東北陸羽史談一

此の書は倭史に障りあり。世にいださば、朝幕の科を受くる事明白なり。依て幾久敷く藏秘に在りきとも外聞にせず、門外不出、他見を無用と心得べし。

右の要戒如件。

寛政六年九月三日  秋田孝季

人之渡来歴

凡そ人の創生、故地よりその脚跡をたどれば、大國になる大森林帶、亦大草原帶、亦は海浜・大河岸帶に生息の遺跡を存在す。住むる地型・地物・風土の候に人の質性異なり、永き歳を重ねて成れる人の知識、先進・後進の差になせるは、とかく地適風土の條に依れるものなり。

人は生れ乍らにして智愚に非らず。猿猴より分岐せる人性たるに、生れし育生の過程にて生々の知識、愚遅に至るなり。人の生々は、もとより群生に適して、個にして智性を後進せしものなり。人の群生により賢者を導者とし、力に權握せる者は智に学拠せるものを聖者とし王となせるも、王も亦世の會者定離に苦悩して神を夢幻に想定なしければ、神事を司どる者の奇辨に惑い、あたら迷信の極に人の奴隷を捕勞とし、その故に国盗り、爭奪攻防の戦略、遠征の軍を造りて侵略せり。依て人の歴史ぞ、その戦史さながらに多し。

人は勝者の權握に服從され、その榮枯盛衰に轉回し、その物語りぞ歴史とて遺りぬ。古代より人は泰平を求め、心の安らぎ安住の新天地を求めて渡る習性あり。その安住地に子孫を遺せり。萬里の地程、萬里の波涛を渡りて、住むる地限の至らざるなかりき。東西南北、地候の寒暖に異なるとも、その渡らざる處ぞなかりけり。

地界は右に廻轉して日輪を巡り、三百六十五回転をして一年とし、春夏秋冬に候を区して暦を覚り、陸海を冒渡して世界を知れり。巡脚の里程を測り、亦天に仰ぎて宇宙の運行を測りて暦程を覚り、萬物の性習を学びてその産獲を知り、草木を殖せる耕をして即食・保食の餌得を陸海に産勞せり。火を起してより、地より金銀銅鉄を採し、衣食住の具となし、亦は護身の武具ともせり。

海をして舟筏を造り海越えせるも、人のとどまらざる智覚なり。人の創めより、山河海涛を越ふる筏、千萬里の新天地を求むるの渡族ぞ、今に尚續くるは、紅毛人の侵すアメリカン大陸の原人への慘殺を旨とせる行爲、まさに神への冒瀆、紅毛人が崇むキリストの聖教ぞ、原人の神を邪道とせる自得の握權行爲なり。

寛政五年九月一日
秋田孝季

人住の理權

人をして同じかる天地水に住むるの理權ぞ平等なり。聖道に想ふるに、天地水は、人をして、人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造り給ふ事なかりけり。故地の異変あらばや、新天地水の安住を求めて渡るるは、凡そ生を世に生ぜしむる理權なり。亦、如何なるありても、求めざる者に自崇の信仰を押付くるは大罪なり。律法も亦、天秤に遠く平等を欠せり。

人は各々利權を爭い、位に登る得慾に躍し、その手段たるや自己外の者を貶めるに余り、己の障になるものは殺生も辞さざるなり。依て善惡二つ乍ら世に同存す。昔より様々の諺を以て戒しむるも、絶せざるは何時世も權謀術數の人間魂性故縁なり。何をか以て人間を平等と心得けんや。否、理は法に、法は權に左右さる故なり。

丑寅の地民は冬期の故に、一汁一菜をも倶に相分つの衣食住の相互なる生々を営みぬ。人間同志なる爭動を好まず、位階の級を造らず、民皆一族たるの救済に志したり。依て此の地に、山靼より人の異なれる紅毛人の類ぞ来たりとも、その歸化定住を許しければ、丑寅になる人系ぞ混血を以て民族併合の累代をして、荒覇吐族、荒覇吐王の選を一族の長老相議して位に付かしめり。亦、代々に王位を爭ふなく茲に王國成れり。神をしてその信仰も一統さるまゝ民は能く從へり。倭人は曰ふ、丑寅の地ぞ常世なるまほろばぞと。

