佛説要文集 全

寛政乙卯年立志
同年冬十二月廿日書走

秋田孝季 華押

佛説要文集 全

夫佛法のいわれを尋ぬるに、昔中天竺
摩訶田国浄梵大王の后にておわします
まやぶにんといふ人の御夢に、白き僧右
のわきより胎内に入て、御覧じて打お
どろき玉ふに、則ち御身唯ならず、くわい
にんならせ玉ひて、月日重なりて四月八日
まやぶにんの右のわきをやぶり、太子御誕
生ならせ玉ふ。去間御母ぶにんは一七日過

て四月十五日空しくならせ玉ふ。依て
太子の御伯母まかはしや養ひそだて
七田太子と名付奉る。太子十七才と申
に、や主大臣の御娘やしゅだら女と申
人を御后にそなひ、らごら尊者をもふ
け玉ふ。かくて太子十九の御とし、御世を
いとひ、こんでい駒にめしやのくといふ
とねり壱人御供にて、だんどく山に閉
籠らるゝ仙人を師匠となされ、御難行
苦行の功をへさせ玉ひ、三十の御年
十二月八日の暁に明星出るを御覧じ
て、本来の面目に叶ひ玉ふ。扨て出山の悟
に曰く、一佛成道觀見法界草木國土悉
皆成佛と説き玉ふ。此文の心は、佛さとり
ひらかせ玉ふ、法界の有様をつくづくと
見玉ふに、草木国土までおのづから佛也。
是によって、佛と衆生とのへだてはなし。
後生を願はんともがらも、又心なき草

木も本来の佛也。じゃうゑふにとて、
しゃば浄土のへだてなし。是も彼も
浄土なれば地獄といふべき差別もなし。
未生以前に何方より来るともしらざ
るより、ことし又死して後行べき処も
なし。爰をさして、不去不来不生
不滅といふ也。此文の心は、さりもせず・き
たりもせず・生れず・死なずといふ事也。
人間と生れたりとて、よそより来る
ものにあらず。其故は彼空より出たる
身なればなり。空とは、こくふの事也。
是を本佛といふ也。死したりとて、よそ
へ行にはあらず。本の空に歸るなれば
なり。か様なることはり、釈尊さとり玉ひ
て衆生のしらしめに、三十成道の後
四十余年が間説法し玉ふ。八十入滅
とてつゐに、ばづだいがのほとりにて
空しく成て、千だんのけむりと成

玉ひてより此かた、しやかよていの御法
をあがめ候也。御一代の御説經は、皆是
けん密・ごん實の二經に極まる也。先づ
ごん經の沙汰をすれば、ごんとかきて
は、かりと讀むなり。佛法表向ばかりに地
獄・極樂・天道までも、うたがひなく有
に依て、善を修するものは成佛とく
だつの身となりて浄土のけぼを請る。
悪をつくるものは地獄へ落ると、とき
玉ふ。是あま妙心ぐち無智成ものを
引かたむけんために、なき事をある
やうに、はかり事をめぐらして、かりに
とき給へり。夫によつて、かくの事ども
何れの經文の中にまぢはりて有とも、
ごん經と名付る也。ごん經とはかりのおし
へとよむなり。其実の所をあらはせば、
三世の諸佛も遠くもなし。皆一心
の中に具足して御ざる也。先づ、地ごく

とて悪人のくるしみを請る所を恐
ろしく遠くいひなしておけるを、能
々尋ねければ、人間の八苦をさして
八大地獄と名付たり。身の中に九穴を
九品の浄土と名付たり。真実の佛性は、
めんめんに具足する一心の事也。此心
を家々によりて、いろいろ名付て佛
といふ也。まづ天台にて、本覚のみだ
とも名付たり。既に天台の釈に曰く弥陀・
弥勒は一心の異名、あんやう・とそつは胸
中のしやうごんと有。未生以前を本覚
のみだといふ。生て後をば死覚のみだ
といふなり。法華宗には妙とも、又九おん
じつ定の釈迦とも、又八しやうの都とも
いふなり。釈迦といふも別にあらず。其
故は天台の釈に、釈迦如来一久遠じ
つじやうかひさい衆生一念心中、と有。
此文の心は、久しく遠き昔しのしやかと

