断片史料集8

鑛草探抄

古人は金鑛之存在を、鑛草生ゆる處にて見當てたりと曰ふ。奥州は産金・貢馬、及び海幸を以て干物・塩漬に保つて諸國に商益し、冬間に備ふる智惠の商品と相成りぬ。

先は鑛山産金法、總て鮮卑之民より傳はり、奥州に産金せしは歴史の創めなり。次に貢馬なり。奥州馬産は古来にて、蒙古馬なり。次に海産なり。是を三輪之寶と號す。安東水軍の商法は、仕入に労し、賣に安かるの術を盡せり。依て、損に堕ゆくなく、亦世襲の權に左右を制せられず、平等に商易を以て旨とす。常として貸借をせず、物交一義とせば、その利益復重して得るなり。

安東船は一帆ならず、三帆にして沿岩を航せず、海図にて潮先を案ぜり。依て、星見、北斗を測り、日点を測り、その緯度を識る。

東洋に大澗港・釜石之津・塩釜之津、西海に十三湊・土崎湊・砂泻湊の六泊を挙げて安東船商航す。

宋造 安東船図 千石積安日丸

益あらば非人にも頭を垂れよ、益なくば武士とて怖れず、殿上人とて誓約断決せよ。益は一文にても不済とすべからず、約束を果断せしめよ、とは安東一族水軍の掟なり。

寛政丁卯年 秋田孝季

建武之親政譜 原漢文

元亨二年に起きたる安東一族の内乱・洪河の変に、鎌倉幕府の威政も無能のものとて、諸國の武家・家士に天皇親政の復興と、北條討幕が火箭を放たれ、上野に新田義貞、皇軍を挙兵し、秋田河辺在郷岩見澤に和田義盛一族が恨敵・北條一族に祖恨を晴さんとて、一族挙げて新田氏の挙兵に駆援せり。

依て元弘三年、鎌倉幕府は亡び(※以下、欠落)

東日流史考図 三十五景謹画

五萬年前、阿曽部族、凍海を渡り来る 第一画

イカダ乗りの画

(※以下、欠落)