寛政七年八月一日  秋田孝季

大化攺新前の落人

我が國に年號の非らざる邪靡堆國に於ては、春日山の和珥氏、都耶の物部氏、宇陀の天皇氏、明日香の大伴氏、三輪の蘇我氏、橿原の羽田氏、金剛山の巨勢氏、羽曳野の葛城氏、信貴山の平群氏、膽駒山の阿毎氏を以て、磯城の都を中央に邪靡堆國を治めたる世を、國記に明細遺りぬ。

その十族王より勢を以て國統に當れるは天皇氏にて、その氏族に反忠を奸計せしは天皇氏にして、物部・蘇我氏の相討の画策を企てたるは天皇家なり。

その實記を記せし天皇氏の一切を記逑せるは天皇記にして、上宮太子を暗殺せし一切、亦斑鳩に移したる天皇氏の隋國の國造りを習へて歸化人を入れ、冠十二階の官位・十七條になる國律を遂ぐるに、古来の國神・荒覇吐神を廢し、佛法を入れたる物部氏の神道司、佛法を入れ向原寺を建立せし蘇我氏との挙兵騒動に、物部氏は敗れ、丑寅日本國に落着し、残るる蘇我氏もまた國記・天皇記を楯に權政をほしいままにして、遂に中大兄皇子のために天誅され、茲に天皇家は一挙に耶靡堆國を一統せしめ、租庸調・雜徭・防人の大政を大化と曰ふ年號を布して國勢を攺新せしめたるも、その支障とぞなりかねざる天皇記及び國記の行方に、丑寅の日本國に多く逐電せる者を化外地の蝦夷として討伐を挙行し、從ふる者を紫綬大徳・小徳・青綬大仁・小仁・赤綬大禮・小禮・黄綬大信・小信・白綬大義・小義・黒綬大智・小智の冠位十二階として、坂東の蝦夷を歸化狄とせしも、丑寅にては通ぜず、茲に征夷大將軍を加位せり。

朝鮮より入れたる大陵造営を廢し、佛寺大迦藍を建立し、更には還宮を造りて、民は租税に苦しみて故地を遁げ、東北日本國に脱しける落人ら坂東に満たり。

元禄十年二月五日  藤井伊予

奥州征夷之事

上毛野田道將軍奥州の蝦夷征伐の物語ぞ、史實に非らざる傳説也。抑々奥州に於ては、倭王の介入に非らざる國域なれば、倭人の勝手に造話されき史談多し。田道將軍とは伊豆水門にて討死せる上毛野党にて、奥州の産金を略奪せんとて来る野党の類なり。伊治水門とは奥州の伊治沼の古稱なれども、倭軍とて来襲せる代の出来事ぞ、丑寅の史に記逑なく、あるべきは引田臣阿部比羅夫及び坂上田村麻呂の記ぞ遺りぬ。

古来丑寅の國ぞ、荒覇吐神を國神となせる古起にして王國なりせば、倭軍の侵領にあるべからず。諸話の總てぞ作事多し。討入りて降るる蝦夷と遺れき倭史の諸傳ぞ、信じるに足らん。

元禄二年八月一日
藤井伊予

支那國古銭之事

支那より山靼を通じ古銭多く渡りけるも、丑寅にては振はず、ただ神社の飾品と相成りぬ。古きは刀幣にして、反首刀、安陽法化の五字刀幣なり。次には反首刀、節黒法化五字刀幣なり。次には斉法化三字刀なり。更に斉之法化四字刀、同じく斉建邦端法化六字刀幣、同じく節墨法化四字刀幣、同じく火首刀幣、匈奴刀あり。

(※以下、數ページの欠落あり)

山靼黒龍江逆漕之旅

古代より丑寅日本の人祖に奉る山靼の國土ぞ擴し。坂東より以北を以て國號を古来にして日本國と稱す。北斗の魁を神聖とし、山靼より西にある諸國の住人の崇むるは、北斗に宇宙の靈感を覚りて、信仰を格立せる神を神格し、宇宙の創造種原に神を想定せしはカオスにして、無中に起れし時空の光熱爆裂せしめ、總ての物質を創り、天地水の軌力にて生命を誕生せしむも信仰の哲理とせり。もとより、神たるの存在にありけるは、人を以て神たるはなかりけり。總ては、神の造れる創造の素核にあるべしは、固定せる相のあるべくは無く、無中に存在し起りて顯るものなり。

