断片史料集11

一、根子彦卽位之事

荒覇吐王大根子彦王、於奥州朝来髙倉集長老、故地耶馬台國欲奪回、求衆議心意、五十二郡將士賛是、皆挙。依兵陸路六萬、海路一萬、征討軍進倭國。茲故安日彦王長髄彦王二柱怨靈、欲晴一路倭路進軍於伊勢志摩、水軍兵具兵糧荷上難波路入倭國進駐、日向縁者討伐。茲無敵勝利挙喊聲、大根子彦王領中掌握。依子根子彦爲倭王於三輪山即位僞相果者也。

元亀二年六月一日
物部宇麿

二、荒覇吐王之事

東日流に起りたる荒覇吐國、速やかに成れるは、耶馬台國王・安日彦王の睦を一義とし、地の阿蘇部族・津保化族の安住を妨げざる故なり。亦、稲作を導き衣食住の攺むるも援け、更には馬を喰はず乘馴し、家用に飼ふものとせるより、道開き橋を架し、住よき地に邑なし、海・里・山の三境に住むる、相互なる産物の物交を以て和を保つ。

茲に、一業に暮せる民の営成りて國なれり。抑々、荒覇吐神信仰にても、地の信仰と結び、崇拝の禮祈を心とせるにも睦の一義たり。林を伐り、畑を拓き、葦を刈りて稻田を拓くも、衆労にして成れり。亦、海に漁をなせるも、糸つむぎ、網大張になし、衆をして大漁とせるも、智覚の相違に依りて、雲泥の差に在り。

是れ耶馬台國・支那流民ら、その智覚を地民に導きたるに依りて、農耕・海漁・塩造・衣織・狩人・鉐師、諸職の業に選望なして、その一業に専念しけるに、民衆をなさでの暮し、成らざると覚つなり。

然るに人心皆同じからざれば、惡を起す故に戒めを造るも、衆決なれば從がふる多けれど、群ずる惡人起らば、正心の民その惡に敗れずと、討物手に執りては戦と相成りぬ。かくなりては人道正邪の理も通らざる弱肉强食に、ただ權力のみまかり通るも久しからず。その報復や蒙むらむ。

依て衆を護る治領の王を、衆より立つる王と、權力尚武勢戦略にて立つる王との道ありて、歴史は今に遺れるなり。然れども、おごれるものは久しからず。過昔の歴史は物語なり。耶馬台族・晋の流民併せて東日流に王國を造らむとせる要たるは、衆立の王國を創らむと志ざし、地族長老の同意を旨となし、茲に民族併合の國、號けて荒覇吐國とて創國し、各長老の選に依りて茲に王位に選抜さるるは安日彦王にして、その副王とて長髄彦選ばるるなり。かくして、日髙見國一統の王位一世とて荒覇吐國はなれり。

元禄十年八月一日
藤井伊予

神佛の道とは

第一画 宇宙の創

(※ここに宇宙の画あり、省略。)

宇宙は全能の神なれど、天に仰げる視界ぞ、その一点にすぎざるなり。限りなき無辺の數に宇宙は連なり、常に星を誕み、亦消滅なして悠久なり。神の相は、大なること是の如く、小なること空に飛ぶ微塵の如く、空の如く風の如し。

人は、地星に生々せる、萬物生々の一生物なりて、智能に更るとも、全能の神に通ずるは一毛の眞にも足らず。ただ無常の風に命運を委し、自から神を造りて尚迷信に堕いなむ。

神なるは人、萬歳に生々すとも、人心にて自在となるはなし。神を説く者を古今に通じて、人は聖と崇み、神殿・佛寺の費を献ぜども、その者をして救済の利益に援るなし。神と佛の道とは、人に依りて好むものの、願行にして崇拝せずとも障りなく、眞なる神への信心とは、求めず欲せず、言聞視ざるの一念に覚つ。安心立命は自からを天命に安じべし。荒覇吐神はその心境にこもるなり。

元禄十年四月二日
藤井伊予

荒覇吐王、倭への道

故地耶馬台國を日向王佐怒王の侵略に𨦟折し、一族挙げにして奥州東日流に落着なし、荒覇吐國を興せし第一世なる安日彦王・長髄彦副王の累孫、東日流より閉伊、更に宮城と王家の髙倉を移しめ、地領くまなく荒覇吐五王の勢を押領し、更には坂東・越州に民を併せしや、いよいよ故地奪回を謀りしに、倭の故地にては日向東征軍なる王朝、その王權なるを内訌し、國主各々國を裂して一統の司ならざる八州に在朝なし、荒覇吐王大根子王の𨦟に應戦せるものなく、無敵にして故地に入れり。

倭の三輪山、故神の跡荒芒たれば、天社とし、更に膽駒山に地社を祀り、更に木の國熊野山に水神を祀れり。依て大根子彦は、王子・根子彦を三輪に、荒覇吐五王とて立君の即位に挙式なしける。集むる西領の國主百八十に到り、茲に孝元天皇とて仰ぎ、日本王とて忠誠を誓い、その朝臣に國を併せたるに、五畿七道の治領成れり。

