挙總勢攻に決し、髙梨を發てり。山野川辺道に溢る如く輜重の車音、地を震はし萬馬の蹄音、耳底を突く大軍の来襲は、川崎柵を護る術なく、安倍軍は關の内に集し衣川柵に雌雄を決せんとて、髙舘・鷹巣・國見山・前澤に陣をなしたり。

官軍七隊にして、長蛇進軍とせず、山野の要害ありとも椙帶の進軍として、衣川に迫れり。是れには安倍軍も彼の寄手に合せて應戦に兵を配すを能はず、敵前途にある山野に灾り。秋の落葉は油の如く燃えたぎり、敵進みたづろぐ處を討攻むも、多勢の前には徒らに戦殉をいだし耳と相成り、八十六間柵も破られ、千間柵も破られ、髙舘は炎上し佛頂寺も被災して燃ゆ。

貞任は自ら馬を駆て、八幡太郎の陣に突進して敵視を引き、宗任は衣の舘に火を放つ。鷹巣舘も燃やして、膽澤に退きたり。貞任是れにおくれまづと浅處を渡らんとせしとき、後方より大音聲にて貞任を呼びたり。白き馬にまたがりて満月の如く弓に箭をして射んとし、口にて唱ふ如く曰す。おもむろな聲にて、

〽衣の舘はほころびにけり

貞任、暫時駒をとどめて、義家に扇を振り返り、

〽歳を經し糸の乱れの苦しさに

とて返しければ、義家つがいたる箭をゆるべて、貞任が砂塵に消ゆを見送りて、兵を留めたりと曰ふ。かかる様を見つる衆は、貝を吹き掌を打って武情の誉れを讃美せり。

是くして戦を厨川に固めたる安倍氏に、武運ありや。

安倍古事録 五

衣の舘は康平五年九月五日をして灰と消ゆも、官軍の行手には鳥海柵、膽澤の磐井柵驛、白鳥驛、磐基驛らあり。前澤切通し、大麻生野柵、瀬原柵が衣川出城なり。是らの攻防にては、平孝忠・金師道・安倍時任・安倍貞行・金依方ら、安倍軍の將士が討死せり。

黒澤尻柵・鶴脛柵・比與鳥柵・蔦木柵にては官軍に走りし淸原軍五千人が、安倍良照の戦謀にかかりて死したり。

九月十日、紫波柵・矢巾柵にて源賴義、流箭に腕を傷負たり。この二柵はことのほか建固にて、五日間の攻防を經したる間、厨川柵にては安倍貞任が重臣の髙橋越中・菅野左京ら三千餘騎を三手に分けなして、東日流に子息髙星丸を警護せしめ、後世に再興あるべきを賴みて落しめたり。

時に高星丸三歳にして、三手に落つゆく。女人多き怒間久内道をして姫神山麓・波打峠を名久井山麓を經て糠部に至り、怒干怒布より舟にて神田にたどり、十三湊に鍋越山を經て赴りたりと曰ふなり。

次なる落方は、東日流街道を鹿野に至り、矢楯峠を平川になるもの。次なる落方にては、仙岩峠を生保内に越え、飽田にいでて怒代に至り、鷹巣にたどり大舘より矢楯峠を越え平川に至る武士ら二千騎なり。

その落方、落着の頃にして厨川柵・妪子柵・里舘二股柵らに安倍軍は竉城し、兵術すべてをつくして官軍を多く討たしむも、その攻防九月十四日より十月七日に至って落城の兆見えざれば、義家是を思案に徴せり。厨川妪戸の要害は兵を圍みて時を過ぐれば、冬に至りて勝算是無く、兵を攻めては徒らに殉ずる耳なり。

依て義家、とある夜に民家火事に起りて焼くるを見て、南無八幡見えたり、と家来に四辺の民家を壊しその材を厨川柵要なる處に積めり。その積まれき髙さ廿尺を越え、厨川柵内を見降し程なる、民家壊材一千三百六十戸と曰ふ。

十月十六日と曰ふが九月十六日の両説ありきも、十六日義家自から石火を打ってこの山なせる材山に火を放てり。折よき風はその火をたつまちにして紅蓮の炎となり、火龍が空を飛ぶ如く、厨川柵なる立木・城棟ことごとく焼き移り、その火炎のなかにて安倍貞任は千代童丸と對座なし、自刃して果たり。

柵内に多くの城兵居住ありと思いきや、主を併せて少か三百人に足らず、それ老兵のみにて、いつ頃に城を抜けたるや賴義及び義家は阿然たり。十萬に越ゆ大軍をして少か三百人の老兵(※この一行、判読不能)ならず火炎の中より官軍は貞任及び千代童丸の遺骸をいだしたり。矢楯にある貞任の首を斬落し桶に塩漬し、千代童丸をも斬首せんを義家はとどめたり。死者を取るは武門の恥なる故も、さり乍ら、朝廷への證に貞任の首級だけなるを以て、千代童丸及び貞任の胴骸を老兵の田口仁左衛門に渡したり。

この骸を田口仁左衛門は涙乍に玉山に運び、湧湯にて洗い淸めて火葬し、東日流に旅立てり。埋葬は石塔山なり。

〽歸依佛の君に仕へん中山に
  神のしめゆふ密巖淨土
      田口仁左衛門 七十才

〽日の本の久しき代々をつぎ櫻
  花になれにし散る身を碎く
      川辺左衛門 八十二才

〽御首なきやませの墓に君ありて
  いつぞ歸らむ賜首と御魂を
      生保内淸人 七十六才

〽代々の君千代に安らぐ石塔山
  岩に打つ鳴くかじか泣きさし
      菊地小五郎 六十八才

貞任・千代童丸父子の遺骸を葬りし老臣の遺歌なり。厨川にては安倍重任・藤原經淸・平孝忠・藤原重久・物部継正・藤原經光・藤原正綱・藤原正元らは淸原武則の進言にて打首とさるるも、安倍宗任・安倍家任・安倍爲元・金爲行・金則行・金經永・藤原業近・藤原賴久・藤原遠久・安倍正任・安倍良照らは宗任の請願にて死罪を赦さるとも、宗任を除きては放浪かまえなしとて、思ふに委せて四散せり。

安倍氏に反忠せる淸原武則は、仮勅許通り陸奥鎭守府將軍となりけるも、後三年の役に崩滅せる運命に、知る由もなかりけり。宗任は伊予に渡りし後、筑紫松浦に移りて後世子孫は松浦水軍たり。

以上、安倍古事録全文なり。原文は漢文なるも、三春火災にて焼失せり。本巻は東日流語部・帶川傳次郎談を聞書せしものなるも、實史に相違なく證し置く者也。

寛政五年十月二日   秋田孝季

外濱史證

東日流外濱は宇曽利(※以下欠落)