神とは、人の祈り耳に自在たるはなく、萬物の生命に平等の救済をなせるものなり。人の都合にて神を己が祈りに從がはせしは、叶はざる僞祈なり。古来より神への導きを求めにして丑寅の民は、その光原を山靼に求めたり。宇宙に不動たる北斗の魁、夜空に光動せる北空の夜虹の神秘、白夜の北國に見ゆ角陽にぞ神の相と見て、陽日を西に追ふてアラビア・メソポタミヤ・ギリシアまでも人の祀るる聖地を求めて巡禮の旅をせしは、支那にその路銭を得る商易に、古代より流通せしは支那古銭の藏せし故なり。

抑々山靼への旅にて、通用せる地族諸々にその道しるべ、旅宿にては支那古銭を以て通用せる便利に、丑寅日本にては山靼巡禮のためなる銭の保藏にして、通常にして物交にて商し銭を支えたりと曰ふ。依て陸羽の神社・佛閣にては、古きより祭事毎に供物の代・奉仕の代とて支那銭をいただきたりと曰ふ習いぞ、淨法寺にては今尚以て銭替をせる風是ありぬ。

元禄二年三月七日  藤井伊予

騎馬走攻書

陸羽の地は馬産の候に適したれば、古きより山靼より入れたる種馬を以て、秀馬の選別なる他の雄馬を去精し、以てその殖産に努めたり。馬種に三種を血統せしめ、乘馬・引力馬・荷駄馬に適性殖馬をなせり。雄馬は種馬になる他總じて去精なし、その使役をなさしめたり。馬の秀なるに與へしは稱號にして十位を以て號けてり。

第一位には睦號、第二位には如號、第三位にては耶號、第四位にては昴號、第五位にては皁號、第六位にては啓號、第七位にては孟號、第八位にては師號、第九位にては官號、第十位にては節號なり。種馬にても三位あり。一位は金種、二位は銅種、三位は鉄種なり。

山靼より来種せる馬祖に、蹄駆長髄のスキタイ馬、馬背底なるモンゴール馬。次なるは地産の寒立馬なり。

古き世に陸州閉伊なる種差の浜に、東海千里を大筏にて漂着せる、大東國より十三頭になる駒を乘せにして来たれる流民ありて、その場種ぞ何れも秀にて、殖したり。後世になる産金・貢馬とぞ稱さる名馬の来たるなり。

古来より、丑寅日本の馬術に於てチャバンドウたる騎術あり。敵侵に駆け拔くるは、安倍安國が用いたる攻馬術なり。その世にありては馬を以て戦ふるを、倭にして知られざる世の事なりき。

寛政三年五月一日
駒形利兵衛

渡来求道之事

凡そ山靼をして、此の國に渡り来たる信仰の道あり。その國ならではの神々・求道に於ては、法・行、倶に異なれるも、生死のなかに求めたる、信仰の安心立命たる心の救済は大要にして同道なり。古くして成れる信仰に於ても、人心に離れゆく信仰、亦存續せる信仰あり。茲にその興亡の過程に見ゆは、人心歴の過却なり。

信仰も、如何なる權力を以て築きたる神殿・神像とても、國事爭乱の故に廢處たる遺跡に荒芒せる多し。信仰とは人心に傳導長ぜるものをして厚きもの耳存續し、人心に離れしものは崩ぜり。丑寅日本國に渡来せる太古代の山靼人及び紅毛人のもたらせし諸行・諸法のなかに、未だ残りきもの、絶したるものありき。

古来丑寅に住むる祖先の古人に渡りき山靼及び紅毛人國の信仰に縁る荒覇吐神とは、スキタイ民族・モンゴール族の他、ギリシア・トルコ・エジプト・シュメールらの雜多なる渡来の御神の傳道ありきも、吾が國に入れたるは、古代人なるその選得にて拔除ありき。依て山靼の饕餮神、ギリシアのペガサス、エジプトのスフェンクス他、諸鳥獸蛇魚の部分集合の神ぞ、造られき。

