安倍氏歴抄

安倍氏之事

抑々安倍氏之高祖に在りては、阿毎氏を先稱す。即ち大祖は賀州之犀川鄕にて三輪山及び白山に信仰を保つ一族にて、その初代を阿毎と曰ふ。古より山靼に相通じて代々に生々の勢を得たるも、東進に征して耶靡堆に征着永住す。三輪山を祖宮とし、姓を安倍氏と攺めたり。

孫王安日彦王の時、築紫より國を併せ来たる日向の佐怒王に敗れ、一族は東國に脱し、更に東日流を日本中央とて王土を築きぬ。國領は北に流鬼國・千島・神威茶塚・日高國を以て民の併合を謀り、陸羽・坂東・越を併せて國號を日之本國と稱せり。

遷都を東日流に創めてより國勢の都合に合せて、荷薩體・閉伊・伊治・来朝・白川・武藏と移り、坂東の安倍川・越の糸魚川を以て倭との國境とせり。王政の儀は五王を以て治司とし、正王を中央にして、東西南北に四王を驛傳して國治せり。神は荒覇吐神を一統信仰として、日輪を陽とし月界を陰として崇拝せり。更に宇宙なる星界を、神祖の靈とて祀りぬ。

生々の神は天地水一切のものとて、偶像を造らざるは創めなる信仰なり。日本國なる民族の祖は、山靼より渡来多くせるも、此の國に古住せるは三十萬年乃至十五萬年前と曰ふ。石を割りて刃物とし、火を用い居を造り水を汲める器を造るより、金銀銅鉄を造りいだせる諸法は山靼流通に依れるものなればなり。古きより稻作を耕し、人をして級を權政とせず相互相睦むを以て暮しの一義たれば、古来の王政にゆるぎなく、侵敵あらば民族挙げて皆兵たり。

身命は神なる授持なれば、死を以て殉ぜるを旨とせず、民の身何よりの大事とせり。依て戦に臨みては利ありて闘い、不利にして退くの兵法、古来の掟とせり。死を以て戦ふは神の御心に逆ふとし、敵に當れる策謀ぞ倭人の及ばざる秘術ありて、その侵領ぞ奥深きに至らざるは史實なり。

寛政六年五月四日
秋田孝季

創誕解

凡そ世にあるものすべてには、創りありて誕生す。古来より陰を先として、陰陽と曰ふ。陰とは暗なれども、宇宙は暗にありて天體を誕生せしむ。暗とは無明なれども母體なり。

宇宙をして暗々たる界は無相に見ゆれども、重力を存し、それなる重力にて日月星は誕生せり。即ち重力とは、時空物質を創り、如何なるものをも圓にせむ。押力・轉力・引力を存して暗中に明を創り、熱を創りて生滅を轉ず。陰は暗と冷なれども、光熱諸物質の胎藏せる母體なりとは、是の如き理原に依れるものなればなり。

日輪・月界・星々の一物に角型なるなきは、暗中なる萬方の重力相加はりたる故縁なり。依て宙に定着と見ゆれども、常にして圓週す。光熱は激しく見ゆれども、いつしか冷むるの運命あり。暗は久遠なれども、光熱は逝きて甦るなき片道なり。依て陰を先として、陽を後に稱せる故縁なり。

即ち鳥をして卵が親なるか鳥が親なるか、論じて結びなき先世の事にては、神のみぞ知れる處なりと諦むは迷信にて、生々萬物には進化あり。人間とて萬物の中より生々進化ありて現になせる相なり。依て宇宙日月星とて生滅あり。生々萬物何れも生死ありて、旧来は保つ難し。日進月歩は時を還さず、旧来は遠く去り逝く耳なり。新生はその爲に存せり。

寛政五年五月六日
秋田孝季

宇宙之重力は陰陽之事

總て宇宙之物質、光源の親は重力にして、暗き時空もなき處に左右横差し浮力・堕力、横起せる處に光熱ぞ發起す。是ぞ想を絶する大爆裂なり。その光源發熱なる密度の大小にて、宇宙の暗黒物質は誘爆を擴げむ。宇宙の天體は、是の如く理源に依りて生じ日月星は成れるものと覚つべし。

宇宙に重力なくして光源物質は生ぜる無く、日月星また宙に浮着せる無し。点なるは起点にして、擴力は圓心に動ず。依て圓心力は宇宙の法測なり。圓心を外る暴走物質は火熔して生滅せること流星の如し。宇宙の成れる天體總ては、圓心重力にて宇宙の構成諸天體は位置すると覚るべきなり。

圓心重力は互に引力を以て、天體を恒・惑・衛の從力にて廻天す、と曰ふは紅毛國人なる博士の説ける理學なり。宇宙に重力なくして、天體の成れる無し。恒・惑・衛の成れるは、圓心重力なる誕生時にて次順す。

