奥州隱史大要 一

注言

此の書は他見無用、門外不出と心得可。

寛政五年六月一日  秋田孝季
和田長三郎

序言

古紙を再活し史談を遺すも、貧窮にして後世の物笑いに相成るとも、詮なき老人の気ままなり。吾が丑寅の日本國は、創國以来、倭に先なる國號なり。

抑々、神と信仰を心にして、山靼より落着し、吾等が人祖は此の國に子孫を殖したり。代々にして、世襲は祖来の定着地を侵し、戦の巷とせるなかにも、忍びて暮すも蝦夷とぞ、人とて見ざる、倭國の輩に國號までも奪取されきは、吾等が祖来になる闘爭を好まざる民族の故に、代々毎に東北に攻入る戦の仕掛にも、民は更に北住となり、先祖の故地に移りき者ぞ多し。國敗れても人命を第一義に護持せるは、吾等が民族の意識にして、創國よりの傳統たり。

本書は、世にある事の歴史の實態を記しけるものなり。本巻の始より寛政五年六月十日になる朽書、秋田孝季の著書數々を復書し後世に遺すべく旨を、代々の遺言ありて、吾れをして三代、家業の間々に記し置けるものなれば、吾が子孫をして能く保つべし。

諸説、傳へあるものを遺すは蝦夷たる者、國の泰平を破られし者のあやまらざる至誠なり。依て、此の事記内容にては朝幕の政權に障り、世にいでざる史の藏書なり。

明治四十年十月一日 東日流飯積之住人
和田末吉

奥州記狀大要

倭朝にして、丑寅日本國なる荒覇吐王朝を、長きに渉りて殲滅を諸々の奸計を以て謀りたり。創國以来になる安倍一族を討伐せむ理由を工作し、倭民の意識に、反朝なる蝦夷は討べくものとて各庄に傳へ渡らせ、その史傳を創作せり。古きより奥州は、山靼と通じ諸々の知識にあり、騎馬になる戦法に強けたれば、頭面に戦にては征せるに及ばず、ただ反忠の仕掛を以て工作せり。

奥州・陸羽の地は農耕・山林・漁益に在り、山靼往来に依りて産金の技にて富める丑寅日本の國に、倭の慾望は日毎に強まり、古くは倭武、次に田道、次には比羅夫、次には田村麻呂、次には源氏に仕掛られたる兆戦の史は、一方にして奥州の蝦夷反乱と言ふも、蝦夷と曰ふ丑寅の君民は倭地を攻めたるに非ず、乱兆にあるは倭人にして、奥州を賦貢に從がはせむだけの略奪行爲なり。

倭史に如何なる文行ありとも、非道にあるは、倭朝になる征夷たるの和睦なき侵略に、應戦せるを反乱と曰ふは作説の倭史なり。丑寅日本の君主國は、倭朝の及ばざる古史歴傳にあるなり。歴史の上ほどに古を深くし、古代王國の證を深層になせり。

丑寅日本國の太古に證とせるは、人住なる跡の多く、石神信仰の遺物は古きほどに立跡遺りぬ。倭に遺れる石築とて、古代なる丑寅の信仰になる神跡なり。石を神とて築く信仰は、世界諸國にて時を同じくして、その遺跡を今に健全たる多し。山を神とし、天を神とし、海や河湖や沼に至るまで自然に心身を配り、神ならざるものはなかりきとて崇拝せる心地にあるは、造話作説の神話より尚健全たり。

然るに、古代になる丑寅日本國の歴史の殲滅を工作さる一因は、山靼に流通せる故に、是を魔神の術を蝦夷は赤蝦夷より修得すと倭人に怖れられたり。例へば馬の去精、牛馬の肉を喰ふも尋常ならざる蕃人と曰ふ由なり。亦、信拝するアラハバキの神に捧ぐるヌササンに、熊や狐亦は白き鶉の生贄を捧ぐる神を鬼神とし、その風説加飾にして傳り、人たる類の異に覚つたり。更には男女の刺青も尋常ならずとし、狩になる仮住いを獸物の樔にも似たりとぞ曰はむは、倭の草入になる人の告げを以て思はしむ蝦夷意識なり。

語部録に曰はしむれば、倭の王は耶靡堆彦王系・安日彦王の丑寅退却の後は、天皇記と同調なり。倭と國號せし創國になれるは、天皇氏も諸氏の一部族にして、倭國にある國主は春日氏・葛城氏・大伴氏・蘇我氏・物部氏・巨勢氏・和珥氏・羽田氏・平群氏らになる多王代たりと曰ふ。