是ぞ世に非らざるものにて、支那の龍の如し。然るに信仰に好まれたるもの耳、また工師の秀なる史觀にあるもの耳、遺りて久しき。されば神なる全能の法力、神通力に説くる故なる人師の作説にして、夢幻架空に想定さるる化神を以て人心を説得せし方便なれば、人心に久しく遺りきもの、残らざるのものありき。神話とて人心を慰むるありきも、神とて信仰に久しく遺りきは信仰の理趣にありて相違せり。

元禄二年三月一日
藤井伊予

實季状

久しく思いいでこし一紙参らせ候。

落着以来、心の環ぞ地の境に馴れ候はず、今にして余のもとに無用となりき舞草刀を無心に手入れに眺む隱居の候は、たいくつ至極に御坐候。忠輝に拝面仕り候儀、余との旧計、千台に成らしめ候事の、船造りに事ある科なれど、松平重任殿の赦状に候儀は、只以て、関ヶ原不参戦耳との科因に御坐候。今に以て納得せざる不復の想ひ、誠に断腸の極みに御坐候。

おことに申置く儀是在候に付き、急挙の書染に参らせたる次第。此の状讀了次第、焼却仕る可旨申付置候。

秋田相川の庄に新田開拓を申付置きたる、合河組頭惣兵衛奴に金一萬二千両あり。旭川補陀寺、土崎創福寺、檜山淨明寺各々一萬両急挙召上げ候へて、貧急なる田村郷三春を興す可旨謀り候可。亦旧領の浅利氏、小野寺氏、豊島氏の復召あるべからず。故事總て浪岡殿、松本殿等と謀りて無難に候。余の儀を心配に想ふ不可。

朝熊に入りて、秀忠殿と熊野那智伊勢神宮になる五十鈴川辺に宴し、過却の餘話、地産の料理、毎に樂しみ居り候。

近く若狹に参りて羽賀寺訪参の所存。亦大名の許を願ひ候て、おことの對面を先間、前田殿伊達殿に依賴仕り居り候。余の一切配慮に及ばず。治藩の政にぬかる不可。臣下反忠の因を造らず、名君と仰がれ候へ。行末に多幸を祈り居り候。

六月三日  實季

浪岡氏状

一別の涙送以来以て御前の御事耳案じ居り候。大坂出陣のみぎり伊勢路をたどり候も、朝熊なる邑影心に覚へ候はず。かかる事襲に至るを露知らざるるの忌しき候。御健勝の由、毎々神佛に祈念仕り居り候也。

御前の御仰せことごとく回収し、昨日相川を以て了収仕り、茲に御前の御費一萬四千両を御屆け申し奉り候。

城築亦三春にては天然断石崖に是在り、費の残り余り候て臣下一同吾が君と相謀り、此の金子を御前に献上仕る次第に候。

十月廿四日  浪岡伊豆

黒脛巾党之事

戦國の持領の主に草召かかえと曰ふ言葉あり。卽ち、信州眞田家には眞田十忍士、北條氏に風摩党、甲斐の武田家に透破党、越の上杉家に担猿党、三河徳川家に伊賀の庭番組ありきが如く、奥州に於ては、伊達家の黒脛巾党、秋田家に荒羽々岐党、津軽大浦家に風追党ありて、戦國の大名座を遺したり。

寛政六年二月五日
秋田孝季

野望失脚之事

千台藩主伊達正宗、早期より紅毛人國の進みたる智覚を入れむとて、家康が三男忠輝に五郎八姫を腰入れたるは、大久保長安になる媒介なり。甲州の藏前衆にありし頃より伊達氏と對面し奥州金山探鑛の甲州流を傳へたる縁にあり。更には、政宗の推挙に依りて、伊達状を以て長安を佐渡金山奉行に抜擢されたりし後、慶長八年二月六日、忠輝は下房の佐倉より信州川中島に入封せしめ、十二萬石大名とて着任せしに、家康自からの任命にして、忠輝後見役とせり。