いふも、皆人の心中にありといふ義なり。
妙法蓮華經、此五字の理りも皆一心の
沙汰なり。先づ、妙とはふかしぎと云
なり。ふかしぎとはほめたることば也。何れ
をほめたぞと尋ぬれば、法の字を誉
たる也。法とは一心の事也。其故はきし
ん論に曰く、しゅごんほうしゃいわゆる
衆生心とあり。此心は、いふ処の法は衆生
心といふ也。二字ふしぎの事也。然る
時は妙法といふ二字は不思議の心と
いふことばの、やわれげなり。何として
ふしぎの心といふとなれば、此心は
有といわんとすれば、色かたちもなし。
又なしと思ひば、世間につれてかんと
なれば、かんのひびき也。ごんとなれば、
ごんのひびきなり。思案工夫をめぐらし
ぬる時は、なきものぞともいわれず。そ
れに依て、ふしぎの心と云。又、蓮花

とは、二字は何たる事ぞと尋ぬれば、妙
法の二字にて心得がたきものゝために
は、れんげの二字を添てしめすなり。
彼れんげに付て、たうだいのれんげ、
ひよのれんげとて二品有。先たうだい
のれんげとは我心の事也。又ひよの
れんげとは、世間にあるれんげの事也。
此一心を、世間のれんげにたとゆる也。
蓮は、でい中より生ずといひども、にごり
にそまずして、くわじつを結ぶがごとく、
我心もくるしむ時は地ごくとおこり
ぬれども、それが夫にもとどまらず。かの
はちすのでい中にけがれぬごとく、一心
も無念無相と成、他念なき所といふ
なり。則ち佛果を得る也。又經といふ
文字、たてと讀むなり。五字をたてとし
て一切の法文をおり付たる心也。然らば
五字の理りも一心をはなれて別の事

なし。か様に心得てよりは、上に尊む
べき佛なし。下にとすべき衆生も
なし。又、真言にては金胎両部の大日
と尋ぬるなり。胎蔵界の大日とは、しき
ほうにて五躰の事也。金剛界の大
日とは、心法にて心の事也。されば弘
法大師のひけんに、夫佛法はるかに
あらず、心中則ち近し。心如外にあ
らず、身をすてて何国にかもとめん、と
有る。しんによとは、佛のいみやう也。寔の
佛は遠くなし。心中に有ながら
身をば捨置て、何国を尋ぬるぞと
といふ心なり。あうんの二字といふも、一心の
事也。あといふ時は、出る息也。うんと
いふ時は、入息なり。しゆつそくにつく
り、則ち大日の正躰をさす也。息は
一心の躰也。息とゞまれば命もはて、
一心も滅する也。こくうより出て一心と

成、又めつしてこくうへ歸る処を、空の
大日と名付る也。夫によつて大日と云
も、智恵分別もあるものにあらず。色
形ちもそなはらず、慮智分別もなき
目に見へぬ、こくうをさす也。かやうに
真言の阿字くわんを悟れば雀のちよ
と鳴も、からすのかゝと啼も、風の声・
水の音にいたるまで発心の大日の説
法とだんず。しよせん佛は外になし
と、あらはさん為也。是を禅宗には本来
の面目ともたて、又は本佛とも、又は本
心とも、又は佛性ともいろいろさまざま
名付る也。彼本来の面目といふものは
いかなるものぞと尋ぬるに、余り近き
に見付ざりけりといふごとく、むねの
内に有ながら遠く見なして、ふす
まをかぶり、ざぜんくふうをし、月日
を重ねて漸々さとりつるも、また

もとのもくあみと成ける也。有歌に

中々に猶里遠く成にけり
  あまり深山の奥を尋ねて

とある。悟をきはめぬれば、初めのごとく
となるなり。悟了未悟同とある。此心は、
悟り極りて見れば未悟、先のごとくと
いふ。心何とて佛性はあらはるゝぞと云
に、不思善悪とて、よきもあしきも思
はずして只他念なき所をさして、
本来の面目といふ。されば古人の悟に曰く、
心生れば種々の法生ず。心滅すれ
ば種々の法滅と有。心生れば種々の
法生ずるとは、地ごく極樂もなけれ
ども、あるかと思ひなして我と我身
におそれる也。心めつすれば種々の法
めつすとは、悟りの一念を以て地獄・天
道みな目の前のきやうがいなれば与所
になしと見なす所を云也。古人の

