安東浪々誌

言上之掟

序に曰く

此の書は藩許なき書巻なりせば、他見に及ぼして迷惑せるは自他にかゝはりぬ。依て門外不出と心得べし。

寛政庚申六月   和田長三郎

安東浪々誌

嘉吉の年は、安東一族の津輕故地放權の兆源と相成りぬ。抑々、津輕藤崎城主安東教季、南部守行との一戦に應永二十五年に敗れ、守行の子義政、十三湊福嶋城主安倍盛季、應永二十六年交戦して嘉吉三年十一月迄の長期に渡る激戦にも、一族の大なる死者をい出さず南部一族に大なる害を及ぼし、青山城・鏡城・福嶋城・羽黒城・唐皮城、紫崎城とに退護の應戦をなして、遂には一族安泰のために渡島檜山の地及び秋田大舘・土崎・旭川・松原等に一族を脱難せしめ、その命脈を護りたり。

爾来、一族の命脈は安住にして遺れり。安東一族の武士は利なきに護らず攻めず、末期に勝利を得る爲に安住の地に身心を練ふの習掟なりせば、血脈を断ずる事ぞなし。

恨復百代を過ぐるとも忘却を赦さず。神佛を尊び寺社に施し、行を験め求道に迷はず、心身自ら練磨し破邪立正の大志を旨とす。依て一族上下の離りなく、平等立志に利に對して身命を惜しまず。一族の爲に起つは安東一族の要なり。

嘉吉三年七月安倍盛季、柴崎城より水軍を總挙して一族の者、武農漁夫に至るまで等しく渡島桧山及び秋田に脱難せしむ。

時に安倍盛季、十三山王にまつはる金剛界・胎藏界の祭佛像及び神像をも、持護せるを忘却せず。實相坊・山王坊等をして、敵視を幽め脱難せり。亦、持つきれざる像は深山及び城郭の秘洞に埋藏し、是を秘として、未だその處地ぞ謎とせり。その實物は、安倍一族が水軍を起し、支那・韓國・南蕃・天竺に及びて集積せる、巨大なる秘寶なりと曰ふ。その埋藏地の鍵は秘中の秘にして、今は秋田氏正継の密傳として、その謎を解くは安倍一族の寶寺の剣にありと曰ふなり。

さて安東一族の末路は、津輕故地を脱したる後は、渡島松前に阿吽寺、檜山上國に上國寺、秋田土崎に蒼龍寺、秋田松原に補陀寺等を建立して、故地津輕旧領の法場を愢べりと曰ふなり。

然るに、安東一族あくまで故地津輕を忘却せず。安倍康季・義季は、渡嶋より金井浦及び舞戸浦、吹浦に再歸して勢をのばし、たつまちにして華和郡・奥法郡を南部一族より奪回して、共挑の蠣崎藏人と謀りて一挙に南部一族撲滅を企てたるも、事敵に漏れて、安倍氏は新法師に蠣崎氏は田名部に敗れ、再び浪々とて渡嶋・秋田に退きぬ。

たゞ義季の一子・義景のみは、南部氏より攻らるとも、藤崎の旧地に白鳥舘復住せる故に、行丘城主北畠氏の庇護をうけて安全たりしも、世降りて、天正七年五月四日、大浦爲信に藤崎白鳥城舘は脆くも落城し、一族郎黨は秋田城之介長季の持領せる旭川に安住せしも、藤崎城を落したる大浦爲信は、遂に行丘城をも落□□津輕にもつ城、大浦勢に反して往古の旧恩□十餘年の才月を武の一途に最後の一兵に至るまで降る者なく、城を枕に一族郎黨玉碎せし飯積髙舘城主・朝日左衛門尉藤原行安こそ、誠に武門の誉れと曰ふべきなり。

飯積の住民、脱難の者は密かに秋田に赴き、秋田城之介長季の庇護を受け、旭川辺に飯詰邑を開き、秋田氏の臣下に抱へられたりと曰ふなり。

寛政五年十月   秋田孝季

津輕とはに

日髙見國、是れ奥州津輕の古稱なり。亦、蝦夷國を日髙國と曰ふ。依て津輕を古稱して東日流と曰ふ。古き世に住める民を阿蘇部族と稱す。次に津保化族、次に荒吐族と稱しける。その續き、年さだかならずも、耶馬台國主・安日彦命、長髄彦命が一族大挙して津輕に住みてより荒吐五王の君主とて君臨す。