物質に輕重ありて、量に依らず重力にて從順定まりぬ。即ち氷は水より輕きが故に浮き、雲水は氷より輕きが故に雲と浮く如くなり。眼に見ゆ天體に遠近あり。暗く見えざるとて巨星あり。大なる明星とて、近けるは小惑星たりとて大星に見ゆ如し。

寛政五年六月七日
安倍藏季

安倍氏之日本史 一、

わが丑寅の國は、もとよりの國號は日本國にして、倭國とは異にせる源点に存す。古来より國造りは山靼に習へて、民族衆結に各々族主の長老談議にて王を選びぬ。民族をして人の上下を造らず、生々の富貧を及ぼしなく、一汁一菜とて相分つ睦を以て民族共榮の國造りをせり。

依て神への信仰また一統し、侵敵に民族皆兵を以て國を護り来たるなり。山靼と通交せる故は、世界を覚ゆべく智能向上を求む故にて、その求及は西奥なる紅毛人國に歩を進めたり。依って古代オリエントなる諸史を得たり。

古来より西洋を知るは奥州にて、採鑛・産金・産馬飼育は倭國の及ばざる處なり。山靼へのしるべは、日髙國を渡島と稱し、樺太國を流鬼と稱したる由縁は、その道しるべに用いたる通要語なり。

トナリと稱せる皮舟、ハタと稱せる丸木舟にて玄武の海峽を渡り、黒龍江を西に舟登りして蒙古國に至りブルハン神の聖湖を拝し、更に天山なる西王母の聖湖を拝し、西域にギリシア國のオリンポス山に十二神を拝し、更にはエジプトなるラー神・アメン神を祀れる石神殿及びシュメール國なるジグラットにルガル神を巡禮を果して、歸りは東日流語の大師たりと曰ふなり。

明治三十年八月六日
末吉

安倍氏之日本史 二、

古代に日本國に渡り来たる古人らは、三十萬年前と曰ふ。何れも山靼よりの渡来人なり。亦、紅毛人も多く来たると曰ふ。地民は是を鬼と稱したるは、鉄を造りて道具とせる故なり。肉を好みて喰う故に鬼と曰ふ。

渡島の地民は山靼人より毛織物・綿織物を着用し、色彩玉を首飾とし、履物はケリ帽子をケフと稱して用いたり。女子はフランケと曰ふを肩にかけ防寒衣とせるは、今になる方言なり。

丑寅より更になる北領を日本國とせるは、安倍安國が征領にして、糠部なるを日本中央とせり。安倍安國が從徒百八十人を卆いて、渡島・千島・流鬼島を日本領とし、地住民と誓約せり。クリル・オロッコ・ギリヤアク・ニブキと曰ふ地族の長老を國守とし、地産の物交をなせり。

北領は海産の幸多く、山靼に渡るべく道渡りなり。黒龍江水戸口は流鬼島の北位地に存し、海峽を渡るはツパントミ邑よりマツオマナイに渡りて、渡島より流鬼島に渡り、更に山靼に渡るべく、三海峽をトナリハタ渡りと稱せり。即ちトナリとは皮舟、ハタとは丸木舟のことなり。

亦、飽田より西海を山靼に渡るを満達海路と稱し、是に海交せしは後代なる安東船が往来す。山靼に通交せる故に、わが日本國は産金・牧馬の益を得たりと曰ふ。

明治三十年八月廿日
末吉

安倍氏之日本史 三、

抑々丑寅なる日本國は、流鬼・千島・渡島の地族の他に、津保化族・阿蘇辺族・麁族・熟族・支那民・耶靡堆族を併せし混成民族の一統構成王國なり。創國の楚は民族併合し、山海地産にて山靼流通なし、依りて永代に営める益あり。世々の子孫に継げたり。

安倍氏の太祖は阿毎氏とぞ、支那旧唐書、亦新唐書に日本の王とて遺りき。安倍氏と攺むは、耶靡堆よりいでこして後世なり。

東日流に稻作を拓し國を創りて、代々を安泰に渡りたり。代々をして暮し豊ければ、常にして宇宙の運行を學び、迷信を除きて眞理を極むを天然神格とせり。依て紅毛人とて師となし、山靼に諸識を究修せりと曰ふ。

明治卅年八月六日
和田長三郎末吉

幕府秘事丑寅探索

老中・田沼意次、古書安倍史暦を和賀なる極樂寺より入手し、幕府秘事にして、奥州日之本國なる安倍一族の穏金山所在を探らせども、果さず退役す。古来より幕府にては奥羽亦は渡島・樺太までも有識の者を遣して調ぶるも、安倍一族が秘藏せし隱し黄金洞及び金山採鑛の所在を、果せざるまゝ現に至りぬ。