此の頃になる丑寅日本國にては、坂東より以北に一統せし荒覇吐王ありて、安日彦王を初代とせし一系に民族併合相成り、稲作を営み、漁撈も舟になる沖漁、既にして成れりと曰ふ。亦、産鑛盛んにして産馬も亦各戸に飼はれたり。國に防人あり、部の民、二十年毎に王居と倶に西南に領擴して移り、坂東各所に王據をめぐらしぬ。荒覇吐王は一王ならず。東西南北に支ふる四王を加へたる五王を以て一國政事とせり。

山靼と交流し、地資の流通にて古きオリエントの先進に追從せりと曰ふ。丑寅の王國を遺すべく史家ぞ無きは、倭權法度とて朝幕倶なる圧制に依れるものなり。朝幕を奉る神社佛閣にある神職・僧侶も亦、救道の衆に平等の天秤を公平とせず、權從のままになれるは、康平五年より執政されたり。

古代になるアラハバキ信仰の攺めは、筑紫國東の大元神社・出雲大社・大和大三輪神社の他は、客大明神に祀る由なり。かたくなにアラハバキ神社の存續を今にせるあり。坂東は最も多し。依て朝幕は、門客神亦は客大明神として祀るを黙認し、アラハバキ神社とせるも障りなからしむとなりけるは、江戸城に城神とて遺れるアラハバキ神社を廢し難く、遂にはかくある信仰も存続を得たるるも、一度攺名にせる神社に於て今に復するはなし。

奥宮三堂に祀るは、古代アラハバキ神の他に非らざるなり。中央にイシカ、その左右にホノリとガコの神を鎭祭し、二禮四拍一禮の参詣を今にする社は、元なるアラハバキ神社の縁りなり。二禮の儀は地神と水神、四拍の儀は四方東西南北の神々、終りの一禮の儀は大宇宙になる日輪及び月神や星神に崇むる、一般になる信者古習の禮拝なり。是く遺れる古代なる崇拝の法ぞ、今にして遺るはまれなるも、是ぞアラハバキ神の遺習なりと覚つべし。

寛政五年八月一日 和田長三郎吉次

イシカ之事

世の創め、ただ暗になる他何物の無き無宇宙に、暗の重力に一点のカオスが生じ、大爆裂による光熱を以て宇宙を擴げむ。その衝激にて、暗黒に漂ふ微塵遺りて相濃縮し、天の川なる如き雲集となり、更に固まりて成れるは星々の天體なり。

燃ゆる星、岩質なる星、水と陸になる吾等の他、萬物生命のある地の星ら、宇宙は無限になる星の、宇宙は未だ暗黒の闇空に遊泳す。

是を號けて丑寅日本國の古人はイシカカムイと曰ふなり。

ホノリ之事

イシカになる兆億數の星のなかに、ホノリと曰ふ吾らの住める地星あり。地底に大火泥を包める地殻に、空風地水の質性動化にて生る萬物の生命誕生し、そのなかより人の誕生せしは天地水の成化なり。依て、人は是の天地水をカムイと崇めたり。

然るに、智に更けゆく人は、神を己がままに造り、神の法則を破り、その心に泰平と殺戮をなせる他、人は人を裁きて、神の天秤を己れがままに神殿を造り石築せるも、果は滅びて砂となり砂に埋りて消滅せり。亦は、土地毎、海に沈みたるあり。更には大密林の草木に埋りぬ。

ガコ之事

ホノリになる陸地の七倍を占むるはガコなり。古人は是をガコカムイと曰ふ。一日の生々もガコ無くして保たれず。一刻の空を汲せずして生々是無し。

水は空を造り、風を造り、雨や雪をも造れり。雲を造り、雷音・稲妻を起し龍巻や怒涛荒むれど、海に幸あり。

海草魚貝は人の飢を救済せむなり。かくほどにイシカ・ホノリ・ガコカムイは、人の一切を祖来に渉り育み来たりぬ。

天より日輪の光熱、大地に骨格、海に肉體を造らしめられたる生々萬物は、生死を以て祖の遺せる子孫絶えざる萬物の一生物に人間あり。

人間のみ神なる加護にあるべきと思ふべからず、と曰ふは丑寅日本國の信仰にて、アラハバキカムイと唱題を唱へぬ。神の聖所を尋ね、遠く山靼及び紅毛國までも巡禮せる神司の聖行に、忘却の報恩敵すべからず。