慶長十一年、忠輝、信州にて伊達氏の息女五郎八姫を迎えてより、伊達正宗の逑權通らざるなく、世界流通にその水先を学ばしむる故に、イギリス人リチャルドコック及びフランシスコ會師ルイスソテロ等になる智識をもとに、向井將監・秋田實季・伊達政宗ら倶に浦賀にてパブティスタ號なる大船を造れり。幅五間半・長さ十八間になるイギリス型船なり。

是の船にて徳川御用船とせしにや、各臨海に接せる藩にて造船の許を願ふる者多く、依て家康、慶長十四年大船築造法度とせり。然るに、三男忠輝の請願になる伊達藩耳に異國通交の赦状を以て許したり。依て政宗、大久保長安に費をまかなはしめてなる甲州金山の隱山を採掘し、更には諏訪湖底に隱せし安東軍金を秋田實季の古図にて水揚げる金塊二千八百六十六貫を造船の費主とせり。

然るに是れ、草の服部半藏に探られきに、萬計家康に聞達せしも、大久保長安、主君忠輝の面目を一身にして慶長十八年四月廿五日、一切を己自になる罪とて切腹して果たり。依て事内容不明なるままに、ただ大久保長安が事に科ありと、長安が子息七人みな死罪と果てたり。更には、家康が子息とて、諸大名の反感を制ふる爲に、元和二年家康が死せる後、松平忠輝を攺易し伊勢朝熊に幽閉せるは、兄秀忠の令なりと曰ふ。

慶長十八年九月十五日に大久保長安の事件ぞ、伊達氏に及ぶなく築造されたるサンファンパブチスタ號は、ノビスバンヤに向けて一路牡鹿の月浦湊より潮路を遂行せるも、徳川幕府諸家の虎視に、奥州連藩離幕も成らず、秋田實季もまた忠輝と同じくして伊勢朝熊に隱居となれり。秋田家攺易の議に當りては、伊達政宗が剛性にも此の評定に反論し、秋田家を田村の三春に國替とで治まりぬ。

寛政六年七月一日
原与左衛門

田沼状

末代に天朝の下、幕政の久しく存續し候は、北侵のオロシヤに警護を固く、渡島より千島、流鬼國及び山丹の沿海州なるしるべぞ知るべくの要に御坐候。間宮殿、伊能殿の調図明白なれど、山丹の赤蝦夷の事の候は皆目の知るを能はず候。まして黒龍河、興安嶺、満達に至るる地図に知識貧しく候は、その西になるオロシヤ帝王の北領掌握に急防の要御坐候も、幕府の文庫に参照文献皆盲書に候。依て余儀の責破にて、貴殿を北領山丹よりその西奥の探遊にまかり候はば、如何なる費を添へ申候とも派遣仕り度く候。

幕府に法度の候は、異土に交りを断じ候事末代に以て國運の衰没の一大事に候と覚つ候へて、余に召し會き平賀氏、林氏の論学に大理あり候も、実に即して足らざる也。

秋田殿の逑言に依りて、御貴殿の紅毛人なる師事を承り候事の由、その智識に以て赤蝦夷及び西奥なるモンゴール國、オロシヤ國、ギリシア國、エジプト國、トルコ國、メソポタミア國、アラビア國を廻遊候へて、余に報告候はば、世界におくれ仕る日之本の進歩を復し貧農に活路を開き候やも、國富への明政に一光ぞあらんを貴殿が双肩に賴み上ぐべく旨本状の要に候。

何卒御納得の故以て江戸にまかり越し候事、老中の議決相成らむ故に、貴殿の登城と謀り置き候。右以て如件。

七月廿日  意次

孝季殿

江戸城荒覇吐宮之事

〽わがいほは 三保の松原 海近く
  富士の高嶺を 軒場にぞ見る

太田道觀の詠みたる、大江戸城なる地鎭の神たるは、吾が丑寅日本國の古神・荒覇吐神たり。此の石宮、古きより此の城邸に先鎭せるが故に、道觀が是を城神とせり。

拙者風聞に是れあり、召城の折、能く坂下門より入りて、先づ評定處の平田玄馬殿の案内にて参拝し得たり。古き境内より廣きしに、築城毎にせばむ石宮の鳥居一立に石堂あり。御神體一石のまがいに刻めし素作なれど刻字幽かに、天平寶字甲辰八年献寄安倍國東、とぞ苦しからず讀得たり。