先づは、源氏の度重なる奧陸羽への侵攻。南部氏・佐竹氏、近代に至りては官民を不問探索しきりなり。銭賣吉次・松尾芭蕉・間宮林藏・伊能忠敬・吉田松陰の密命に依りて来たる者、更には高山彦九郎らなる智識人の本意は、安倍一族の隱し金山亦は何萬両に測り知れざる金塊秘藏之地を探るが故の大志に依れるものなりと曰ふ。

亦、藤原清衡がいざこそに秘藏せし奥州の秘洞ぞ、安倍史暦に記されきも、その繪圖なるは旣にして剥取られたると曰ふなり。

明治三十年八月十日
末吉

東日流古邑藤崎之事

東日流奥法郡・平川郡の堺、汗石川・平川の河辺に、治暦丁未年に落着せし安倍厨川太夫貞任の次男・安倍髙星丸が落着せしより、白鳥舘なる居城を築きてより川湊をして十三湊往来し、馬場を舘邸にせる六町四方なる城構とせり。

古きより加之地は淵崎・林崎・櫻庭・河辺崎・平川崎・汗石崎らありて洪水の来歴に多く、地民は墳チャシ亦はフンチャギと稱せり。墳チャシとは墓城の意にして、フンチャギとは水鄕と曰ふ意味なり。藤崎城域にては、民家ことごとく柵内に構て常住し、一戸三頭の馬を飼ふるを掟とせり。亦河舟を連らねて舟橋とし、百田目付・飯田目付・行丘目付・櫻庭目付を配し、行来の人を審したり。

稻田拓田せるは、行来川・汗石川・平川の引水に依れる温水を水利とし、十方に堰を通し稻田拓けり。古来より稻を耕して暮せる傳統にあり。十萬束田・五萬束田・一萬束田の地格に、民はその賦貢を納めたりと曰ふ。

行丘・板野木・鬼澤・大佛華に鄕藏を設し凶年に備はしめ、外三郡なる十三湊に安東船を造りて、北領に海産地産を商易とし山靼に諸智識を得たり。磁石羅針・日測器械・星座見・測暦法・日計月計算術・山靼文字讀書・鑛山採鑛法・地測海測図法、應用習得にては支那揚州に渡學せる者多し。

藤崎城にて安東貞季が大定丑寅塾を設し、山靼歸化人を塾師とて學ばさしむは、わが日之本國なる創なる學舎なり。修學に才ある者は山靼及び紅毛國にまかりて、安東一族の世界に出生せるもの多きなり。大定丑寅塾とは、支那年號なる大定壬午二年、金國・世宗帝なる年に當り、我が國にては應保二年に當るなり。

時に安東船にては金國との流通に久しくして、その歸化せる者多く、金氏を姓とせるは彼の國なる歸化人なる姓なり。金國は契丹の天祚帝を併せたるは、契丹の保大五年、金國大宗帝の天會四年なり。我が國にては大治丙午の元年にてなれる國にて、金國は大祖帝収國元年・契丹の天慶五年・我が國に永久乙未三年に創むる帝國なりと曰ふ。

藤崎舘にては十三湊をして行来川を水路とし、途中なる川湊は富萢・若宮・木作・鳴戸・赤堀・川除・大原湊・板屋野木・藤崎をして舟場あり。安東太郎貞季・藤原元秀らにて築きけきものにて、十三湊にては中嶋築港・千貫築港・十三邑築港・鰊崎築港を設し、唐崎舘とて異人なる舘をも設したりと曰ふ。亦船舘を鮎内に設し、百石・千石船の造船を盛んならしめ、異國船大工を唐川に住はせて寺院も建立せしめたり。

祖来より人をして上下を造らざるが故に、藤崎城邸にては平等教院を建立し、一族平等の佛心を説きたるは佛法を入れたる創なりと曰ふ。古きより荒覇吐神を一統信仰せる一族に、異教を入れたるは古老の好むなけれども、山靼より古来より佛法以前なるギリシアなるオリンポス山十二神・エジプトなるラア神アメン神・シュメイルなるルガル神・山靼なるブルハン神・西王母・女媧神・伏羲神ありて是を併せたる神ぞ荒覇吐神なれば、佛法も亦荒覇吐神に加へたり。

佛法の地シブア神・ヤクシ女神をも入れたりとも曰ふ。是を白山神とて宗併信仰せるは、オシラを神司どる巫女らにて祀られたりと曰ふ。

藤崎邑は秀靈山・巌鬼山を三𡶶に天地水なる神を拝し、平川に渡り来たる白鳥が遊泳し、雪田に丹頂鶴の舞をみる處にて、古き代に是を天なる神鳥とて平川郡に羽衣神社を建立せしに、南部氏は是を羽黒神社と攺しより渡島より飛来を絶すと曰ふ。もとより是の地に安東髙星丸が和賀の極樂寺を分寺せし跡にて、中尊伍佛を以て建立せし處なりと曰ふ。