天明二年十月三日  江良惣吉

奥州佛法之事

欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。在佛弟子稱惠隆、梁惠志之師弟也。梁國號天監己亥年、高寺攺惠隆寺三十六坊也。

寛永六年九月一日  龍斉

奥州に佛法の傳来せるは、倭國より先代なり。梁僧・青巌坊が越州加志波浜に漂着し、人住多き會津に至り、持佛像薬師如来を草堂に安置し、日本將軍安倍國治に歸化を請ふて、高寺を建立せり。倭にては十二年後、百済の聖明王が阿弥陀佛を献ぜし前にして、梁國直通に渡れり。

安倍國治、荒覇吐王の南王たれば、是を入れたるも、吾が國に馴信なるは三十年後にして、惠隆坊が是を衆生に化渡を得たり。

此の時より、和賀の極樂寺、衣川の佛頂寺、閉伊の淨法寺及び西法寺、東日流の大光寺及び三世寺、中山大光院、秋田の日積寺及び山王寺、出羽の羽黒三山寺、相継ぎぬ。

倭僧圓仁や行基、葛城行者役小角来るは、此の古寺に求道せし故なると曰ふなり。

寛政六年八月五日  秋田孝季

判官公傳

源義経、文治五年閏三月卅日平泉高舘に於て自刃せりと傳ふは、僞傳なり。文治二年七月十三日、九郎判官主從は高舘を東北に旅立つて、赤羽根峠を室浜に至り、魹ヶ崎浦に豊間根族主・安倍高任に長宿す。

文治三年七月十六日、魹ヶ崎より船に糠部に至り高舘を築くも、地豪の衆、是を好まざるが故に、文治四年四月七日、外浜に至りて中山を西に越え忌羅市、砂力を経て十三湊にたどり、地主藤原權守秀榮に食客し、同年八月七日渡島に渡り、待尾間内より山靼に赴く。

蒙古に入りてテムジン族頭と會しとき、平氏一門の面々と先着の武家衆と對面に及びて驚けり。赤間に入水せしと思いき安徳の幼御門を守護し奉り、東日流浮太刀浜より安東船にて送られき由に、義経、涙して幼帝に悔いり。蒙古王ジンギスハンの客臣とて、建永二年蒙古國を擴げむ。大祖王のもと紅毛國を掌中に征し、赤き軍旗は平氏、白き軍旗は源氏とて成吉思汗のもと勇猛たり。

承久二年、義経成義壮とて蒙古國星海丘に寂す。

正嘉二年八月廿日  平野三郎

蒙古来襲之事

支那にては漢民に曰く、四衆の民を東夷・西戎・南蕃・北狄と稱せり。

成吉思汗及び王子の大宗に至りて、カラコルムに王居をなし、オロシアを破り、キエフを降し、全國を殲滅し、ワールスタット戦にては、無敵進軍の蒙古騎兵の前途を閉ぐあらば、二十七萬の敵をも誅滅せり。憲宋の代に至りては、ペルシア及びシリア更にバグダットまで及ぶる遠征を遂げり。その弟に世祖忽必烈ありて、高麗を征し、宋を滅し支那一統に伏したり。

然るに東洋に倭朝ありきを以て、丑寅日本國の安東船より聞き及びては、文永五年より同六年に至る使者を朝幕に遣したるも、倭國にては元となりにし支那王朝を知らず、朝鮮に勇士なる三別抄の注告をも無視せる始末なり。宋滅びてより支那の流通を断ちし倭朝及び幕府にては、元と曰ふ國の起りを知らず。

都度に来たる元の使者にては、始めに黒的・殷弘なるも、文永三年玄界灘を越えられず引揚げたり。次には再度彼らを遣し、太宰府にたどり着きて元の國書を太宰少弐及び武藤資能に屆けたり。時に文永五年一月一日と曰ふ。然るに朝庭に於ては元國を知らず。幕府も返書もせぬまま使者を返したり。

時に丑寅日本國にては、支那揚州にマルコポーロと曰ふ紅毛人・揚州知事に召抱へらる間、常に北海産物の商交にあり航益せり。

文永八年・同十年、相渉りて元使を太宰府に屆けしも、朝幕何れも國書たる返答もなかりければ、文永十一年十月十九日、元と高麗軍併せて四萬の大軍を二百艘に乘せて博多浦に上陸し、如何に防げども武具戦法、元軍は優威たり。倭軍の死者、一夜にして兵馬二萬騎を殉じたり。元軍になる武具に鉄砲ありて、火薬と曰ふ爆裂弾に何事の應戦も空しく、兵馬は殉ぜり。

