断片史料集5

平氏滅亡と平泉滅亡

討ち討たるは武家の常ながら、平清盛が身辺、平氏のみを己が出世の親近とせしにや、坂東平氏に冷宮そのものにて、清盛を討べく坂東八平氏は三浦一族をして源氏と通じたり。

亦、平氏を起したる東日流安東一族に、海運勝手たるべしの一言にあれども、難波に航す安東船はことごとく積荷を權奪さるる憂あり。伊豆に配されし義朝が長子賴朝は、一族を通じて平氏討伐を企てたり。さながらの理由以て鞍馬の義經を奥州平泉に移し、坂東・奥州に兵を備へたり。

平氏の滅亡は哀れにも、安徳天皇をようして脱難の途を南海道や築紫に求めたるも、餘りにもおごれる過業に於てをや、たれとて源氏に峰起せるものなく、東日流なる安東一族もまた今更に平氏を援くるの念はなかりき。赤間の浦に殉ぜる平氏のあわれさや、安倍一族が衣の舘や厨川の役にも似たり。

平泉にては永く義經を育みしに、平氏の滅亡あとに、義經をして鎭守を北都とせんにや□にも朝庭に親近しける。義經をそねみたる賴朝の鎌倉に在りて、心よしとせざる義經、奥州に落にけるを朝庭にてはいかでかとどむる術あらずや、一度以て朝庭議して、賴朝追討の勅を賜りしかど、義經是を辭して、孤り奥州へと忍びたり。

義經が育みの郷・平泉は長治乙酉年に鎭守府將軍とて淸原滅亡のあとを継ぎけるを期に、平泉金色堂及びその佛塔・佛寺は三百棟を越ゆともなる天治甲辰の建立は京師も及ばざる華麗なものにて、東日流安東船が異國より資材や得たるものなればなり。

藤原秀榮、東日流入國以来の親交ながきが故に得られたる異國の佛品、いかで清衡が産金貢馬の益ありとて、十三湊なる水軍なきに是く到れるはなかりき。とき同じくして十三浦にありては、平氏の明神寄進以来、秀榮亦平泉におとらずと金剛界・胎藏界なる曼荼羅法壇に佛寺を顯さむ十三宗寺を創建なせしときなり。

平泉にては二代秀衡滅後、泰衡の文治己酉年に、義經平泉ありとて、賴朝、日毎に怖れたるは東日流なる安東一族、十三湊なる藤原氏が平泉藤原氏と連合せしには、いかで坂東・西國の兵を總挙せしとて討伐難し、と急挙に平泉を敗らん挙兵二十八萬騎を七月二十九日進軍せり。

三手に軍を分進なし、伊達郡阿津賀山に應陣せる藤原國衡、是れに不惜身命の激戦をなせるも、多勢に無勢の相違はやくも決し、國衡は無念の死を以て阿津賀山の地に散りぬ。ときに泰衡、平泉陣営に走り、急使を十三湊・藤原秀基、藤崎城主・安東貞季に援を請状せしも、その急使は岩手安代峠にて糠部成昭の舘に立寄りしを暗討ちなし、成昭是を功とせり。

八月二十一日水澤に防ぐ諸陣も破れてより、平泉の柵は自から火をかけられて、義經は遠野に走り、泰衡も秋田贄の柵に河田次郎のもとに身を寄せしに、和田義盛是を追って圍みければ、河田次郎怖れて泰衡を暗討て、その首級を義盛が馬前に差しいだし功を請ふるを、義盛是を怒り、尋常に勝負をせざるのみならず、恐れ多くも己が主を討つは犬にもおとるものよ、と自から太刀抜きて河田次郎を斬首なし、後に土崎・北浦にては、安東一族の義兵起たるを説得にて鎭めたり。

泰衡の首級は、賴朝の前に八寸の鉄釘にて路杉に打ち付かけられ、検視の後にては、その首級を降伏せし比爪俊衡に與へられたり。俊衡、是を災火を免かれし中尊佛寺に葬むれり。

ときに義經を検視せし處、髙舘にては笹川次郎義衡郎從、身代とて焼死せしを賴朝疑はず、認むる眼に涙ありき。

ときに、義經はるか十三湊藤原秀基の舘に忍びて、のち唐船にて満達へ遁がれたり。然るに是くある秘事を、藤崎方安東貞季、知る由もなきに十三湊にその眞僞を責むれば、老主秀榮髪を落し主を退きて壇臨寺隱居なして赦を請願し、その悔證とて藤崎に山王に建得べき平等教院を藤崎に建立なして許を得たり。亦、石塔山に大山祇本殿をも建立なしければ、ようやく貞季の噴を鎭ける。

