断片史料集3
東日流□□□
自寛政五年、至明治四十四年
末吉写
寛政五年記 壱岐花押
永保之再興
康平壬寅年、荒覇吐族千古の王朝は厨川を以て了れり。厨川貞任の遺言にて、遺児髙星丸は髙畑越中の妻・中一前に乳母と賴み、厨川を東日に落ちのびたり。十三湊より仮宿なる安代に迎へられ、しばらくは安日川を淨法寺に潜在し、安倍一族戦殉の供養をなしける後、髙星丸主從の六百人に及ぶ落人らは、東日流十三湊入澗の白鳥舘に落道を双手に別れて落ちのびたり。
糠部都母より船にて十三湊に入る一行、安代より荷薩丁、鹿角より髙清水、北浦、旭川、檜山土着の者の一行なり。十三湊にては、安倍一族より此の戦に出陣をあくまでとどめ、則任は幾度出陣を請ふたることぞ。今にて是の如き武運の盡きゆを覚つが如き賴時の策ぞ、今におもひば救なりとぞ一族は合掌す。
かくして則任は髙星丸を迎へしに、主筋の舘を東日流六郡の中央なる平川郡淵崎の地に城築し、その由は往来河をして藤崎十三湊なる水運を便じたるものなり。永保辛酉年に着工なし、寛治庚午年に落慶せる淵崎城ぞ見如なり。かくして旧臣を奥州より招き、東日流大里にわかに拓けゆく。康和水利帳に曰く、
- 東日流華輪郡
- 大浦郷 三千束
- 鬼澤郷 六千束
- 東日流平河郡
- 乳井郷 二千束
- 大飛鳥郷 一萬束
- 稻架郡
- 六郷 二萬束
- 樽柳 三千束
- 東日奥法郡
- 行丘郷 二千束
- 藤崎郷 一萬束
- 東日流有澗郡
- 下磯郷 千束
- 板野木郷 五千束
- 璤瑠澗郡 五千束
- 宇濤外濱
- 安濤吹浦
- 十三港安東浦
- 宇蘇利
- 都母
- 糠部
右、六郡併収屬璤瑠澗郡。
- 御認
- 入澗白鳥太夫則任
- 淵崎安東太郎賴信
- 弘和癸未天如月六日検書
- 髙畑忠継
- 大舘右近
右は髙畑家文書なり
寛政五年八月
秋田孝季㝍
起安倍一族源家仇
天永壬辰年、十三湊に唐船来たり。李泰生・金孔仁ら、安倍則任・氏季に通商を請じたれば、氏季、藤崎に安東太郎と謀り是を認む。依て物交産物とて、海産なる干物・塩魚・羽毛皮らを渡島に地族に求めたれば、大いに益を得たり。爾来、堤築工なし、朝鮮船とも交易なし、益々利益を大にせしめたり。
久安己巳年、渡島松前・福山・江刺に湊を築きて、十三浦・中野里・寶盛に造船場を築きぬ。ときに十三方、氏季に世継なく、藤崎方安東太郎尭季より養女を得て、平泉より藤原權守秀榮を養子縁組せり。是れ、白水なる磐城則の謀酌なるものなり。
もとより藤原氏ぞ、安倍一族に縁りありてこそ、藤崎方・十三方も異議なく迎へ入れたり。依て、その住居なる新城を久寿甲戌年に落慶なし、大いなる祝儀宴を挙行す。秀榮、學に長じて支那・朝鮮の商易もたくみなれば、諸國に聞こえたれとなかるに、築紫船・瀬戸内船など寄せきたり。船舶常にして二十艘を欠くるなく、十三湊に家棟多く諸國より諸職人きたりて振はふなり。
ときに京師より平清盛なる使、若狹守是盛来り、源氏討伐への軍資まかなふるを請ふたれば、安倍一族挙げて是れに應じ、海運挙げて援けたれば、平氏は保元・平治の戦後にて源氏を降したり。
然るに源義朝を誅したるも、その幼児等を哀れみて赦し置きたるは、後世の破滅となんなんとす。平氏、是れに悦びて、十三湊に壱津岐島明神を寄進參らせける。その願文に曰く、
十三湊明神願文
弟子清盛敬白。以蘋退芳、自混芣陀利華之露潢汚水潔、遂歸蔭婆若海波。和光同□、不具然乎。伏惟、安倍之領十三濱明神、名桿引導法家。今日之願旨趣、如斯乃至福業□覃廻□、不限敬白。