然るに翌二十日に大暴風雨起り、博多浦に元の船舶の半數は沈没し、元軍は二十一日一兵残らず朝鮮に引揚げ、三萬人が災死せり。時に倭軍は是を神風として、戦勝無きも元軍引退を悦びたり。

元國の利なき倭攻も、商易なる国交の故なるも、元使を博多及び龍の口に斬捨てたる行爲に元王・忽必烈は怒り、弘安四年閏四月七日より七月一日までに、元軍が四千艘を二手にして十四萬人を挙兵して戦ふも、倭軍にしてその戦利に空しく六萬人の戦殉をいだし、諸國より築紫に出兵せど糠に釘を打つが如く、戦利の非らざる屍の山をさらしたり。

然るに七月一日またまた大暴風雨起り、三千艘の元船は肥前鷹島沖に沈没せり。依て、元軍の死者十萬人災死せり。海を漂ふ破船は、はるか奥州十三湊まで漂着し、安東船が是を助けて山靼に送り屆けたる數、一萬二千八百二人と曰ふなり。

元王・忽必烈は安東船の厚き救済にかんがみ、流鬼國及び黒龍江より以東北を日本國領とて與へたり。これぞマルコポーロの進言に依れるものと曰ふなり。元軍のなかに東日流歸化せる者、二十九人、閉伊に歸化せる者六十五人にて、馬産の祖人となる多く、一戸より十戸の牧を起したり。

元和二年十一月一日 新戸辺秀四郎

衣川関解図

衣川とは北に陣場あり。侍小路中程に六日市あり。侍町と相對す衣川に添へて七日市、八日市ありて泉ヶ城を鷹巣にかまえ、その南に釋迦堂、辨天堂、佛頂寺、中尊寺、藥師堂あり。鏡岳塔山、金鶏山を望む寺邸の坂下に宮小路、侍屋敷、高舘あり。

掘割を以て柳御所、猫間池、伽羅御所に引水す。衣川掘割を以て櫻川内に武者小路、侍町をなさしめ、太田川添に侍町、倉町、衆侍町、寺小路柳町をなさしめ、川股に勅使舘あり。大堀をめぐらせる高屋町、毛越寺の南に安倍舘ありぬ。南に二重堀を太田川より引水し、毛越寺の大泉池を満たし、安倍舘堀を通じ侍町掘割を経て櫻川に水を落合う水戸口の北を衣川、南を太田川と稱せり。かかる関町造りになるは、安倍日本將軍の大舘を、更に攺造せしは藤原氏なり。

享保元年八月六日  栗原玄馬

日高見草紙

倭史に曰ふ魁師綾糟とは、安倍日本將軍安治の事なり。秋田の思荷とは男鹿の五王にて男鹿吉賴の事にて、倭國にては諸謀にして陸奥按察使・上毛野廣人を遣すも、養老四年に誅され、神亀元年に陸奥大掾・佐伯兒屋麻呂も誅されり。その後、多治比縣守を征夷大將軍とて半年、藤原宇合を半年余り、六萬の兵にて奥州に入れども、無戦にしてその兵糧を盗られ引揚げたり。ときに倭の防人の餓死者、二百六十一人と曰ふなり。

神護景雲三年春、陸奥牡鹿の五王にして丸子氏に親近せる倭朝にては、謀策を一変し丸子氏を官位に入れて、その地領に藻鴉柵・伊治柵を築きけるも、是れ倭人の侵領と察したる宇漢奴公宇屈波宇が同志を挙げて安倍氏の本宮に告げたれば、丸子氏、怖れて倭に逐電し、莫大なる黄金を献じ、官人正四位上近衛中將道嶋嶋足とて倭に朝臣となり、古来になる荒覇吐五王の身分を轉じ、安倍氏に反忠せり。官軍七萬を卆いて蝦夷討伐を、丸子氏が將となりて陸奥を攺めきたるも、先に彼の築きし柵は焼失し、安倍日本將軍の先鋒を以て應戦せる宇漢奴公宇屈波宇の攻撃に敗退しけり。

寳亀十一年一月、按察使・紀廣純が遣はされ此柵の復興に當れるも、荒覇吐五王とて丸子氏の代王となりし伊治公呰麻呂の軍に、紀廣純及び反忠の道嶋大楯らは一兵残らず殲滅されたり。倭朝にてはかかる敗報におそれおののき、中納言從三位藤原継縄を征東大使に任じ、蝦夷討伐の策を謀りぬ。