さてこそ平泉にては、賴朝却りしあと、陸奥の守備に残留せしは和田義盛を總將となし、小諸光兼・佐々木盛綱ら越後・信濃の御家人、工藤行光・由利維平・宇佐美實政をも任じたるに、起りたるは大河兼任にして、出羽道に源軍を迎へ討つべく鉾先の空振りにやるかたなく、栗原一の迫に源軍守備陣を襲ふたり。

不意を突かれし津輕の宇佐美實政、男鹿の由利維平ら敗死なし、残る源軍も一進一退にて、急挙鎌倉より足利義兼・千葉常胤・比企能員ら援軍に走りて、翌建久庚戌年正月より大河勢を栗原の迫を抜きて退かしむ。大河勢を外濱までも追討なして半減なしけるも、津輕戸門の関に安東勢、鉢巻山にては藤原十三勢かまえたるに、源軍しばらく追討の砂太を鎌倉に走らせむとせしにや、安東勢どっと大河勢を攻めたるに依り、源軍も悦びて大河勢を誅滅せり。大河兼任、孤り諸々をさまよい遁ぐる後、伊治城下の栗原寺にて自刃す。

右、元仁甲申年、記。陸奥流星記より。矢巾邑住 宇佐美忠賴、藏。

寛政六年九月二日 秋田孝季写

萩野台之乱

平泉藤原鎭守府將軍基衡の次子秀榮が、十三湊に、安倍則任五代氏季の養子とて来るより、故家の一大事哀しみに、ただ手をこまぬいたるに非らず。時にして子の秀寿他界し、孫なる秀元に家督をゆづりなむときにて、藤崎方との對論、激したるときなり。

依て、泰衡に援軍をいだしものなれば、十三湊は藤崎の軍下に降るるの事情たり。久寿の死を安養ならしむとて、大費をなし唐天竺に應身丸・報身丸・法身丸の大船を造りあげ、文治戊申年、船をいだしたるあとなれば、兵馬の備また貧しく、急挙唐船に戦物を賴み、諸國の商船に兜鎧刀剣弓矢の入手を賴みたるも、期に合ふなく、大河兼任救出にても藤崎勢に閉がれしを口惜むる過却を常に聞かされし秀元の長子秀直、何事にありても藤崎方の妨げあるを不満とせり。

然るに大河兼任事件に、十三湊方もし救ひいだしたるなれば、藤崎方とて源氏の大軍敵に重なる祖先の二脚を踏むるの危轉なれば、先端切りて大河軍を外濱に討って、更には十三軍の鉢巻山柵をも包圍なし、源氏方には十三勢も大河勢討伐に出兵なしたりとて無事たるに、秀元逝きしあと秀元常にして兵馬のみを備へ、福島城を建固にその支城とて小泊崎柵・中野里柵・權現柵・盛多柵・外濱蓬田柵・鉢巻山柵を築きたり。

亦、十三湊にても商船なる築港を異にして、軍船を常にかまえたるに依り、藤崎方にては是を尋常ならざるものとて、寛喜己丑年、安東太郎貞季は平賀なる曽我時廣及び廣忠を伴うて、十三湊領も藤崎京役代官管領なる故に、検視處とて小泊湊に見巡舘を築きし材を運びしに、秀直怒りて是を焼却なし、卽挙の兵を挙げて藤崎城を包む。ときに梅雨激しくふりしきり秀直、萩野台に民家の大なるを野陣とせり。

藤崎方、はづめたづろぐも、是れに援軍せる曽我勢、十三軍の背後を突きければ、藤崎勢もおくれずと城門を開きて十三勢の陣に攻入りぬ。一刻の戦にて勝敗は決し、秀直捕はれて貞季の前に突伏せられたり。死の刑か流罪か、曽我氏・安東氏の決めつけたるは、十三領召上げのうえ渡島華澤城に終世あづかりとて、その親族ともども移すこととせるに、曽我氏是を末代に障りあれば處刑しべしとすすめたるも、貞季慈悲をもって渡島に渡したり。

