博説 天理地理生命之理集 全

夫天を住つは理と氣とのみ。主宰を以て
理といひ、形象を以て氣と言。其実
は一つ也。今論ずる処は理を以て言也。
天とは大極也。されど天と斗りいふ処は、
大虚によって天の名ありとて、天は形
色もなく声も具もなく目にも不見
耳にも聞へず。空虚成もの故、其處
より天といふ也。されど何もなきものかと

思ひば、日月星辰の運行より寒暑雲
霧陰陽往来し、森羅万象地上に
顯はれ、春夏秋冬四季行れ、万物生々
す。其外あらゆる形氣あるものの主宰
と成もの也。故に天帝ともいふ也。又、天
理ともいふ也。天・地と對する天を以て
論ずるにあらず。されど其の形象に顯れ
たる天地も皆、此の天帝・大極の化工也と
知るべし。故に、天地人の三才に主宰
たるを以て天帝といひ大極ともいふ
なり。即ち未発の中、人々固有の本心也。
神道にては國常立尊とも天御中主尊
とも称し奉るなり。佛道にては不可思
議光如来とも無量寿覺ともいふなり。
老子にては虚無亦谷神とも云也。

古歌

分け登る梺の道は多けれど
 同じ高根の月を見るかな

天理

天理とは大極也。然れども理と云処は、
水には下る理あり。火には上る理あり。
君父は臣子を慈愛するの理あり。臣子
は君父へ忠孝を盡すの理あり。故に理
といふ。即ち大極未発の中也。

天命

天命とは大極なり。然れども命といふ処
は、命は猶令とて、天の命令にして人
物各形質為す。初めに天より其物々へ
ことごとく天理を賦与し玉ふなり。其
賦り与へ玉ふ処をさして命といふ也。
即ち大極未發の中也。

天道

天の道とは大極也。されど道といふ処は
猶路とて、一陰一陽の天に行れ、万
古不易なるより道と云也。蓋し陰陽は
氣なり。其陰陽さするものを道と云也。

されど理と氣と相離れぬもの故、其陰
陽さするより道といふ也。即ち大極未発
の中也。

陰陽

陰陽は大極の用にして氣なり。大極動
而生陽、静而生陰とて、大極の妙用一
度動き一度静かにして終に陰陽の
二氣となる。二氣別れて四氣となる。
故に四季行はる也。即ち大極の妙用已発
の中也。

鬼神

鬼神は大極の用きにして、陰陽の働き
を指ていふ。陰の働きを鬼といふ。鬼は
帰也とて、今迠形色にあらはれたる
ものが何國やら消失て無形無色となる
働きを鬼といふ也。神は陽の働きをいふ。
神は伸也とて、今迠形色に顯れざる
ものが何國からやら涌出て形色に顯れ

る働きを神といふ也。此れ即ち其本、
大極の妙用已発の中也。

天四徳附り人道

元亭利興は大極に備はりたる徳なり。(頭注あり)
は得なりとて、大極に備はり得たる道理
をいふ。即ち天徳也。元とは万物の初めに
して、時に取ては善也、陽也。人に有
ては仁也。亭とは万物の中にして時に
取ては夏也、陽也。人に有ては礼也。利
とは万物の中にして、時に取ては秋也、
陰也。人に有ては義也。興とは万物の終
にして、時に取ては冬也、陰也。人に有
ては智也。故に大極陰陽を生じ、陰別
て少陰・大陰となり、陽別れて少陽・
大陽となり、天地に流行して万物生々
する也。偖、人には仁義礼智の五性有が
故に五倫の道を行ふ也。是、人の人たる
道也。されど仁義礼智の五つの品々、ただし

くあるにあらず。時に應じて顯るなり。
故に仁に礼をすべ、義に智をすべて
仁義の二つ也。又、仁義をすぶれば仁の一
字也。仁とは何ぞや。仁は無私の稱なり。
私しなければ不偏不倚の中にして
天往也、大極也。天地の上にていはば、元は
春に亭の夏をかね、利の秋に興の冬
をかね、すべて元利の春秋也。元利の春
秋なれども元の一字春の一字也、春は
判物発生の始め、元は万物を生ずる
の根元にして、即ち大極也。未発の中也。