寳亀十一年九月、参議右衛士督兼常陸守正四位下・藤原小黒麻呂を征夷大將使陸奥按察使に任じ、天應元年六月奥州に入るも、神出鬼没の荒覇吐族の毒箭に殉じて、逐電のやむなきに至れり。此の戦に當れる荒覇吐の將士は、伊佐西古・諸綾・八十嶋・乙代の南王配下にある當戦の強者たり。

水を斬るような、征夷のかんばしからざるに、延暦元年六月、倭朝にては春宮大夫從三位大伴家持を安察使鎭守將軍に任じたり。かくして、延暦三年二月家持は持節征東將軍とて陸奥に入るも、八月に暗殺さる。依て延暦七年二月、多治比宇美が鎭守府將軍とて、是に多治浜成・佐伯葛城・紀眞人・入間廣成らを副使とて從がはしむる。

時に是を向討つは、大墓公阿弖流爲及び母禮にして、安倍日本將軍四天王たり。延暦八年三月九日多賀城に結し、やがて道を北に挙兵せり。然るに二十八日、衣川を前にして佐伯葛城が荒覇吐軍に討たれり。依て一軍の入間廣成が指揮し、池田眞枚、安倍氏の忍者たる安倍猨嶋墨縄が参謀たり。

忍者と知らざる安倍氏の報告にて、官軍の軍謀ことごとく阿弖流爲に覚られ、巢伏邑の合戦にて伏兵せる荒覇吐軍、一挙に攻撃し、一刻にして官軍の將たる丈部善理、進士高田道成、會津壮麻呂、安宿戸吉足、大伴五百継ら討死し、九死に一生を得て遁げたるは、出雲諸上及び道嶋御楯なり。功のありける安倍猨嶋墨縄は、気仙の領主と相成れり。倭史にては墨縄を斬首せりと言ふも僞傳なり。

延暦二十一年、征夷大將軍に任ぜられし坂上田村麻呂は、軍装せず、和睦の使者とて阿弖流爲及び磐具母禮らを惑はしめ、荒覇吐の宮を耶靡堆に復せんとてつれゆき、亦、僞和睦を朝宮公卿僉議に會しむれど、虎を放つて患を遺すの判断に決し、太政官曹司にて斬首さる。

文中三年八月四日  井出宗一

奥州殲隱史抄

化外地とは、人を異にせる別國を曰ふ言葉なり。亦、蝦夷とは、人の相をした獣と同じ意趣なり。吾等が祖国・丑寅日本は人を異にせる獣人の住む國と、倭人は曰く。依て蝦夷とは、獣人を祖とせる忌しき存在たり。

和議と僞り、僞官位を与へ、一統信仰の荒覇吐を復祀せると僞りて、五王の大墓公阿弖流爲及び磐具公母禮を倭に連れゆきて刑殺せしは、坂上田村麻呂が道嶋嶋足の例を説きて信を得さしめたり。然るに心中鬼魂にして非道を極むるは、倭人の通常なる政道たり。

權謀術數は常にして宮職間に横行し、今日は誰をおとしめ、明日は己がおとさるの朝議政断なり。依て、丑寅日本國に仁義の誠に睦むなきを、總主安倍氏は此の事件以来、心に固く倭と對したり。

坂上田村麻呂とて、父・刈田麻呂と父子は漢の靈帝になる後裔とて、自讃過多にして倭朝を威圧せるしたたかなり。亦、倭朝に和睦を入れて、奥州に和平の官人を入れたりとも、狙ふは産金貢馬のみの、利益を得るが故の手段たり。通稱の名に俘囚とか東夷とて付記にして、倭史は今に遺りきを覚つべし。

抑々、古事記・日本書紀とて、古にある丑寅日本の国は人獸の如く記行し、語部にありし大野安麻呂及び稗田阿禮らの夢想架空になる奥州史談にして、僞愚の逑記なり。

奥州に語部録あり。此の書にありきは、言々須く眞に非ざるは無き衆遺の記録なり。如何に殲滅すとも、久遠に失せるなきは荒覇吐神ぞ護持す。

寛政五年六月一日  和田長三郎吉次

丑寅日本史大要

太古にして宇宙は無にして、時空も無かりき。ただ暗冷にして漂ようが如き、量子の重力のみにひづみたる一点に發したる重圧の宇宙禮ぞ、密度に限り大爆裂を起し、無限の光熱を果もなく擴げ、暗にその微塵を遺す。暗中にして重力自發にて、微塵は濃縮し星となりて輝き、天の川の如き星雲の星團かしこに構成し、星團各々何千億にて宇宙を満たす。卽ち、宇宙の創なり。