奥州東日流十三浦之鮎内入江丘之奥十三之山王之大權現、弟子清盛敬白。伏惟、吾安藝國伊都伎島大明神、名戦常篇、禮在恒典。謂其締構亦少金殿玉樓之挿崑閬之間、凡厥靈験咸神、言語道断也。於是、弟子本有因縁、専致欽仰、利生揚焉、久保家門之福禄、夢想無誤、早験子弟榮華。今生之願望己満、来世妙果宣期。今雖在家身、己有求道之志、朝暮所営者讃佛乘之業、窹寐所繫者生極樂之望、若是懇祈之致、冥應之令然歟。
是以、彌致報寶欲發淨心、是皆安藝伊津伎嶋大明神及奥州十三山王日枝大明神、奉書写妙法華經一部無量義觀普賢阿弥陀般若心等便奉納于金銅篋一合可安置之於寶殿矣、盖爲廣修功徳各得利益也。
元年天暮夏之候、自參寶前敬講華偈始自明年伊都伎嶋大明神倶奥州東日流十三山王大明神之功徳、以利益平氏一門及安倍一族之家、永代長久茲爲祈願給。
長寛癸未元年六月二日
- 弟子
- 從二位行權中納言兼皇后宮權太夫平朝臣清盛 合掌
- 弟子
- 幷家督三品武衡將軍正三位左兵衛督重盛 合掌
- 弟子
- 兼又舎弟將作大匠修理太夫賴盛 合掌
- 弟子
- 能州刺史能登守教盛 合掌
- 弟子
- 若州刺史若狹守平経盛 合掌
是の如く現存に遺れるぞ、安倍一族の怨復や、源氏崩滅に平氏を援けたるを證す者也。
右、津輕十三湊山王社管社寶也。
寛政六年八月二日
秋田孝季
日下將軍記
世に前九年の役と史談に遺りきは、安倍賴良が領境を白川関を坂東に押領せるに、皇領とて駐むる朝庭の仕官にある急使に依りて、是を探るべき源賴義は奥州にまかりて、藤原説貞に謀りて安倍一族を討つべく画策をこらせり。
安倍氏は古来より安東日之本將軍、亦は荒覇吐王累代にして、大祖は支那
然るに安倍安國の代に、富士山噴火なし領民、武藏及び相模に移りしより、倭民、坂東に移り住みぬ。もとより乱起り、小碓命が坂東に攻めたるも敗れ、白鳥に化身して脱がれたる傳説ぞ遺りけるも、討死せしは確たり。日本國とは坂東より東北にして來歴せるも、倭朝勢をなし韓國の討物を得て坂東に侵領せしは坂上田村麻呂のときにて、境約せしも、源賴義をして奥州に和交の驛所とて駐留せしめたる仕官・藤原説貞に画策をこらしたり。先づ和の條とて出羽の淸原氏・奥羽の平氏・陸奥の安倍氏に朝貢を献ずるを割賦とて宣したれば、三氏は是れ荒覇吐王の分離誘爭を謀りたる惡計とて應ぜず。説貞、阿久利川にて安倍貞任を討つの策敗れ、賴義退きぬ。
寛永十一年五月二日
和賀彦次郎
奥州佛寺抄
倭國葛城上郡茅原郷之住人・役小角、奥州に神佛併合の法を布せり。出羽の山伏、陸奥の中尊信仰を遺しぬ。奥州に金剛藏王權現、東日流には佛典にも無き金剛不壊摩訶如来の遺るるは、役小角が金剛界・胎藏界の哲理を併せ、更にして法報應三身をも卽一身とせり。依て、神佛をも併せたり。世に是を本地垂跡とせり。
寛政五年十月二日
大光院松野法印
荒覇吐神一統史
出雲神社に祀らる玄武の神、亀甲とイヒカの神は荒覇吐國之神にして、古來より祀らるも世襲に於て門神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし處なるも、廢社となりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献ずるを禁ぜしより無用と相成りぬ。倭領に荒覇吐神にて一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも攺めたる多し。