五王とは、日髙國(蝦夷國)・東日流(津輕)・日髙見國(糠部)・阿喜陀(秋田)・此羅住(岩手)・三山(出羽)等の領主なる意なり。その司る要は往古の耶馬台國の執政に同じくして、現に掟せる邑あり。是を荒吐五王の司と稱す。

この五王の司も、安倍比羅夫が荒吐族に自ら己が安倍の姓を賜りてより、安倍を姓名□□□その威勢は髙まり、日下將軍安倍賴時誕生せるや、膽澤・江刺・和賀・稗拔・志波・岩手の六國を掌中にして、西は白河関界、東は卒土濱に至り、衣川の形勝を𡸴岨の舘となし、出羽にては□鹿・仙北・雄勝の三□占有して、國司の北侵を断じたり。

依て天喜四年、源賴義勅を奉じて安倍賴時を誅すも、その子息等、父の報復に戦を杭し、九年の戦に八萬の犠牲、幾十萬貫の兵糧を費したり。

安倍一族は敗れ、貞任の遺孤髙星丸は一族の近臣に護られて、安住せし處は津輕の地なり。當時の□管從人月禄に曰く處は、

從僕明細之事

故君厨川殿第二子髙星丸
故君厨川殿末子則任

乳母中一之前道江
品川与七郎信明
三宅次郎左ヱ門拝春
大里小次郎景正
秋元左ヱ門賴綱
小山内三郎後宗
丹治与三ヱ門支衛
大和田光衛長則
相川次郎辰義
白河小次郎正胤
藤原八郎是□
成田兵右ヱ門賴季
磯野十郎時家
右之者、厨川殿依遺言、奥州津輕脱難候。至津輕國十三湊方安住者厨川則任、安東浦藤崎安住者厨川髙星丸也。

寿永元年六月   阿吽寺住阝賢坊

かゝる安倍一族、津輕に入りてより、日本諸國より落来れる者は皆、安倍氏の一黨に寵るなり。安倍一族、爾来津輕に榮えて、十三湊は日本の七湊に名髙き商湊にして、辨才船の出入は安倍水軍を誕興せるに及びぬ。

然るに天命なる哉、興國二年の大津浪に、一刻の間に十三湊は崩滅して、その榮姿は消滅、幾萬人の人命は怒涛の中に没せり。かゝるときこそに、安倍一族の巨費を落じて湊の復興に費やせど、水戸口は浅瀬となり、巨船の出入は不能となりて、人費を重ねて叶ふ術もなし。

安倍一族の必策とし、吹浦・金井・小泊・外濱・舞戸に湊を築けど、十三湊の如き盛榮の及ぶなくして衰え、時も時、南部守行、足利幕府の令を以て安倍一族誅伐に、奥州津輕の國守として来り、藤崎城主安東教季・福島城主安倍盛季を攻め、哀れ安倍一族、渡島桧山の地に遁したり。

寛政庚申年十月   秋田孝季

安倍一族之崇信

十三湊山王坊、十三宗金剛界戒壇院、及び三國山阿吽寺胎藏界七ヶ寺卽ち龍興寺・三井寺・長谷寺・禪林寺・壇林寺等なり。

是寺閣は、十三左衛門秀榮三代に継ぎて、安東一族上下をして崇むる靈場にして、本地垂地の寺□十三湊をして濱明神・尾崎神社・荒磯神社・山王日枝神社・熊野神社・湊明神・御瀬堂。亦、修験道場としては羽黒權現・熊野權現・大峯藏王堂等ありて、春より秋までその祭事、十三の邑々をにぎあはせしたり。

十三の三大祭の行事とは、春に於ては浜明神の觀□□大祭、龍興寺の大龍流し、夏は阿吽寺の灯籠流し等なり。是の外、湊明神の船祭り、尾崎神社の唐神祭りありて十三浦に灯の絶ゆるときぞなく、にぎはいたりき。

興國二年、その祭灯も、かの大津波に依りて絶えたれど、安倍一族の崇神・崇佛の名残りや、津輕六郡の部落邑々に熊野宮・加茂神社・鹿嶋神社・荒磯神社・胸肩神社等のありきは、此の頃を愢ばしむなり。

寛政庚申年十月   秋田孝季

奥法之月影

奥州津輕奥法郡とは、外三郡のひとつなり。
安東髙星、此の地を津輕六郡の中央とて城を築きたるも、北條氏の執權にて内三郡を割領され、外三郡耳、京役地頭とて安倍氏・安東氏の自治領と致されり。

