東北陸羽史談二

注讀之言

本書ハ他見無用、亦、門外不出トセヨ。

寛政六年 孟春吉日
秋田孝季

序言

書中に同意趣とぞ讀むる書行あるも、同件の傳、一行にも異説ありせば、記逑をおこたらず記入せり。亦、僞傳や間違と覚しきも、自心にして記逑を攺めず、そのままなるに記行し、後世の判断に委ぬものなり。依て、玉石混々と相成るるも、詮なかりけり。

抑々、是の如き綴り方になりけるは、百説を入れて一つの眞実を探るが手段なり。年號の相違、文字の相違もまた然りなり。要は歴史の空白なき丑寅日本の諸事を綴り、以て本書の根本とせるが故なり。

寛政六年五月二日
秋田孝季
和田長三郎吉次
白井秀雄

宇宙信仰之事

宇宙信仰の創まりを尋ぬれば、古代メソポタミヤ国なるバビロニアに住むるカルデア族になる、星と星とを相つなげたる人獣鳥虫魚貝などの類にあらはしたる星占いに創り、凡そ八千年以前になる事と傳ふるなり。卽ち、宇宙に星座をなせる創起なり。日輪が一年を経にして運行せる黄道に添ふ十二星にして、その星稱ぞ、おひつじ・おうし・ふたご・かに・しし・おとめ・てんびん・さそり・いて・やぎ・みずがめ・うお、の星座なり。かかる智識になるカルデア族の黄道十二星座に創まれる宇宙への運行に見たる八千年乃至五千年前の宇宙の星座見解より傳はりき。古代ギリシア代に至りて、神祖カオスに創まる神話に多採なまでにいでくる星座稱星ぞ、加へられたり。

アンドロメダ、ペルセウス、オリオン、ヘルクレス、ペガスス、フロキオン、リゲル、シリウス、エリダヌス、ミラ、フレアデス、アルデバラン、ペレルギウス、カペラ、カシオペア、ケフェウス、デネブ、ポルックス、レグルス、アルタイル、フォーマルハウト、ペガらの稱星の他、ひひ、はくちょう、いるか、や、へび、へびつかい、たて、わし、つる、くじら、ほうおう、ぎょしゃ、さんかく、きりん、りゅう、こぐま、おおくま、うしかい、かんむり、うさぎ、はと、ろ、いっかくじゅう、こいぬ、うみへび、しし、などなどの星座加はりぬ。

古代ギリシアなる神話になるは、いづれもバビロニアなるカルデア族の星占より創られしものなり。古来、北極星を宇宙の入口とし、萬物の生死になる神の不動なる聖星とせるは、カルデア人に於て、是を甦る魂、生滅の生命とを司る星とて傳へたり。依て、エジプトになるケオプス王の墓、ピラミッド底に拔窟あり。北極星に向かへて施工ありて遺りぬ。宇宙なる傳へをわが丑寅に遺したるは、古代カルデア人にして渡り傳へたりと曰ふ。

寛政六年八月一日  秋田孝季

宇宙の生滅之事

無時空の重力に宇宙原誕生、核種が生じ大爆裂を起して、現宇宙の構成と成れる測り知れざる年層に、星々界は成長せり。幾億の數になる銀河のひとつさえ、何千億になる星の群團なりと曰ふ。冷々暗黒に漂ふ宇宙塵より星は誕生しその種は三種にして、燃ゆる恒星、その惑星になるは岩質、雲質に異なりぬ。重き恒星を中央にしてその重力ぞ、引力軌道を有すが故に、そのまわりになる惑星は重軽をして、巡圓軌道を巡りぬ。大いなるとて雲質に軽ければ、その順に外軌道を造りぬ。

星にも生死ありて子孫星を遺すと曰ふ。星なる死は、天喜の年間に見屆けらると安倍賴良の記に遺りぬ。トマス博士の曰く。星の生死、宇宙存續の子孫を造れる事なれど、更に怖るるは、宇宙の生滅ありと曰ふ。その実態にありきは、異體知れざる大黒星と曰ふ。吾が国にて大黒とはめでたき神とて祀りきも、その実は、大黒星に呑れざる故を祈りき宇宙崇拝信仰より生じたるものなり、と曰ふ。

大黒星とは宇宙の星々をことごとく呑みて消滅せる星とて、幻光もなくその異體を知る博士ぞ、世界に未だなかりきなり。何れの世末にか、是の大黒星に汲呑されし運命にあるは、宇宙の終焉なり。そのあとになるは、また是の大黒星より宇宙種生れ、その宇宙種誕生爆裂にて、再度び新宇宙ぞ誕生せる。生死を以て宇宙も成れり、と曰ふ。その原理を解ける信仰にあるは、イシカの神像なり。相も知らざる大黒星をめでたく心に想ふは、世にある總てなる生滅の轉生を怖れ敬まふもの也。