故事知る由もなき輩に説くべくに非らずと、神殿の石塊一つ拾いいただきて、登城の旨了りて、急ぎ津輕飛脚に依賴なし、和田長三郎がもとに送達し、石塔山に奉納し得たるなり。

此の石塊ぞ、御神體の右肩壊石なれば、古き神靈のこもれき至寶なりと、るる書染めて、今になる石塔山荒覇吐神社の窟中に安置を得たりぬ。

天明壬寅九月一日
秋田孝季

山丹漫遊之事

地語にしてアムールとは、ウデゲ族の語辨にてブルハン神の興せし大河の意にして、豊漁の河とも意味せり。河上なるチタと申せる處にて舟降りたるも、此の地は人の住むるは夏期にして、狩人の荒素なる建物、河辺に三軒ある耳にして、アルタイの草原を西に歩を進むれど、蚊の血吸になやみ乍らブリヤート族の住むるバイカル湖にたどりぬ。流鬼國を出でにしより六十八日の河舟とモンゴール馬の背になる旅程なり。

野盗にそなはむ六連の懐銃、百發の彈を各々十八人をして隱持し、二千両の金子を肌に重き、怖々油断あらざる旅なれば、交互に不眠の警になる旅なり。オロシヤ・ギリシア・トルコ・エジプト・メソポタミア・アラビアの路程ぞ気遠き旅にて、地店及び学師・古老より讀めざる史書を買入れ、各自の分負とす。

郷をいでこしより三年八月、歸途に天竺を巡り、支那大里にたどり、筏にて長江を降り揚州に至り、ジャガタラ船にて長崎に至りしは、寛政三年七月四日なり。然るに田沼氏の迎え是なく、吾等の諸荷ぞ召上げらるるも、永旅の智得ぞ忘却あらず、記に遺しぬ。

寛政四年二月八日
秋田孝季

私意政評

吾が州國を海の外に渡り、果なき大國をめぐりて見ゆむれば、世界になる民族の王朝にくらぶれば、朝幕倶に三百年のおくれに存し、若し海外の攻めありては、その閉政にありき吾が國の亡ぶるは明白にして、諸智識無き政々ぞ烏合の集政なり。

蘭学を以て紅毛國に耐得るは愚行なり。茲に海兵の大洋に渉るべく軍艦を造らずして備なくば、國勢の崩壊矢継ぎ異人の殖民なる國と化せん。依て茲に、昔安東船が海商せし如く智識を世界に求めて、進歩の水平を計りて勵まざれば、和睦を欠きて八方に閉がむなり。如何にして外人との交を断つとも、いづれ此の國は外國の通商に迫られむ。茲に旧来の因習を廢し、是の如き世界の進歩にぞ追越せざれば、國運の盛衰如何に問はん。今にこそ日輪に去らざる暗戸を開き奉る可。

寛政七年二月四日
秋田孝季

丑寅武士道

武家を戦に訓ずるは、花は櫻木、人は武士とぞ曰ふを義道とせる古傳は、倭人の事なり。丑寅の武士道とは、士道とは忍と生々なりと曰ふ。死して散るを義道とせず、一族の安住を護るが故に戦場に赴くも、敗れを覚りては退き、勝算も利ありと謀りて應戦す。依て自から戦因を起さず、忍ぶるも士道とせり。げせはに城を枕に死守とせず、生々安住の地に脱退を以て興ずとぞ士道とせり。

死すは、生々盡して死すを神への科に當らざるとし、自からの命脈を自決とせるは勇なきものとし、勝に酔はず、敗に報復を死を以て挙動せず、起立は孫子の代までも、報復の存命を忘却を赦さざるを子孫にかけて果すべくを旨とせり。

抑々、古くは耶靡堆に敗れし祖人の脱却を救はるの道とせり。依て安倍氏の生きざまにては、耶靡堆故地の脱却と再興、前九年の敗滅と再興を以て、現代に大名たる君坐の保つを得たるは、丑寅武家の生きざまなり。

寛政七年十一月
飯積之住 長三郎吉次

明治四十年十二月再書 和田末吉
和田家藏書