曰く、經意のこくえやうはそ人にきす、
そ人のこくえやうはすいふにきす、と有。
此心は、佛のときをき玉ひし經文
の極意は、祖師のさとりの道にきはめ、
又祖師の悟は木こりに極まる也。惣
て木こり草苅は、佛とも法とも弁ひ
ず、物をしらざる也。其不知所が佛法
の本意也。何とせんさくしても佛法
極意は無に極まるによりて、いか成智
者・学者も明白にしる事叶はず。何
成とも有事は兎も角もねをしる
事も叶ひとも、せうとく何もなきもの
なれば、しりたきとても不叶。夫に依
て佛祖ふしぎとて、三世の諸佛も一
千七百人のぜんちしきも後生の沙汰を
ば取あつかう事不叶と、きはめ候也。既
に涅槃經の文に過去の心不可得、現
在の心不可得、未来の心不可得、三世不

可得と説玉ふ也。此心は、未生以前をし
らずんば、現世にて一心を具足し
ながら、何たるものぞと心得かたし。来
世にては何となり、何国へ行とも、わき
まひざるといふ事也。それに依て無と
見るも、ねがつくによつてきらふなり。
又有と見るをば、なをなをきらふなり。
兎角有とも無ともねをつけず。有の
儘なる所を佛といふ也。是を禅宗
には、きやうげべつでん・不立文字・以心
伝心と立る也。浄土宗には、もんぎゑ
んねんとて実躰実儀けやう經文と、
立る也。先じつ躰とは、天地ひらけず生
れぬ先の空々寂々としたる所を指候
なり。実儀とは、天地ひらけ万物とあ
らはれたる処也。けやうとは、かりに用る
と書候也。何をかりに用ゆるといふに、
西方十万億に浄土をたつるなり。なき

事なれども、先かりに建立してぐち
むち成衆生を宗門に引かたむけんとの
はかり事也。經文とは三分經の教への
事也。じつふたいの沙汰を聞は、三分
經にこしふおんと説玉ふなり。此意は、
あみだ根本色々に候、中々金に
及ばず。むかし西天竺にしあんと国に
くわつしや天輪成王といふ帝おはし
ます。此后をしゆうせう妙かんぶにんと
申也。此御子に、せんじやう太子と申は
あみだ如来の御事也。又あしゆくぶにん
と申は后の宮なり。そり・そくりと申
て二人の太子おはします。后のあしゆ
くぶにんうせ玉ひて後、善じやう太子
発心あり。ほうぞくびくと御改名あり。
其後、難行苦行の劫を積、あみだ仏
と申奉る也。そうりと申はくわん音
ぼさつ、そくりと申はせいし𦬇、あ

しゆくぶ人は薬師如来とあらはれ玉ふ
と申伝ふなり。
一昔し、ある長者の娘にいたいけぶ人
と申せし女、りんじうに及ぶ処に釈
迦如来入らせ玉ひて念佛をすゝめ
玉ふ。彼ぶにん、釈尊にとひ申されし
は、あみだは何国にありやといふ。釈尊こ
たへてのたまふ、こしふおんとの給ふ。
此心は、あみだ佛は爰をさる事遠ふ
からずといふ義也。我むねの中を去て
よそにあみだはなしといふ心也。此理
は三分經にあり。真実の弥陀といふは
我心の事也。悟りの上也。あみだと名
付たる子細は、あうんの二字をかたどれり。
六字の名号は、みなあうんの二字なり。
南といふ時は出る息、無といふ時は入る
息、阿といふ時は出る息、みという時は
入息、陀といふ時は出る息、佛という時

は入息也。斯のごとくあうんの二字三を
合せ、南無あみだ佛と名付けたり。出る息
入る息の外に、あみだの正躰はなし。有
相のあみだ、無相のあみだとて二やう有。
先づ有相のあみだといふは、姿ありと
いふ。其すがたのあるあみだは何ものぞと
いふに、恵ぞう木ぞうの事也。又無相の
みだといふは何国にあるぞと尋ぬる
に、皆一心の事也。其故は經文に極樂
遠からず、あみだすでに心に有、又唯
心の弥陀・己心の浄土とは、おのが身の
浄土と云也。とかくみだの正躰は我
心より外になし。ある歌に

となふれば佛も我もなかりけり
  南無あみだぶの声ばかりして

と有をきわめ、きわめては佛といふも与所
になし。我心の事也。されども、まよひ
たるあまめうしんの様成ものども、西々

と心ざして遠き所を尋ぬるなり。
天台のしやくにも、みだ・みろくは一しん
の異名なり。あんゆう・とそつは胸の内の
しやうごんと有。此心は、みだ・みろくと云
も、又種々の佛といふも皆心の改名
といふ事也。あんゆうといふはみだの浄
土也。又とそつといふは諸佛の座し
玉ふ天也。胸中のしやうごんとはむねの
中のかざりと云事也。あみだの浄土
といふも、とそつ天又はきけん城の都と
いふも、むねの内をかざる為におほくの異
名を付たり。浄土の數いく柱ありとも、
みな我胸の中をさしての事也。極樂
近き物を、何とて西方十万億として
名付たるぞと尋ぬるに、あんじんの取
やうに西といふ文字は四角をして
中に二つの点あり。四方は東西南北の
しるし也。四つの角はしゆへとて東西南