性とは大極也。然れども性といふ処は、人の
形質をなす其始めに天より賜はり
たり。少しも私意人欲の交りなきを人
に請得たが上より性といふ也。故に性は
生れ付の心とも訓ずる也。即ち、仁義礼智
信の理を全ふ備ふる故に五性ともいふ

なり。即ち未発の中也。

情とは大極の妙用也。然れども、情と云所は
人に受得たる上にて性と云也。其の性の
用きを情と云也。委しくわけていひば、
喜怒哀樂愛悪欲の七情と云也。即ち已
発の和也。

心 人心道心

心とは大極なり。されど、心と云処は大極を
人に受得て性といふ也。心は其の性情を
すべ、形氣の知覚運動を兼て心と云
也。故に、道心・人心の差別あり。道心とは
其受得たる性より発する儘にて、少し
も私欲人我の私しを交へぬ所を道
心といへ、本心といふ也。人心とは其の受得
たる正しき性の通り発する処へ、私欲人
我の私しを以て邪にし、蔽ひ昧まし
て身勝手より出るを人心といふ也。即ち大

極の躰用中和を兼たる名を心と云也。

志も又大極の働きと云んが如し。然れ
ども志といふ処は、人に固有の本心の発
し向ふ処を志といふ也。譬へば江戸へ往
んと志し、長崎へ行んと志したるがごと
き、心の赴く大躰の所を志と云也。

意は心の発向ふ処を云也。譬へば江戸へ
往んとして日々発向ふがごとく、意は
志しに比する時は細かにして小割
をいふ也。

機は弩牙也と注して、弩の弦に飛き
かけたるかゝりめの所のごとく、本心の儘に
発しうごかんとする牙の所をいふなり。
甚だ微少なる処をいふ。譬へば、草木の種
などの少しく芽を出すがごときを云也。

氣は大極の顯れたる也。即ち陰陽動静
の二氣也。陰陽の二氣なれども、二氣を
都れば唯天の一元氣也。氣に理は離れ
ぬもの故、氣は即ち大極の顯れ用くより
さして氣と言也。人に有ては動静
呼吸するは氣なり。動静呼吸、其の本
一氣也。一氣即ち天の一元氣也。即ち氣と
は形象より氣といふ也。即ち、大極の妙用也。

氣質

氣質とは大極の顯れたる也。即ち天に
有ては、日月星辰雲雨霜雪みな天の
氣質也。地に在ては、山河草木鳥獣
虫魚其外あるとあらゆる所のもの皆氣
質也。人に有ては呼吸動静より四肢
百骸、皆氣質也。是皆、天の一元氣の凝
かたまりて形質と成たる也。即ち天地
浩然の氣也。故に孟子も、其氣たるや

義と道とに配せて是餒る事なし
とて、人は仁に合ひ義に合ふ時は天地
と合一となると示し玉ひり。是、理氣相
離れぬもの故、氣を養ひば即ち理に
合ふを以て也。故に人は五倫の道を全ふ、
形ちに踐行ふ事なければ、天人合一とは
取れぬ也。

明徳

明徳とは大極なり。然れども明徳といふ
所は、人に備りたる上にて本心といふ、
其本心の妙をいふ也。尤も應用を主とし
て説り。故に其躰虚にして、形色声臭
無きものなれども、其用甚だ霊明不
昧にして、万事万端に應接して自由
自在なるを以て明徳といふ也。即ち大
極の妙用也。

至善

至善とは大極也。されど至善といふ処は

大学の注にも事理当然の極也とて、
凡五倫の交はりより万事万端少しも
人欲私意の汚れ無して受得たる本
心の通り我身に行ひ尽し、其道躰
国天下に推し及ぼし、人物各其大
極妙用の位に合ふて天人合一となり
おふせたる処を至善といふなり。是学
文の極切、仁の圓無垢なる処をいふ。少し
善なりと思ふものあらば、至善にはあらじ。