元禄十年五月一日
藤伊美作

藤崎古史抄

古き藤崎を説きたる古書ありて、是を淵羅崎とも曰ふ一説ありぬ。此の書は、古史東日流抄と曰ふ。建暦辛未年に、金光坊圓證阿闍梨の記せしものなり。

金光坊、行丘なる中野原馬捨盛に草堂を建立し、東日流に念佛布教に一代を捧げたる上人なり。上人は常に藤崎城下に念佛布教し、北邸沼の辺に保食神社ありて衆を集め、念佛な攝取不捨を説き、他力本願の平等救済を説きて信者を得たり。

木洞のありき老松に宿りて、多人の施を授けたる故に金光坊此の老松を施主の松とし、そばに一宇の草堂を建て是を施主堂と號け、阿弥陀佛の本願を込めにして京師鹿谷なる師の源空が一刀三禮に刻みける阿弥陀佛を安置し、更に叡山慧光上人より授拝せし聖觀世音菩薩を祀れり。

時なる藤崎城主・安東宗季は行丘に西光院を、家臣・甲野七衛門通吉に命じて建立なし、近鄕の衆集いたるも、古来よりドス病にかかれる者は掟に依りて馬捨盛に生涯を送る習ありて東日流諸邑より此の盛に籠らしめたり。

衣食住も貧しける病人、同處をして死ある日まで相ともに縁者の加護なきまま逝きけるを、金光坊は哀れみてせめて雨風降雪にしのぐる建物をと奉寄の巡施を始むも、念願に達せるは乙亥年にて建坪五拾六坪、檜屋建立せり。然るにや床病の寝具無く、十三湊入江の藻草を編て用ふる労々、亦毎日なる糧の貧しきに金光遂に床して、吐血病にて建保丁丑年三月二十五日寂せり。

その金光坊が遺せし書の一巻に古史東日流抄ありて、次の如き文なり。書頭に古史東日流抄と題して書留む。拙僧、陸州栗原閉伊な遠野、飽田なる地を巡りて東日流に入りぬ。先づ矢楯峠を越し藏舘に入り、大圓寺に食客す。外濱に検非違使方ありとて、鎌倉問駐所の佛寺建立の許を請ふるために赴けど、判官なる二階堂氏、飽田鷹巢に移りて移方すと曰ふ。途方是無く、外濱にて地の漁士に異奇快々の話聞き及ぶ。浪浮かなる外濱なる北に蓬田邑ありて、中山より流る川に金色に光る佛像ありて、叫ぶ聲ぞ中山にこだまがえして夜も眠れずと曰ふ。

金光坊聞くや、蓬田に赴きてその川に登りゆきて、一躯の阿弥陀像を抱い来たりぬ。當時にして東日流にありき修験の行者ら、病を祈禱し本人の身交りとて、水流に佛像を流す習是ありての捨佛なり。金光坊この川を阿弥陀川と號け、地の人々に念佛を説きて是の如き快奇談を鎭めたり。

後日かかる祈禱法を留むるために中山なる修験の道場にまかりゆくも、山道に迷いて暮れかた地のマタギ即ち狩人に道しるべを覚て、石塔山なる道場にたどりて法論に一夜を明す。

東日流はフジラサキと稱し、古来より神像を身替とせる習あり。フジラとは、流れに身替りを死界に送りて、己が病傷を治すと曰ふ迷信あり。

平川の汗石川落合・平川岩木川落合・岩木川十川落合の淵に流すを常とし、何れも海に出づる流れを身替り流場とせり。依てフジラサキとは、藤崎なる地名に非ざるなりと曰ふ。

正元己未年三月一日
幾田次郎左衛門

平川淡魚抄

古来より平川名物漁なる川魚料理ありて、珍味澤山なり。八ツ目鰻・眞鰻・雷魚・銀黒鯉・平鮒・黒鯰・鯎・河蟹・鮎・鮭等にては、春夏秋冬にその味覚を得るなり。東日流にては海魚もさり乍ら、内の川魚また美味なり。

料理は先づ以て活魚を包丁にてさばき、種油にいたむもよし、亦刺身よし、煮物・焼魚、東日流ならではのでんがく・きりくみ・糠漬にて、四季を不問に味はうは古来の傳授なり。

東日流川魚料理、百七十八種あり。何れも甲乙を付難き料理法なり。茲に安東一族が書に遺せし川魚料理は、鯰の洗刺身・鮒の雀焼・鮭の塩漬・鯎のでんがく・鮎の塩焼・鰻のたれ焼らありけるは古今に変る事ぞなく、今に漁法と倶に遺りき。

寛政五年八月廿日
秋田孝季

尋史探抄

眞實は一つなり。古来の事は諸事語り遺さるるも、史實に離れ語り良き選件の造事多く、一説尚以て多説に遺りぬ。まして世相世襲の權にて事制ふるの例多く、片寄りて史實の穏伏是ありて、都合良き事耳遺りき。ましてや朝幕の征史にや、飾事の多くして、眞の實相や忘却の彼方に立消ゆ耳なり。