依て、日輪も後誕の恒星にして成り、日輪の構成に外れたる、外周になる塵の構成になれるは九星の惑星にて、地界もその一星なり。地界に生命萬物の誕生せるは、日輪の光熱イシカ・大地の物質ホノリ・生體を育むガコにて、生々萬物は誕生せり。

萬物のなかより人の世に顯はれるは、極近にして、進化を得たり。生々なせる萬物にして、進化なきは滅び、進化にて地界異常の候に生々子孫を遺したる生物のみ今に遺りきは、天池水の法則にして、全能なるイシカ・ホノリ・ガコの神通力に依れるものなり。

人となれる創めは、猿猴より分岐の進化を向上せしめたる、直立猿人の誕生に依りて成れり。凡そ百萬年前なるに、人間とて智能・體質を固定せりと曰ふ。

かかる古代、追究心になるは、後世になれる荒覇吐神を尊像とせるに明らかなり。三尺下底の聖土を採り、先づ天日に干して粉とし、水にしてねり、像型を造りて更に陰干して、火に焼き固むるは古代の造法なり。尊像を造りきは、女人にして創りぬ。古来、神とは天然自然にして相のあるべからざるを守旨とせるも、山靼より造像工作の傳ありて、一挙に創まれるは素焼なる神像の創めなり。

荒覇吐神造像の史は凡そ五千年前に創りぬ。その信仰にある要にあるは、宇宙の創め・地の創め・水に生命の創めを求極し、常に宇宙の運行を仰ぎ、地に生死の轉生を覚り、水の一切になる神秘を神とて天然自然を崇拝し、己れが魂の宿・身體そのものも神与として自他倶にその生命を大事とせり。

依て古代に於て、戦事も是無く泰平たり。丑寅日本の住民をして戦事なけれども、倭人侵領し、住民の衣食住になる法則を乱してより、丑寅日本國に弓箭は人に向かはしむるに至り、國の安泰・神への救済を求道し、はるか山靼及び古代オリエントの神々にその全能智識を求めたり。

その旅程は、山靼語にてアムール河、満達語にして黒龍江を帆風にてのぼり、ブルハン神の鎭むバイカル湖、西王母の鎭む天山天池、カオスの神々になるギリシアオリンポス山、地中海になる國々の遺跡はエジプトの神々、エスライルの神々、メソポタミアのルガル神、その求道は紅毛國の古代神にアラハバキ神になるイシカホノリガコカムイの眞理を求めたり。

古代になる丑寅日本國に渡り来たる紅毛人も、多く氷雪になる風土に民族生々の活路を得たり。坂東より丑寅になる奥州の地は、かかる山靼流通にて古代ほどに開化を得たる歴史の深層になる國土にして、住民は榮ある人祖を、山靼を故地として求道しけるなり。

寛政五年七月一日  関口大介

丑寅住民之掟

太古より、倭國より丑寅に逐電し来る倭人多かりし。何れも自在なる人の、衣食住に求めて歸化する望みの故なり。倭國にては、鬼神の國、蕃人・蝦夷の住む化外地とて、遁げ来たるものを坂東より以北に追はざる故に、古くに名のある者、倭朝に仕へし者とて来着せども、荒覇吐王は是らを受入れたり。

然るに住民とて特級にあるなく、如何なる智才にあるものとて丑寅の郷に入りては平等たる衣食住の居住に在らしめたり。先づ以て、倭神の信仰を衆に布せざる事、次には人をたばかりその財を掠むべからず、次には地敷に垣を施すべからず、次には婚縁に人の種を嫌ふべからず、次にはほどよきとて倭に歸郷すべからず、道橋奉仕におこたるべからざる事、次には衆と睦みを欠く者及び殺生の者は渡島に流住とせり。

寛政五年八月三日  秋田孝季

後記

本巻の記逑になるは、丑寅日本に隱れたる史の綴りなり。倭侵以来、山靼流通を閉し、古来の親睦にありしクリル族との婚縁さえ封じ、その居住をも北追せるは、人道にあるまずき行爲なり。

明治四十一年 再書 和田末吉
和田家藏書