断片史料集10

歴史考図

限りなき古代、果しなき宇宙。永く推憶だに及ばざる宇宙の天體にも、生命ありて生死ありとは、偉大なる學文に依りて究明さるるも、その學びに覺得實益に選得あやまりては迷道となりぬ。とかく歴史の傳にして、その世襲に依りて權者に遺るる多し。

本巻は、その地にまかりその秘傳、卽ち權者なる史傳・正史に基かず、地の長老・老婆の語りを基として、文盲の人々をして納得をせむが爲に、図を以て史顯す。

第一図 宇宙誕前

(※不鮮明のため、図を省略す)

第二図 宇宙誕生

(※不鮮明のため、図を省略す)

第三図 星雲誕生

星雲誕生

ママ図 星界誕生

星界誕生

第四図 生命之誕生

凡そ生命の誕生は、光熱を与ふる日輪と、地に湧ける海水に依りて、地質水溶の物質にて化合せるより、生命の種原ぞ發生す。

生命之誕生

生物に進化あり。海より陸に生々せるに至る。萬物に生命體を分岐なし、進化のなきものは滅び、適生に進化せしもの耳今に遺れる生物なり。卽ち、歴史の源は未だ人の顯れざる前にて、億萬年の過却あるべきを知れ。

寛政十二年 孝季

奥陸風土記下

序言

此の書は、古今の史傳を記したるものにて、求史の學を外藩紅毛人の博士にも學び、歴史の實相を求めたるものなり。

依て、朝幕藩の禁書と相成れる記行も是あり。門外不出、他見無用とすべし。

寛政十二年 秋田孝季

奥州史談

みちのくのきわまる國末、宇曽利・津輕両半島にまつはる歴史より、奥州の史源は始りぬ。抑々、紅毛人にジパングと日本國が稱されきは古代にして、津輕をツパンと稱したる由縁なり。大古に陸海の凍結して、四季の頃に解氷なく、冬期耳永き世あり。

西大陸より、草木の緑ある日本國に渡りくる鳥獣あり。そのあとを追へて来たる古人あり。是を、紋吾露夷土族と曰ふ。次にして永き寒冷の世去り、解氷期の世に至りては、西大陸に極寒に風化されし表土が粉塵と相成りて、黄土嵐ぞ吹き荒れ、緑の大地を冠土し、不毛の黄土荒原を擴げ、生けとし生けるものまた緑地を求めて移りき。

卽ち、わが日本に渡り来たる古代人祖ぞ、始めを津輕にては阿蘇辺族と曰し、次なる渡民を津保化族と曰ふ。卽ち是ぞ、日本古代人にして、われらが元祖なり。古代の辭にして津輕をツパンと稱しける由縁にして、東に日の昇る國と曰ふ意味なりと曰ふ。依て後世にては、渡島を日髙國、奥州を日髙見國と稱したりと曰ふなり。

奥州の古代にては、住むる民族のチセコタンの護りとて、ポロチャシチャシを築きて、オテナ酋長エカシ長老の治安に民族は國造り、勢あるものは南に移りて新天地を國造りぬ。

それを名残るべき史跡は、地名に依りて知るべきなり。ナイまたはベツ、ホロ、シリ、ナカノあるいはベの名付く處ぞ、古代なるツセやコタンの在りき證なり。その分布に於ては、日本西南の地に至りぬ史跡あり。石神信仰の遺れる處、また然なり。古代人は能く石神を好み、死者への靈を尊ぶ。依て遺跡また、少なからず死者轉生を信じ、未来世に生れ来るための再人體を神佛に祈りて、能く他宗教を受け入れり。佛法・耶蘇教らまた、倭神の入易き故にその神社・佛閣跡ぞ多し。

然るに古代人なる神、イシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイ、天地水神の他、死の神ダミ・ヤントラカムイ、産の神イペ・ガモカムイ、童の神ビッキカムイ、保食の神ヤモツカムイなど限りなく、天然自然みなながら神にて、ヌササン祭壇を設けイナウ神宿を建て、イオマンテにはカムイノミ神火を焚きて、オテナ酋長エカシ長老の祭司が行ぜられたり。

常にしてコタンにはイタコ靈媒ゴミソ神職オシラ占師などの神職ありて民族戸々のチセに巡りて祈祷す。是をトメコ人寄と稱し、また葬儀にてはダミと曰ふ。後世の信仰にてはアラハバキカムイと稱して、イシカ、ホノリ、ガコを稱合して崇拝せるに至り、是ぞ津輕に倭國より落着せし安日彦王・長髄彦王らの民族併合に依る農耕への移りなり。

かくして大寶辛丑の年に至りては、大和の葛城より役小角来たりて修験の法、流布され金剛不壊摩訶如来を本地とし、金剛藏王權現を垂地とせる役小角の直傳に依り、神佛混合の崇拝相渡りぬ。

修験の法は、安倍一族卽ち荒覇吐王代々に庇護されたるものと相成り、後に坂上田村麻呂が佛法流布に来たりて能く渡れり。日本史傳に田村麻呂を蝦夷征伐を果したるものとせしが、奥州にその史傳なく、佛法巡教の師たるのみの傳ぞ遺りぬ。是れ蝦夷征伐ならば、かく田村麻呂を聖者とて遺るなし。