孝元天皇をして荒覇吐神布せにしも、開化天皇をして是を攺めきは奥州に大根子彦王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇、鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地八百萬神として荒覇吐神を廢したりと曰ふ。
寛永二十年八月二日
大邑土佐守
廢神器図
大邑土佐守
神州解書
倭國と荒覇吐國日之本とは、國土をして一國なり。然るにや、國主を異にせる故に染はず、互いに戦を以て先略とす。神をして信仰も異なれば親近なく、また人道に誠を以て相通ぜず。ましてや、倭王にして自からを神とせる風是在り。依て、地にある總てを、天にある日輪を皇祖とし、地を耕す者を下人として税賦を科すは神州なればこそぞと曰ふ。
されば日之本國は、天地水皆ながら人をして支配得るものとせず、神なる聲と相と力とし、是を荒覇吐神とて、民心に國を司る主とて心を一にせる故に强し。
同記追而なり。
大邑土佐守
寛政巡脚帳
藩命にて日之本將軍の古史を尋ぬる旅は、三十有餘年に及ぶなり。もとより藩有の書を天明の火事にて焼失せる故に御座るも、津輕より渡島オロシヤに續くる異土に渡る往復に月日を過ぎたる多し。亦、朝鮮・支那・南藩に渡るも然なり。わが國六十餘州も至らざる國なく集史せども、古は時勢權に失なはる多く難儀せり。
紅毛國に渡らざるも、大津にて得たる織田氏縁者より得たる異國書を得たるは伊達氏のお蔭なり。亦、朝鮮に在りて諸國の石塔韓書を得たるも、白山神の渡来・安東船の實在せしを知りぬ。支那に渡りて尚然なり。筑紫・豊州にては安東一族の多きに驚きぬ。國東の大元神社にて得る事多し。備州瀬戸内にて亦然なり。
安東・安藤・安倍・阿倍とて姓を異にせるも、祖は同じなり。家紋を鷹羽・鷲羽を用ふるは安倍一族に縁る印とて家屋に見ゆしむ多し。士農工商に業を異にせるとも、古事来歴を大事とし船人多きはたのもしき哉。
文政二年十二月一日
和田長三郎
參照古書目録
- 李氏家
- 和船通商帳
- 和蘭陀通釋書
- 宇佐八幡奉賀
- 安倍家之書控
- 若狹小濱廻船書
- 安倍家檀家帳
- 大島菩提寺書
- 天國襲来備帳
- 大原記
- 松浦海運書
- 國東安東氏文書
- 内海通行控
- 大嶋山祇神社帳
- 丸亀日記
- 熊野九鬼文書
- 池田家日記
- 豊州安倍家日記
- 村上船荷買帳
- 磐井日記
- 松浦水軍記
- 美坂安東家文書
- 兵庫全記
- 六波羅覚書
- 萩記
- 出雲大社講記
- 亀甲由来書
- 宮武神書
- 白山毗咩神社記
- 牟川三輪山記
- 羽賀寺記
右は巡脚にて得たる古文書也。
文政二年八月一日
和田長三郎
奥州大覚記
奥州は日髙見川を道とせる處多し。安日岳を奥水源とし、その流れ降る程に、支澤の川を併せてその流水深く川舟を以て通運とせり。何處にまかりても義經傳あり、田村麿傳ありきも、安倍氏を傳ふるを控ふ者多くして、その道に至る事難し。
安倍一族に墓の無きは、後世に東日流に移しめたる故也。日髙見川を道とせるは古代より創りぬ。大事たるは支流なる隱城なり。源氏の軍敗るる多きは是の故なり。大泉寺覚書・遠野善明寺由来書に依れば、安倍氏再興に叶ふる隱城に秘ありと曰ふ。
寛永六年十一月二日
南部帯刀
以上何れも漢書なり。
己巳年 末吉再書