寛政六年八月十日  秋田孝季

宇宙祭壇之事

列石を地に並置して造れる祭壇を、地の古来語に稱してイチャルバと曰ふ。日輪の毎朝・毎夕の昇洛を地平に測して、その運行に測せる季節に、天空の星を測し、宇宙なる北極星を觀測立地より測る東西南北の星座の動行を地動と覚り、西より東に回轉せるは、北天の星は圓に運行なし、東天にては南斜行に昇り、西天にては北斜行に洛す。南天にては東より西へ水平にて運行せるを測れるためなる石列なり。

春にしては、しし座を天頂に仰ぎ、夏にては、さそり座を天頂に仰ぐ。秋にてはアンドロメダ・ペガススを天頂に、冬はオリオンを天頂に仰ぐを覚り、北極星をめぐる大熊座・子熊座ともに子熊座の尾に光る北極星を、天なる北極星とて大熊座は右卐形に子熊座は左卍形に、春夏秋冬をして運行す。

北斗七星、卽ち大熊座の七星の名稱はアルファ・ベーター・ガンマー・デルター・イプシロン・ゼーター・エーターの星名あり、アラビア語なり。地界が自轉せるを北極星にて覚りたるはギリシアのヒッパルカス博士なり。

北極星に門また神窓をなして祭壇として祀るは、エジプトのピラミッド、メソポタミアなるヅグラット、スキタイの鯰棺の北向き、吾が国の死者なる北枕、神社門の北向きに傳習ありぬ。亦、佛法に於ては卍を佛陀の象とせるは、北斗星の觀測にて成れるものなり。吾が国の荒覇吐神になる拝向は、北天に向へて祀るを常とせるを重じべし。

寛政六年九月一日  秋田孝季

卍卐壇之事

宇宙を卍卐の印にして祀りたるは、ケルマ族なり。卽ち、北天の魁を神とせる宇宙の運行に見測せる故ぞと曰ふなり。此の両巴字を略せしは十字なり。南地に見らるカノープス及び十字星を話に聞きて、見ざれども、吾が国にて見られざる星ぞとは、カメレオン、カジキ、キョシチョウ、クジャク、コンパス、テーブル山、トビウオ、ハイ、ハチブンギ、フウチョウ、ミヅヘビ、南十字星、南の魚、南の冠、南三角、矢、レチクルなどあり。カノープスは、正月頃南地平に見らるも、見當らざる多し。依て是を一目見たる者ぞ、大寿を授かるの傳へ遺りぬ。

巴祭壇は卍卐形に造らず、三股の神木を左右に縄を巴形に張る風是れありぬ。十になれる心芯に大なるイナウを建て、是をヌササンカムイ處とて、是を右卐を雌神とし、左卍を雄神とせり。號けてイオマンテと曰ふ。

寛政六年九月十日  秋田孝季

アルガメシュ叙事詩

古代オリエントなる諸神話の基となれるは、古代シュメール、メソポタミアの土版に押付たる傳印に以てなれる叙事詩に依る多し。人智の先端になるシュメール族の神、ルガルの法典をアルガメシュの叙事詩に曰はしむれば、宇宙の創造より、萬物生命の創誕、神々の神話、その祈濤法とは、今になるはなけれども、アルガメシュの一説に、倭国になる神話に等しきありぬ。

ルガルの神にアフロディテと曰ふ女神生る。此の女神、ギリシア神話にては、エロスの母とて語らるも、シュメール神話になるは同名なるも、時代をはるかに先なる叙事詩なり。アフロディテ神の子なれば、ルガル神の後継と相成り、その神勅を賜りたり。

豊葦原チグリス、ユウフラテスの国は、汝、子孫の天与の国なり。住みて治め、天が下に都を造り、天上神、高天国と倶に榮ふること無窮なり。と曰ふ神勅ぞ、相似たる處なるは、卽ち、天照皇大神が神孫を高天原より、日向の高千穗に降臨せしむ神勅に、豊葦原千惠穗秋の国は、我が子孫の王たるべき地なり。浂、征きて治め、さきくませ、あまつひつぎと榮ゆ事、まさに天上と倶に窮まること無かるべし。と意趣同意たる也。