若し古書ありて是を世にいでさば反徒の罪科耳ならず、是を奪取して焼却し通例を護持し来たる權根の枯ぬ久しければ、僞史も正史とて衆脳にとどまりぬ。若し權根の枯るあらば實史の芽吹きあるも、尋史に貧しく證に途絶す。

そのときに備へて、本巻を末代に遺し置きけるは丑寅日本史傳なり。拙者先代をして寛政五年より五代に渉りて綴る修成史實に、三千六百七巻にして茲に永代保存の封箱に集納し、當陽の世ぞ至るるまで密とせしものなり。

明治四十四年八月一日
和田末吉

藤崎舘之事

安倍一族之城柵は大城とて、礎石に立柱また土臺を乘施することなし。立柱すべて掘立にして、一階は總て土間なり。二階は半割の垂木に、敷板を施して住居とせり。

濠の土手上に柵を圍み、水中に尖り杙を潜打し、水に飛込みては串刺したりき。八方に櫓を施し、邸内に不落葉の木を繁しめ邸内を幽め、城外見望閉くる立木は伐して遠眺を叶はしめ、寄手を謀らむなり。藤崎城にては萩野臺の合戦、亦應永の乱なるありて、その護り固く史に遺りぬ。

藤崎舘、馬舎十二棟・糧庫三十二棟・打物庫六棟・出城六方に備へて、城外二重の濠をして寄手を防ぎ、茲にその明細は別紙に綴りありて省略す。

抑々東日流にありて他類なき平地邸にて、城造に要害とせるは平川・汗石川の引水濠にて城構とせる耳なりせば、その構造にからくりを施したり。

寛政五年九月二日
秋田孝季

城堺域之事

城を基とし、その領域にぞ道を通し、橋を架くるは要なり。下切道を行丘より十三湊に至るを山根に開き、亦行来川を水路として、自藤崎十三湊の架橋を禁じ、舟橋をして上り下りの船を通行せるに便を謀りたり。十三湊に安東船を造るに、地に資材便なりせば、木造船を中里なる若宮に作りぬ。船材は大葉檜にて、潮に輕く施工易し。

依て、安東船をして七種あり。山靼往来船・揚州往来船・西海廻船・東海巡行船・千島往来船・流鬼往来船・満達往来船ありて是等、八艘往きて一艘還は揚州往来にて、船倶に賣却せる故なり。

ハタは磯舟にて、トナリ舟は川舟なり。藤崎城なる船場にありきは此の種なり。

古来より安倍一族の築城はその選地に、大河辺または臨海濱に築く多し。地型・地物を應用し、必ず城邸に牧馬の草場を自然に備ふるが故なり。

寛政五年九月三日
秋田孝季

雄馬除精手術之事

古来山靼にては、羊馬の雄精を切除せり。依て馬牧に群牧せるを叶ふを、今になせり。馬産の一義は、秀なる種馬を以て子孫に優る馬の出づる他、農耕に能く、一石二鳥得あるが故の手術なり。

常にして山靼より種馬を入れて秀馬を遺したるは、丑寅の牧に名馬をいだせり。八幡駒・糠部駒・南部駒・三春駒・相馬駒らを軍馬とせるは、武家の求馬、無上の誉とせり。

寛政五年九月三日
秋田孝季

藤崎よろじや之事

藤崎邑之内に入るは何れも、百田口・葛野口・飯田口・林崎口より他に入るものは、犯人とて捕はれたり。邑人をして皆兵なれば、古きより邑掟を護りて他人の侵入に警羅を配り、領中の治安を心せり。

得學塾・武道場を設し、邑中無學たる文盲なく、武術の心得無きものなし。いさば屋・いかけ屋・鍛冶屋・呉服屋・刀研所・馬具屋・水車粉引屋・油屋・女郎屋・飲屋・銭湯・造酒屋・米問屋・雑物商・芸入小屋らありて、その商々を営み百姓にては朝市に物交す。

部落毎に名付あり。行丘通りにては、葛野御所跡・鹿島神宮濠端・下田あり。百田通りにては、船場角・法華寺前・中濠・八幡横にて、林崎通りにては平等教院路支・舘尻・濠留あり。飯田通りにては下田唐糸・濠落合・馬場路支らありて、諸家軒を連ねたり。全戸二千戸に達したるは、應永三十年の頃なり。

寛政五年九月三日
秋田孝季

藤崎舘安東武鑑

日本將軍安倍氏之流胤・厨川太夫貞任の次子、安東髙星丸を以て舘祖とす。

安東髙星丸、東日流落着せしは治暦乙巳年なり。永保壬戌年、舘を平川淵崎に築き、寛治己巳年に落慶す。常にして十三湊なる砂崎明神舘主・安倍氏季の庇護に在り、陸羽に散住せし旧家臣を呼招して、茲に東日流大里の拓田、十三湊の山靼流通を振興せしむれば、東日流六郡豊かなる民の隆営保つたり。