次に康平五年をして安倍一族が源氏に亡びて、後なる藤原氏に依りて起る中尊信仰も榮へたるに、源氏二十五萬の挙兵に亡びたる後、金光坊圓證来りて、念佛布教なれり。金光坊こと石垣觀音寺勅願道場僧とて、叡山惠光上人より阿闍梨を賜りたる僧なるも、筑紫にて猪方三郎との寺領爭動を鎭むため、鎌倉にまかり越して直訴に及ぶ道中にて、鹿谷源空坊門下の安樂坊なる辻説法に感銘なし、念佛本願こそ往生に安心立命を得ること易き法なりと、源空の門下に入り、その後奥州への念佛布教を志し、末法念佛獨明抄を念佛本願とし、俗人阿波之介の道案内にて眞似牛寺を栗原に建立し、更に遠野に善明寺、秋田に金光寺、津輕に施主寺・西向寺、十三湊に湊迎寺、江流澗に淨縁寺。

かくして、修験の教にある法明山大泉院を念佛宗に攺宗なさしめ、津輕念佛布教の願祖たりしも、建保五年三月吐血病にて、行丘の地に往生せり。安東一族の庇護にて金光坊の淨土宗、津輕に弘むは、金光坊が説きたる末法念佛獨明抄に依れるものなり。その序言に曰く、原文漢書

凡そ念佛を誦すは、末法の本願に只南無阿弥陀佛と唱へ奉る、乃至十念に二尊の本願とせる往生極樂の入易き法門の故にして、長誦の教典を求道に無用とし、只一向に念佛を聲に唱へて、諸祈祷を越え、罪障亦恨靈・諸惡業の障りを消滅なし、念佛本願をして一心不乱なれば救済に求道安からん。

諸行のなかに念佛往生をして、救済の實相ぞ顯れる験なく、罪人尚善人をして攝取不捨なりせば、その本願に入りては平等なり。是の法は諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅爲樂なり。

亦以て大乘・小乘の金剛・胎藏両界なる理りを、一向念佛本願を盡してあやまらず、光明無辺の誓願に渡り、南無阿弥陀佛と唱へて他心なければ往生極樂に達す。是卽ち、末法念佛獨明抄本旨にして、諸法諸行の苦行を要せず。苦學を要せず。朝夕に南無阿弥陀佛、乃至十念、積む程に二尊の救済に会はん。

建仁二年 金光

右の如く金光坊の教理、奥州に念佛の種を蒔かれたる稔ぞ、今に遺りけむこそよけれ。藤崎城中に施主寺を建立しけるは安東太郎貞季にして、平等教院の建立と時、同建なりと曰ふ。金光坊の墓、もとなるは天狗平丘なれども、源常林に移しめしも、北畠顯成が行丘を安東氏より施領せしとき北中野に西光院を建立し、金光坊を鎭座せしめるとき、源常林より更に金光坊墓を北中野甲野家邸に移しめしは、この地ぞ金光坊が臨終の聖地なればこそなり。

金光坊が旧墓にそびゆ銀杏の巨木ぞ、安東氏が好む靈木なり。亦、金光坊が大泉院にありて念佛樹とて植えにし銀杏ぞ、今法林寺境内にそびゆ。此の處、もとなるは大光院修験念佛道場たる處なり。

金光坊はもと筑紫猿田一族・長安寺國平が實父なり。折しも筑前・筑後の地に荘園をかまふや、地豪の當道及麿と戦ふや、長安寺一族敗れて敗走の途中に、石垣の觀音堂に子息・日輪丸を隱したるに、その追手にはばまれ乳母は日輪丸を置去りしまま脱走せり。

ときに當道氏に子無ければ、とき折この觀音堂に子授を祈りしに、空腹に泣く赤兒の聲あり。堂内に入りて日輪丸を見付け、是ぞ觀世音の授兒とて、吾が子とて養育なし名を當道現若丸と號けたり。卽ちこれぞ、金光坊が幼少の運命にて、武家とて當道家を継ぐるや、實父なる長安寺氏が報復の合戦に挑みぬ。然るに現若丸、實父と知らず長安寺氏を討取り首級を挙げたる初陣に、觀音寺別當・精覚律師より事の事實を聞かされり。

現若丸は出家を志して叡山にこもり、座主の惠光上人より諸學を學び、叡山にこの僧ありと、法名・金光坊とて、現若丸、阿闍梨の苦行にも千日行にも耐えたり。依て、勅願寺別當とて鎭西石垣觀音寺に住寺なし、寺領に新田を拓き、石垣金光坊の名ぞ髙名たり。然るに地豪の猪方三郎、寺領を侵犯せるに依りて直訴に鎌倉幕府に赴きしとき、安樂坊の辻説法に會ふて、鹿谷なる法然上人のもとに入り、金光坊は念佛僧とて、善信後の親鸞や鎭西聖光らと相佛弟子たり。金光上人の史談ぞ、行丘覚書に明細たり。

安東一族をして、かくも佛僧を入れて一族の心に安らぎを与へたる僧は、十三湊に十三宗寺あり、龍興寺あり、長谷寺あり、三井寺あり、禅林寺あり、壇臨寺あり、阿吽寺ありて、平泉におとるなき威榮も、興国元年の大津浪より哀しくも、南部勢の長期なる戦に灰燼となりしは、たれを憎みんや。

一族は故地・津輕を離れたるは嘉吉三年にして、安東一族を以て建立せし後の寺閣は、渡島に阿吽寺、土崎に湊福寺、檜山能代に淨明寺、若狹の小浜に羽賀寺を建立なし、安東一族の信仰なる深きを知るべきなり。津輕に遺りしは石塔山・大光院あり。今に以て崇拝さるるなり。

寛政十二年 孝季
吉次

終章

安東一族をして、茲に歴史の證明多けれど、三春城焼失の際に灰燼と相成り、欠書の史談を今に求めて諸國を放浪す。以て諸縁者に告ぐ。縁れる藏書ありせば訪㝍を願ふものなり。

閉伊遠野にて 秋田孝季
和田壱岐

縁者各位殿

三春藩御許印(家紋・馬印在り)