北の間也。中の二つの立点は天と地との
印也。以上合せて十の点あり。十の点
は十方の印也。四角の上に一文字あり。
此心は、十方一にきすといふ心也。それに
依て西斗に極樂はなしと云。何国
も同じ事也。十とは人の形ちの十文
字なり。依て十と名付たり。万とは
胸法充満して有。皆みつるといふ字
は万と讀によつて、其万の声をかたど
りて十方と名付たり。億とはにんべん
に心といふ字書なり。にんべんは人といふ
心なり。如此の時は、人の意を億とは名付
たり。全く千万億のみだの浄土といふ
は、面々に具足する也。然れども、念仏
を一度唱へる度毎に西方十万億より
みだ如来来迎し玉ふといふ事をば
何たる子細ぞといふに、みだの正躰は別
になし。出る息の事也。浄土はむねの

中にあるに依て、我胸の中、近き浄土
よりいつもおこたらず、みだの來迎有。息
をみだとは何とていふぞなれば、あんじん
の經に息風則弥陀と有。此文の心、は
息則みだ也といふ心也。念佛に限らず、
小言をこたふにも、行にも、歸るにも、寝
ても起ても、出入る息はたへまもなし。
扨又左りの御わき立は、くわんおん𦬇
にておはします。彼くわんおんと申を
声を觀ずると書也。息をつく所の
声をさして觀音とはいふ也。人の声
にかぎらず。山里にすだく虫の声、もろ
もろの鳥の鳴声まで、皆くわんおんの
正躰とさとる也。峯の嵐も法の声と
は、此事なるべし。又右の御脇立は、せい
し𦬇也。則ち、いきほひいたると書也。
いきほひは息に付もの也。息とせいと、
三つながらちなむもの也。それに依て三尊

のみだは元来一体といふぞ。爰に一つの
ふしん有り。かほど近きみだを、十万億
のあなたにありとしめす事、いか成
事ぞと尋ぬるに、人間に十悪有。
此十悪より又、万億のぼんのうにたへら
れて、十万億と歸る也。弥陀如来を
はるかの西にあるとおもひ、余所を尋る
事深き迷ひなり。ある歌に

極樂はみな身の内にあるものを
  西へ西へとねがふはかなき

此歌の心は、南の中に有にてはなし。
皆身の内にあるといふ事也。しよせん
何れの宗門もたつるかのて・このてかわ
れ、にぎればこぶし、ひらけばたなごゝろ
といふ心也。たては替りても、教が別でも、
釈迦の説經より沙汰はみな同じ事
におわるなり。又家々によりて佛の名
は、いか柱もあらばあれ、難波の葦は伊

勢の濱荻なるべし、でうでうだんだん。
口伝有之、秘すべし秘すべし。あなかしこあなかしこ。
サの五の𦬇は与所になし、出家学問の
位を段々に積りて廿五菩薩と名
付たり。

一、御法の躰とは何事ぞと尋ぬるに、惣て
佛法の沙汰は御法也。又悟れば世にある
秘の事は皆御法也。又人間の九界とて
くるしみの海とするなり。其海を渡る
には我心のわざ也。さとりをひらけば
御法の舩にのり恵る也。悟らぬものは
御法の舩を胸にもちながらのり恵ず
して苦しみの海にたゞよふなり。死
出の山・三途の川とは生れてより死

する迠の月日を送る事也。浮世はくる
しみ斗りにて過る所を死出の山と
たて遠くいひなし候也。又三途の
川とは、どんよく・しんい・ぐち。此三つなり。
十戒といふは、せつ生・ちうとう・じやいん・もう
ご・きご・悪口・両舌・とんよく・しんい・ぐち。
是を十悪といふ也。又十によとは悟り
の上より破りてもくるしからずと思ひ
なす處也。三界とは欲界・色界・無
色界也。欲界とはしゆせんちと日月ち
あらはれて少せんといふ也。又少せん界
を千合して中千界と云也。是、色界
なり。また中千の界を千合、大千界と云也。
是則ち無色界也。三千大千世界と
いふなり。孝季合掌

寛政乙卯十二月卅日了記
佛説要文集終