右、永初辛酉二年宋書、安東將軍傳。鮮卑書記載項三巻六行、記題荒吐傳。

寛政五年十月七日
秋田次郎孝季

倭國、拔荒覇吐系縁

天下泰平なれば、亦、凶運を兆す。孝元天皇崩じ、皇子・稚根子彦即位なしてより、荒覇吐五王の南分倉たるの日下王政を賎しみて、開化天皇とて日本一統天皇制を五畿七道に宣布す。

依て茲に、北に在る日髙見王國をその指下に從はしめんとせるにや、茲に天下大爭乱を兆しけるも、双方から軍挙なければ、坂東を境に國分裂す。亦信仰に於ても、三輪を天神とせしも大神神社となし、膽駒山を熟速彦なる日下宮となし、熊野を攺神せんとせるも、地民是れに從はず朝熊彦、荒覇吐熊野水神境を石垣を積なして、常に武の備解くことなければ、日輪社を伊勢山田五十鈴川辺に祀りぬ。

是即ち、皇大神宮の創めなり。西王母を神と祀りける、神なる社なり。西王母とは支那なる古神にして、天山なる天池より築紫日向の髙千穂境に天降り、更に日出づる東海の伊勢に降りて鎭座せりと曰ふなり。

右、經迹物部神抄による。

寛政五年十月二日
横田郷住人 物部和仁

上毛野田道、侵奥州

仁徳天皇の戊辰年、倭に於ては凶作相續き飢餓地獄たり。奥州も亦、田畑に五穀実らず、労々空しけるも、荒覇吐王高倉・分倉・縣倉・郡倉・郷倉に、くり越の五穀、祖来よりの習とて、無作三年に飢えざる保食倉あり。荒覇吐の民是を相配して、凶作に飢えざる生々を保てり。

かくあるを倭に風聞し、糧を援けむとて、使者を荒覇吐王髙倉に遣したるも、國飢ゆは國王に依りて自得自業なりとて、請願を断ければ、倭朝議に決し、上毛野田道之臣を征夷の將軍と任じ、兵を挙げ、奥州に攻むるも、荒覇吐王是に應戦なし、陸奥伊治水門にて倭軍を誅滅なしける。ときの王ぞ、日下將軍安倍安國と曰ふなり。

支那元嘉壬辰二十九年、宋書日下倭傳。藏書、奥州荒覇吐塩釜宮。

慶安己丑天五月日
伊達藩家来 和田家文書

寛政丙辰年八月三日
秋田次郎橘孝季

安倍比羅夫、以水軍侵北辰

天下之泰平、日髙見國に在り。荒覇吐王、渡島に北分倉の五王を志海苔に移し、東日流に郡王、宇曽利に縣王を置く。更にして、西分倉の五王を怒代より髙清水に移しければ、西海濱しばらくも國護の視防を、民の自警に委ねたり。

時に斉明女帝の乙卯年、奥州・羽州の荒覇吐五王の名代、倭に招ぜられ、南分倉の縣主・郡主を併せて六人赴きたり。對議の要は、荒覇吐五王に冠階を賜る故に、皇化の貢賦に從ふべき請議なれば、是を断て、歸郷なし、その旨を荒覇吐五王に報じたり。

依て、倭の征夷あるものとて、坂東に兵を備へたれば、倭朝謀りて瀬戸内の船人を募りて、越に水軍を挙げ、阿倍比羅夫を將となし、水軍百八十艘を連らね、國防の備へ空たる西海辺岸を襲ふたり。

とき斉明天皇の戊午年にて、その征討や最上湊・土崎湊・北浦湊・怒代湊・吹浦湊、更に安東浦なる十三湊・有澗濱に攻め来る。是れに應戦しけるは北分倉五王の馬武うまたけるなり。急挙海濱に柵をなし、飽田地湧油を火弾になして、ハタ舟をいだし對應戦せり。

安東浦攻めの阿部比羅夫、軍船三十艘のみ残して皆焼𣲽められたれば、降伏なし、羽州諸湊攻めにて戦利せし品を返上のみならず、残船十艘を荒覇吐族に献じて赦を請ふも赦されず、船積せる武具・兵糧を皆奪はれ、三艘の船に詰め乘せられて追放されたり。

越に、呑まず喰はずにして遁げたどりし比羅夫、この敗因にやるかたなき口惜しきを報復せんとて、朝鮮の軍船を得て己未五年五月、軍備尚要して東日流外濱に来襲せり。一度び赦したるに、尚攻め寄せたる比羅夫を怒り、ときに備へたるハタ舟は八百艘にて、宇蘇利縣主・青荷、渡島の白老、飽田の靑蒜あおひるら、後泻なるシリベシポロチャシに集いて、安倍國東荒覇吐王を馬武が迎へて謀り、應戦せり。

火弾を怖れて鉄を敷き、帆を降し、大櫓を以て漕ぎ来るを、荒覇吐軍、火攻めとみせて、張縄ダバに阿部水軍の船舵を不自在とし、ハタより撃つは火弾に非ず、宇蘇利山の硫黄弾なれば、敵船中、皆咳に苦しみ、再び武具を海に投じて降せり。

比羅夫、捕はれてシリベシの牢に六十日の間、その家来ともに一日一食にして、生と死の境に留置き、荒覇吐王國東が是を赦し、飽田に歩ませ、朽船に乘せて追放しける。爾来、比羅夫の侵襲ぞ絶えたり。

右、白神山縁起抄より拔き。外濱飛島神社鎭護書(※以下判読不能)