右論孟学庸の教へ并五性の名目、各々
其名異にして理同一なる訳を、言語同
断の事なれども、止事を得ず今、水を
以て是を譬ていはば、先づ仁は性の徳とは、

水の無味にしていさゝか何ともなきが
ごとし。是を仁といふ也。浩然の氣は理
氣全きの称とは、此時は氣は水のごとし。
氣とは形氣也。形氣とは人の身なり。此身
則ち水のごとし。水には水の道理有
て水の道理とは、離れぬもの也。人の身
も同じ事也。故に中庸にも道は須更
も離るべからずとありて、此浩然の氣は
義と道とに配合すとあり。道とは全躰
の道理にして仁也。義とは仁の割きなり。
故に此水々の通りなる時を、浩然の氣
といふ也。此天地充塞の氣にして則ち、
天と身と一躰に成たる也。性は則ち天也、
水也。此身も水に成たるは、則ち天なるに
あらずや。中は性の妙とは、中も性の別
様にて、則ち水の譬へは大湖の水の中
へ籠を漬て其籠の中の水を見よ。此
人の性のごとし。其の籠を縦横自在に振

廻しても、篭の中の水はいつも何方へ
も傍らず、偏よらず充満してあるは
未発の中のごとし。故に種々の器物を
以て外より此を汲けるに、悉く應じ
て過不及なし。圓には圓に應じ、
方には方に應じ、長は長に順ひ、小は
小に満つ。廣狹巨細来るに任せてただ
ゆれども、盈欠なし。此妙なるにあらず
や。明徳は人の妙とは、中の妙は未発を主
として珍也。
明徳の妙は應用を主として説也。故に
其躰は虚にして視べからずといひども、
其用霊明不測にして、判事に應じ
て滞りなきは則ち不顯の虚、衆理を具
しにより微妙にして自由自在な
るにあらずや。然れども畢竟は躰用
一源顯微無間也。仁義礼智は心の道理
とは、譬へば心は水のごとし。其本体、名

付べからざる所、一毫の不善なき故に
其名を性善ともいふなり。水には定れる
形ちなきは、虚に似たり。其水、何事何物
にても来るまゝによく應ずる、霊明の
ごとし。偖、其應ずるに動かされぬ道
理あり。水は水にして火にあらず、木に
あらず、土金にあらざるは仁のごとし。人
は人にして私しなきを仁といふ。故に
仁は人也とも又、仁は人の心なりとも孟
子もの玉へり。偖、其少しにても高き
かたへ登らず、少しにても卑方につき
て流るゝなり。是を礼といふ。其水流る
べき方をしる。是を智といふ。流るべき
方へ流るゝ。是を義といふ。此の道理違は
ぬを信といふ也。心はさまざまにうごき
働けども、本心の動くは此四つの道理
の外なし。喜怒愛懼哀悪欲の七情、
此四つの働き也。喜哀也。愛は仁に屬し

怒悪は義に屬し、懼は礼に屬し、欲
は智に屬する也。是、心の道理ならずや。

五常

仁義礼智信、わけていへば五つの名目有
といひども、皆仁中の名也。されど具さに
分ちいふ時は、仁は混然たる一理にして
少しも人我なき時をいふ。我なくん
ば何ぞ私しあらん。故に本善の善とも
いふ也。本然の善とは、名付くべからざるの
名也。名の立ざる時、何ぞ不善あらんや。
此の仁発して愛となる也。義は即ち仁
の変化にして、割支して宜となる也。
礼は即ち仁の常恒それぞれに位して、節と
なる也。智は即ち仁の清明、常に照して
直となる也。信は即ち仁の成就して
著しく正となる也。故に仁にして義
礼智信なきは非仁也。義にして仁礼
智信なきは非義の義なり。礼にして

仁義智信なきは非礼の礼也。智にして
仁義礼信なきは邪智也。信にして仁義
礼智なきは小諒なり。故に仁にして
義礼智信を兼備する時は真の仁と
成。此の真の仁、即ち至誠なり。至誠は即ち
天の徳也。人に在ても心徳なり。故に
天人ともに至誠は即ち性情を統る也。此れ
大極也、陰陽也。陰陽なり、大極なり。

右全終

寛政乙卯春三月六日書
秋田孝季