依て、世界神話の創者とて、シュメールの王アルガメシュの言葉ぞ、ギリシア、アラビア、エジプト、トルコを経て、神への信仰ぞ代々遺りたり。ギリシアにては神名をそのままに、アフロディテ女神とし、その他になる国々の女神信仰に布せり。ゲルマン人の女神、エスライルの女神、エジプトの女神、天竺の女神、シブア神やヤクシー女神、支那の西王母や女媧女神、オリエント各地になる女神はもとより、倭国にても天照皇大神を女神とて神話の要に結びたり。

然るに、アルガメシュの叙事詩は農耕の豊をもたらす諸々の豊産を祈る神とて祀りぬ。吾が丑寅の荒覇吐神像に乳房を施工せるは、シュメール傳也。

寛政六年九月十一日
秋田孝季

ギリシア語字

αアルファ、βペーター、γガンマー、δテルター、εイプシロン、ζゼーター、ηエーター、θテーター、ιイオター、κカッパー、λラムダー、μミュー、νクシュー、ξオミクロン、πピー、ρロー、σシグ、υウブシロン、φフイー、χキー、ψプシー、ωオメガ、

ローマ語字

aエー、bビー、cシー、dデー、eイー、fイフ、gジー、hエッチ、iアイ、jゼー、kケー、lエル、mエム、nエヌ、oオー、pピー、qキュー、rアール、sエース、tテー、uユー、vブイ、wダブリエ、xエックス、yワイ、zゼット、

寛政五年二月四日  秋田孝季

古代信神一如

古代になる紅毛人国よりの渡りを早期に傳へしは、スキタイの騎馬民及びブリヤート民にて、聖なるアムールにアルタイより降りて来たる移民の移住にて渡りぬ。

倭人はこの民の異なる姿相を嫌ふて、赤蝦夷とて睦むなきも、丑寅の民は睦みて、共住を受入れたり。依て生々のなかに諸々の知識を得たるるも、倭人は、丑寅の蝦夷は紅毛人の赤蝦夷に混血せるアイヌなりとて、紅毛人を赤鬼、その混血児を青鬼とて呼稱しける。肉を食い、その血を呑むる鬼畜の輩とて、丑寅に住む住人總てを蝦夷とて、人の類に思はざるなり。

紅毛人の好みて食す大蒜や野葫、行者にんにくを下等なるものとし、韮も亦是の如く、牛・馬の肉を食す者はなかりき。然るに神信仰の要に、倭人は神通力とせるを、紅毛人は全能力と曰ふなり。祟りを報復とぞ意趣の相違ありぬ。信仰に各々諸行法に異なるとも、祈願にある神への意趣ぞ、何處の世界に於ても同じ也。

寛政六年十月一日  秋田孝季

生贄供祀之事

神の祭りに生贄を供せる信仰あり。祈りと葬との挙行に鳥獸の生贄、亦主の死に供せる葬儀に人畜を生贄に生葬せる習因ぞ、吾が国にても追殉死とて主に供する切腹せるありきも、亦傳来の因習なり。

秦の始皇帝に生葬されたる人馬ぞ、その陵中内外に五萬の贄を供せりと曰ふも、わが丑寅の国にては一切の贄を供せずと曰ふなり。凡そ生物の生命を断つは、神の造りし生命をなおざりにせるものとて、荒覇吐神の信仰に一切の生贄をせざるを美徳とし、亦追殉せるも禁じたり。

荒覇吐神は、もとなるイシカ宇宙、ホノリ大地、ガコ水なる一切を神とせる基にあり。茲に、天然・自然を神とせる故に生々なるものの生命を贄にせる事は信仰の掟に禁ぜしものなれば、供物になるは住民の食にある季節に應産せる食物を供せる他に供ふるを禁じしめたり。神は人に造らるなく靈相なれば、是の如く定めたるは善哉。

元禄十年七月七日  藤井伊予

荒覇吐神之工程

六部付之図 髪付、首付、胴付、足付、道具
(※ここに画像あり)

抑々荒覇吐神を造れきは、土を選び焼をして試すも良識なり。神像なるが故に作程に久しくかかりぬるも、詮なし。造りしは女子にて、イオマンテのカムイノミに影干し了りきを持屆け、エカシの手火に焼入れぬ。接工付き悪きは、離れし處を一年の注意とて、チセの家族に心せる神告と信ぜり。卽ち首落は、頭になる目・鼻・耳・歯・喉口・頭脳らの病に気使いてゴミソの薬治に精進せり。胴の接なきは、胸・腹の病、手足は怪我を神の告とし一年チセに置き、新作の像事無く出来ぬれば、古きをヤントラ卽ち墓地に埋むなり。