六郡を二区とし、内三郡即ち鼻輪郡・平川郡・稻架郡を藤崎領とし、外三郡即ち璤瑠澗郡・有澗郡・奥法郡を安倍氏季の十三湊領と相定め、その堺を岩木川平川落とし、西を妙堂東を行丘を以て堺とす。

髙星長女・千代媛、平泉秀衡のもとに腰入し、陸羽を富ましむ。
安東氏の安倍遺産にその榮を隆興せしめたるは、安東領をして糠部堺・羽州火内堺を以て北方を京師、鎌倉の治外領とせしにや、安東一族挙げて渡島・千島・流鬼島を治領せしむ。

一族陸海にその威勢に達し、髙星丸次子・星任は宇蘇利・糠部を治領し、三男重季は外濱・安泻を治領せり。亦十三湊・安倍氏季は渡島をば家臣に配し、北領治安にその威を成就せり。常に京師の情を探り、安東一族は平氏に貢し、源氏の崩滅を謀りて、天喜・康平の乱に殉ぜし祖恨を源氏に赦さず果したり。

永久甲午年五月二十八日髙星入寂し、高恒後を継ぎける。東日流中山石塔山に、祖来の墳墓あり。代々をして安東氏の聖地たり。古来より山靼の葬風に習へて、墓處を密として世に知るるなきは、墓處に道を通さず澤を道とて歩み、墓參も亦葬の他に參拝をせず、神なる自然を犯すことなかりき。

高恒をして治司は泰平にして、安東一族は海商をして利益し、世襲に遺りきは安東一族の忍の一字なり。

寛政五年九月十日
秋田孝季

藤崎異説抄

安倍・安東氏正系たる藤崎舘に、近来錯乱甚しき史傳在り、是もとより信じるに足らざる文面に始終す。

その一に
常陸白鳥邑主系図
なる他、
新渡戸文書
及び
北條九代記
津輕考
會津四家考
八戸南部五世傳
津輕異聞録
新選國誌
津輕志留遍
津輕年代記
津輕郡中名字
津輕旧事記
南部八戸文書
開城繹火
津輕降人交名

他數多き。安倍・安東氏に縁る文書ありきも、何れも木に竹を継ぎたる如し。何れも古事一統ならず、又聞なる他、自考傳多し。即ち宗家・庶家の混成乱筆にて時代を相違し、その庶家に在きり安藤の姓を宗家に結びたるは不屆き至極なり。天明の三春城失火なくば以上なる異史の除かる眞證ありきも、それを好機とてかかる作説の史傳ぞ處々に流るをなげかはしき。

十三湊をして亦然なり。是れには津輕藩史を以て逑らる一説、更には諏訪縁起・十三往来・十三新城記・松前旧事記ら加はりて記せるも、是また誇大せる意趣ありて正史を欠くる多きを了然とせり。

とかく安倍安東一族の史は朝幕の世襲にありにくく、秋田實季の如く生涯を朝熊に穏世さるるが如く實史をば世にいだされぬままに永代を空しく過ぎしかたの故なり。是の記に挙げたる異説にぞ惑ふべからず心せよ。

寛政五年八月十日
秋田孝季

藤崎寺社史

古来より藤崎舘に存在せし寺社は、表鬼門の三日月神社、裏鬼門なる平等教院耳なりきも、城邸地位を擴げむ程にして、裏鬼門に荒覇吐神社、後稱磯崎宮を建立せり。

安東一族の信仰の一義は荒覇吐神にて、次には中尊伍佛の他、修験の金剛藏王權現垂地尊、金剛不壊摩訶如来なり。神に曰さく祭文はアラハバキイシカホノリガコカムイなり。佛に曰さくはノウマクサンマンダボタナンバンなり。

神佛の本願を常にして祭りを催すに、年をして春の稻神祭、夏なる念佛陀という稱名踊り、秋なる星祭り、冬なる白鳥祭りなり。是ぞ安東氏マツオマナイに去って絶ゆも、その寺社跡ぞ今に遺りける處なし。

古代藤崎をして地住民にガコブルハン神を崇拝し、白鳥の飛来を以て祭れる冬祭りに、平川を水なる神とし岩木山をホノリカムイとして、天然そのものぞ神々たり。

寛政五年十月二日
秋田孝季

東日流正統史證一、

凡そ三十萬年前、西國の大國の大祖人、山靼より流鬼國に渡りて、渡島を經て東日流に落着せしを阿蘇部族と曰ふ。次に来たるを津保化族と曰して、人祖の楚となりぬ。十萬年前のことなりと曰ふ。