寛元乙巳年、記。曽我次郎時廣

右、平賀郡極樂寺書管なり。

寛政七年九月 乳井忠邦

洪河之内乱

寛治丁未年、貞季が十三湊領を藤崎城と併せたるも、二城一主の治司は成り難く、十三領・藤崎城とに三年城替の掟をなして、領二主の政をなさしむ。太古に安日彦・長髄彦が治領せし如く、領主・副領主の定めに習へての掟なり。十三湊は日に日に、都の如く諸國の商船・外藩船の多ければ、その利益大なるに依りて、城主は三年交住の十三湊住は速く想はれ、藤崎住は永く想はれたり。

然るに治領能く治まりて、事ぞなきに、正治庚申年、平泉藤原泰衡の旧臣・藤坂興祐なる者に仕掛られたる馬鞍に乘りたる賴朝は、落馬なして長床せしを、北條時政に毒湯を謀呑なさしめられて入滅以来、東日流に鎌倉役なる㝍令なし、内二郡を得宗領たれば藤崎領せばみて、三年交城の掟ぞ雲ゆき怪しき兆ぞ起らむとす。

安東水軍の商易益々盛んなるに、藤崎にては寒々たり。元亨壬戌年、安藤季久、藤崎居城三年の期限了り、十三湊に移りなん事に、福島城主たる安東季長、病と稱して延期半年に及べども、復砂汰なければ、季長健全たるを聞屆けたる季久、大いに怒り、兵馬を從へて十三湊領に入らむとせば、季長また兵を挙げ、行来川末なる十川口・洪河落合に両陣なして交戦しけるなり。

時に季久、是の一切を鎌倉に告訴しけるに、役目なる長崎髙資、是を受仕りて来れるを、季長もおくれずと賄賂をたくして事の便を賴みければ、季久もまた賄賂をなして謀れり。然るに髙資、双方より聞屆なして日月を經しも判決なければ、嘉暦元年三月、侍所別當付なる工藤祐貞来たりて櫻庭なる得宗検非違使庁に双方名代を審しけるに、季長に事の非ありとて捕らへて鎌倉送りとせしにや、安東一族長老ら石塔山に集いて謀り、安倍家墓前にて二城一主の治司に復したり。

祖に告げて法要をなし、事の決議を工藤祐貞に告げて、季長を解くべく請願しけるに、工藤氏是に應ずるなければ、兵を挙げて六百の幕軍誅滅なし、季長を救いけり。依て、この事件一切を私なるものとて、安東兼季、幕府の砂汰を待てども如何なる砂汰もなければ祐貞を放つるに、曽我資光・南部長継・宇都宮髙資・小田髙知ら祐貞をたすけて事治りぬ。ときに季長、自己の業を悔いて禅林寺に自決せり。

嘉暦戊辰年、記。陸奥軍件始末、諏訪大明神藏書。

寛政十年五月二日 大溝順慶

大白鬚水と東日流の乱

降りて湧きたる如き忘れざる國難が、元といふ大國が日本國を侵略せんとせる黒雲が朝鮮に到り、わが東日流の北方流鬼國までも侵略せしにや、元使幕府に来りて降伏を請状し来たる。

將軍時宗、是を斬りて應ぜざれば、弘安辛巳四年五月、元兵十萬築紫に襲い来る。幕府の要請にて安東水軍出船せしも、元船と倶に暴風雨に𣲽みたるこそ空しけれ。かかる元軍を山に追いつめ討取りたる處、今に傳へてモウコ澤と稱すなり。

東日流にては、一難去ってまた一難襲い来る。興国庚辰年、翌辛巳年に渡り大白鬚水が起こりて、死者十萬たる大慘事相成り、十三湊なる水軍、群なす商船もまた海底に消え失せたり。

(※この部分、ページ欠落)

應永□午年、遂にして安東教季との合戦となり藤崎城は炎上せり。かくして嘉吉癸亥年に到る長期の戦を以て、東日流はただ荒芒たる草原に田畑は荒れ放第たり。

依て、安東一族は謀りに謀りて、東日流の故地を放棄せり。一族の新天地は渡島・秋田に前途ありて、爾来五萬五千石たる三春藩の主筋ぞ、まさに吾等が安倍・安東・秋田に姓を移し國を移したるも、今に萬歳たるこそよけれ。

寛政六年八月 (※以下、判読不能)