依て奥法郡は、安倍貞任直系髙星丸の祖来に安ずる處となり、十三馬郡及び江留門郡を、安倍賴良末子なる則任の一系・氏季の祖来の自治領とて、互にその富を築きけるも、十三湊は名港なりせば交易よく、茲に安東氏・安倍氏の爭動蜂起の兆を生ずるの憂ありとして、藤崎城・十三福嶋城の城主たるを三年交住の安度の掟をなして、しばらくは安泰せるも、季長・季久の世代に此の城交を断たんとて、遂には一族をして戦となりて才月をかけて治まらず、幕府是に介して謀るとも、徒らに賄をむさぼるのみにて、その決着をなさざる故に、互に和してその怒は、北條執權誅滅の兆火となりける。

安東一族の兆發に依りて、天皇を御親政の蜂起は日本諸國に起りて、鎌倉は、新田義貞、復恨の和田一族の加勢に依り幕府は亡び、茲に建武の親政はなれるも、遂には足利尊氏の反朝に依て南北の天皇互にその位にありて、天皇親政の實は復びもとの幕政に復して、還ること未だに成ることぞなし。

時に足利氏に追はれし尊王の士は、津輕奥法に落来りて安東一族の袖下に抱へられたり。その先駆は、萬里小路藤原朝臣藤房卿及びその子息景房なり。次に新田一族、赤松一族、護良親王の胤・北畠顯家の一族、南部一族等、建武の中興に大業成せる名髙き一門の末胤ばかりなり。

無常なるかや、是れに依て安東氏が自領は割領となり、亦興國二年の大津浪、十三湊の廢湊をも招きて、安東一族は南部一族□に依る侵領に退く。奥法郡の代主は行丘城に移權となりぬるは襲世の天命に依れるものか□□。

寛政五年十月   秋田孝季

安倍一族秘寶之謎

南部義政、安倍一族を誅滅せんと、應永二十年より嘉吉三年に至るまでの長期に至る交戦の中途に、十三福島城主安倍盛季は息子鹿季と謀りて、いつぞや敗らるゝの日を餘憶して、十三法場の金剛界・胎藏界の佛像・佛具を十三湊の湖底に𣲽め、船藏をして密藏し、更に木造像は深山に窟を堀りて閉藏し、亦秋田及び渡島桧山に運びて安ぜり。

然るに、南部義政かくなるを察して、幾千の兵を屍積し十三福島城を落し、更に十三山王の法場を焼討ちても、その寶物の一品だに出でざるを不可思儀とし、諸寺の住僧を捕ひて責めせっかんして迫状を求めたりしも、住僧いかで口を割るなく舌を噛みて死せり。かくして南部義政、幾多の人命と兵糧巨費を投ぜし安倍一族への長期に渡る戦の□行はかゝるためにありたるなり。

かくして寶の出でざるは南部氏の落膽と怒りに狂いて、徒らに武にあらざる者をも慘殺に及び、茲に於て安倍盛季、意を決して民を小泊に集め、自らも渡嶋に退ぞきぬと曰ふ。かくして十三湖底の埋藏寶物、中山深山の埋藏せし處、何處なるや、秋田一族の安倍貞任傳来の名刀寶寿の巻繪に謎を説きける案図ぞありしとか、未ださだかならず。

寛政五年十月   秋田孝季

亀像山補陀寺誌

抑々補陀寺開山の起源は、安倍守季が一族の安泰を念じて、十三山王の禪門及び禪林寺の法場を愢びて建立せし者なり。

補陀寺とは佛陀に補するの意にして、安東武門の士風にありて、禅門良く心身の行場とて開山せし處なり。無上道は禅門にあり。即身成佛是佛の覚り、自ら得らるとぞ秋田の地に始めは松原に建立し、時に建長元年安東宗季の建立と曰ふもさだかならず。正平元年秋田時季の建立とも曰ふ。

正平十二年、萬里小路中納言藤房、津輕に安東氏を訊ねて官軍挙兵を企てたるも成らず。子息景房を津輕飯積なる髙楯城主に、安東氏より分領なし、是に住はせて後、秋田に歸りて補陀寺の開起として入道し、無等良雄の法名に稱して松原より現なる旭日川邑に移して建立せりと曰ふ。

時の施主は秋田時季にして、その費を皆負いて現に至るなり。是の地□□大平山を望み深山幽□の處にありて、そのいらかは老杉のこずえにあおぎ見ゆる景勝の地なるも、現はその山麓に移りて法場とす。

寛政五年十月   和田長三郎吉次

右之書巻は原漢書なりしも、浅学の者には讀難き故に、拙者の解を以て記したるも、原書に加筆せるなく、僞作一行だになし。
右誓て如件。

明治十年八月三日   和田長三郎末吉花押