東日流は三方を豊漁なる海産の幸、丑寅の山幸、山火吹きて成れる大里。丈なせる葦を刈りて稻を作り、民併せて成れる荒覇吐の王國ぞ、人をして上下を造らず國擴の荒覇吐神、諸國に布授し、民の暮しを護り給へき。

アラハバキとは、神々の修成總併の號なり。即ち、遠くは紅毛人國なる神々より山靼のブルハン神、支那なる西王母に縁る白山神、天地水を三輪とせる三輪大神。是を唱へて、
アラハバキイシカホノリガコカムイと曰して、
崇むは太古なる實相の丑寅に渉りし信仰なりと曰ふ。

抑々茲に世襲の興亡なくば、丑寅の國ぞ天下泰平たる國土たりぬ。わが丑寅の王は太古に在りて阿毎氏と稱し、次には安倍氏と稱したり。

古き世に紅毛國より此の國に来たる聖者ありぬ。
その名をサンクレスと曰ふ。その眼ぞ青く、毛皮を衣とし、肌白き紅毛の女人を從へて東日流大里に住めり。その地を、紅毛崎と今に曰ふなり。

此の紅毛人、葦を束ねて住居を作り、ルガルと曰ふ神を祀りなむ。從女はその娘にて、安日王の二室と相なりきは長女なるカルテラなり。その次女は長髄彦王の三室に腰入りて、その子孫五代に渉りて青眼紅毛の産れきも、是れに系ずる子孫はみな肌白き美女ぞ生れきこそわが丑寅の美型なる子孫とて羽州に多かりき。男子に生れき者は背髙にして六尺になる大男と相成り、地人は是を鬼とぞ曰ふたり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

東日流正統史證二、

國の王たるを、倭國にくらぶる想いにて丑寅日本國の王を古想する勿れ。古来より丑寅日本國王たる髙御倉にありきも、大殿大宮をまた想ふ勿れ。太古より日本の王たるは、衣食住に於て民との相違せず。邑をして柵内に倶住居し、常日に政事なからぬときをして耕にも勤め労々せざるはなかりけり。祖掟にして、大華なる伽藍は一棟だに建るなく、人住まぬ糧倉耳髙殿とて造りぬ。是をイゴクと稱し、凶年に備へし穀倉なり。

各戸の衣食住は部に依りて造り、總て家を建つるも邑人總出の奉仕なり。部の民をなせるはその教導をして、農・工・商と家傳の教ありて成る。次継の育成叶ふが故なり。部の民とは、農は田畑耕作、工は總てなる工作にして、商はその物交に巡る者を曰ふ。また兵は總民皆兵にて、部は非ざるも常時として防人を、男子に生る者一生に一度の武練を二年相務むを掟とせり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

東日流正統史證三、

東日流要史の項を記せる日本書紀をして見る阿部比羅夫の征夷行は、地傳と相違し征討果しけるなし。此の書にいでこし有間濱とは、現なる馬郡にして小泊北見浦の出島濱のことなり。亦肉入籠とは、外濱なる志利子辺にて、今になる後泻なり。

亦羊蹄山とは大倉山にて郡領に定めたるなく、捕れたる處にて、比羅夫の再度の征討は敗北に了れり。亦粛慎とは流鬼島なる別稱にて、敝路辨とは渡島別稱に、靺鞨とは山靼の通稱なりせば、比羅夫の至らざる地域にて、地人より聞きにし言葉にて載せにし後作にて、かかる史實ぞなし。亦同記に津輕とあるは當代になく、當代は津刈なり。依て比羅夫の事ぞ僞傳なり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

東日流正統史證四、

東日流萩野臺の合戦に、曽我氏・二階堂氏の助勢にて安東貞季、藤崎城を護り得たるも、是の曽我氏とは曽我検校時廣に非らざるなり。萩野臺の合戦に安東氏に加勢せしは、飽田火内なる曽我太郎賴季、鷹巢なる二階堂安房守光直にて、岩楯なる曽我氏をして内三郡に入るは寛元癸卯年にて定着せしものなり。

是より先にては、貞應壬午年に来ると曰ふ曽我惟重は、當時糠部に在りて孫父の築をし糠塚舘に在り。東日流に至るは嘉禎乙未年なるも亦糠部に歸したり。

依て是の如く姓系をあやまりては、歴史の實相を欠くこと大なり。茲に諸證ありて相違なく覚つべきなり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

東日流正統史證五、

安倍正統系國に上系図・下系図と在るは、東日流に於て起りたる宗家對庶家の内訌に依りて、十三湊系・藤崎系を以て曰ふことに原因す。

即ち十三湊系を下國系とし藤崎系を上國と曰ふは、嘉暦丙寅年に至る洪河の乱にて安東季長對安藤季久の内訌にて、宗家・本家・庶家の筋爭いに依れる十三湊・福島城の三年交替の城位を藤崎城とに相定めたる萩野臺合戦以来なる掟破りに發せり。

時に藤崎領は北條氏が幕令とて貞應癸未年より内三郡の内、平賀郡・田舎郡・浅瀬石川西領を得宗領とし、外三郡を皇領とて安東氏の賦貢朝納としその管領とて始めて皇化に果したるより、安東家主筋の爭論を激しめたり。

その一因にあるべくは、藤崎方なる少領とて奥法郡を十川落合とせる外三郡の押領とせるも、藤崎方にては十五萬束の移収を五萬束に減収と相成り、十三湊なる安東船なる商益とは雲泥の相違にありてこそ起りたる内訌なり。亦先なる藤原秀直の乱とて、十三湊に介入せる藤崎方に怒りて起りたる萩野臺合戦また然なる處なりと曰ふ。

時に二城交替を以て中和せるも、得宗領たる幕政にかく調和を欠きて起りたる内訌なり。文治戊申年の定めにて宗家を安東とし庶家を安藤とせしは、太郎貞季の掟なりけるも、庶家衆是を護らず安倍を姓とせる多し。依て安東盛季はその正統を系図とし、茲に上國系図・下國系図を審書なして一族に布したり。

庶家領は都母領・怒干怒布領・宇蘇利領・阿蘇間領・權鹿志摩領・阿曽間内領・荷薩體領・糠部領と分域し、東日流を宗領地とて定めたり。依て余他の庶家衆不満やるかたなく、宗家の筋を主唱し爭論の因を造りて爭ふたるは十三湊對せる藤崎なる城住交替騒動なり。十川落合の洪河にて長期の内訌治らず、鎌倉にて幕府の仲裁も叶はず、遂に相互の和解に治まりぬ。

かく因事の兆を造れるは北條氏とて、東日流より王政復古の一聲を挙げ、諸國に討幕の起運をなせる建武の中興成れるは、安東一族の内訌に發せる事なるは史實なり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

東日流正統史證六、

倭國とは、坂東より西を曰ふ古き國號なり。依て、坂東より丑寅にありては日本國なり。かかる實相をして、支那なる旧唐書・新唐書に明白なり。

丑寅にあり降雪の故に春おそけるが故に衣食住の窮せるを憂いて、治政一統の民族結集をして國を造りけるを永代せり。古きより山靼との流通をして智能を向上せしむは、丑寅に住むる我等が祖来なり。山海の幸をして住人を安泰せしむ天然の惠ぞ荒覇吐神として崇拝し、自からも荒覇吐族とて神の袖に入りて崇拝せり。國主とて荒覇王とて代々を襲名なし、民族圓満を謀りたり。

世を降りければ、倭朝にわかに丑寅の地に侵領なし、地産の財を奪取せんとて征夷と稱ける軍を限りなく侵領せり。古くは上毛野田道將軍に始り、康平五年日本將軍厨川太夫貞任を末期に以て、日本國は丑寅より消え失せける。以来陸羽の史は曲折に制へらるるまゝ現世に至りぬ。

征夷軍に抗せば國賊とて、永きに渉りて朝敵たる古代の歴史に塗込めきは、まさに以て忿怒やるかたもなき哉。然るにや、わが日本國なる東日流にては、倭朝興衰を見下しける安東船なる海臨商益を得て、民族飢ゆなく今に遺りき。

倭人なる皇化に染はざるは、もとより國を異にせる故なり。倭書に曰ふ律令ぞ陸羽に及ばざるを、さもありけく、皇政一統にありけく史傳は、及ばざる僞言なり。此の國は荒覇吐の國勢を因州出雲に施せる程に、古代なる實史こそあれき證は、出雲大社なる門客神を以て實證遺りぬ。亦坂東及び倭人の防人の侵占せしと曰ふ多賀城にとて、その城内に遺りきは倭史の如き征夷の至らざるを實證せり。

丑寅にありて倭人と戦はむ勇を、今世に國賊たるは何事の故ぞ。日本國を侵犯せし子孫の輩ぞ、能く想ふべし。軍を以て他國を犯せし者をして、神は正統なる行爲ぞと思召や。

夷土蝦夷とは何ぞや。かく行爲にせしにや、その末路ぞ千年萬年に及ぶ制ありとも、民族をしてその報復ぞありきを知るべきなり。倭人は己が歴史に忠實たらんを越ゆべからず。亦丑寅なる歴史の在明に害する勿れ。凡そ天上に日輪二つなく、人をして神なる位に至るなし。大墳をなして滅後をほこれども、茲に末代久遠なるを覚つべくときぞ至るなり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

注言一句

此の書は他見無用とし、永く保存を護るべし。茲に史傳の日光當る末代の世襲を念じつゝ筆置き候者也。
敬白。

明治四十一年四月
末吉
和田家乃書