是の一統信仰ぞ、古き代に崇拝さるる域は、東日流より築紫に至りて流りぬ。なかんじく、その大社たるは国東なる大元神社・宇佐石神・出雲の荒神・加賀の三輪山神社・白山神社・耶靡堆の大神神社・武藏の氷川神社・陸州の塩釜神社・多賀の荒脛巾神社等あり。その末社一萬社に越ゆと曰ふなり。

地に依りて、アラバキ、アラハバキと異なるるも、信仰の意趣ぞ同じなり。唱ふるは、アラハバキイシカホノリガコカムイと十二回をくりかへしぬ。

寛政六年十月  孝季

北畠顯村、不討死

天正六年、大浦爲信、三千餘之兵を挙げ行丘城を落し、北畠氏を捕へて切腹せしめたるに史傳は遺りたるも、天正五年秋、北畠顯村は秋田能代の檜山城に食客し、秋田城之介に茶臼舘を施城され、津軽の大浦氏討伐を企画せども、秋田にては四辺の豪士相活居し土崎城故臣の暗躍にて、その討伐行にて、行丘城主北畠氏への援軍とその軍資に應じ難く、顯村が行丘留守中に落城せり。

顯村が影代の吉町儀衛門、御代りを忠実につとめて果たるを、大浦方の知るに及んだは、十年を過ぎ一昔を経たる後年なりと曰ふ。

寛政六年五月一日
三春 浪岡次郎武顯

異神遺跡之巡禮記

流鬼国・日高渡島国そして東日流より坂東に至る間、時代の相違ぞありけるも、山靼より成りませる遺跡の數々遺りぬ。日本史と曰ふ名にいでざる史実ぞ存在せる東北史ぞ、山なす程に遺りきは元寇といふ蒙古軍の北方侵略事変なり。卽ち、ジンギスハンの胤フビライハン及びローマベニスの商人マルコポーロの尊像を五百羅漢に混じて崇拝せる異外なる遺像の存在せるは、津軽の靈峯岩木神社・岩手盛岡の古寺報恩寺、及び現に失ないしも丑寅日本の寺社多く安置されきは、何事の理由なりや。

倭国にては国難とて、筑紫博多に石柵を築きて元寇に国防せし歴史の遺りき、彼の神風の傳説、朝幕挙げて彼の来襲に備へしむ史談にありきも、彼のフビライハンそして支那揚州にて知事の任に當れし當時のマルコポーロぞ、何故あっての尊像に崇むほどに丑寅日本に存在せしや。その答ぞ次の如く也。

當代、東日流十三湊・秋田土崎湊に安東船の異土交易湊あり。常にして支那揚州にまかりて海産の商易を親交せしに、マルコポーロ親しく安東船のみは、運河を通し長安・洛陽までも通交を赦せしに、朝幕をしてその商易を断ちてその請願に来たる使者を、時宗自らが斬りぬ。元国支那一統も知らざる、国外の交易を許すと許さざるとの賛否定まらず、朝幕何れも元国の在帝を知らざれば、遂にして元国起こり對島・壹岐を略し築紫博多に襲来す。

是なる以前に蒙古の築紫攻めを知らせし、高麗の三別抄という仁あり。都度毎に使者を大宰府に通達せしも、朝幕は挙さず遂にして十萬の大軍にさらされたり。一方、北方にては流鬼国に八萬の元軍上陸し、その兵馬を宗谷に進めたり。時に安東船、十三湊より三十艘、宗谷の岬にその海峽を警漕せるを、元軍、海戦の術なく使者を以て和睦し、山靼馬六千頭・兵糧・武具若干を安東次郎法季に献じて引揚げたり。時に、元將・李白禮より法季に、揚州のマルコポーロの史書三巻の呈あり。その添状に、吾が元国はヂパングの王安東將軍とは戦はずと曰ふ旨の意たり。

一方築紫にては、海荒れ元軍そろふて海殉せるあり。引揚げたるも、倭軍是を勝利と心得たるも、和睦に非らざれば再度の襲来を蒙むりぬ。然るに、折よき神風に海荒ふる不戦の海殉に、元軍再度引上たるも、支那・韓国とも長期に商易ぞなかりけるも、安東船耳は堂々と揚州交易を續けたり。

流鬼国にいただける馬・兵糧を丑寅の民に与ふるに、その報恩とて各處に報恩寺建立され、フビライハン及びマルコポーロの羅漢像を造りて拝せるは、三年に續ける凶作の故に、馬をいただき餌糧をまでいただきし大惠に、地民はこぞりて寺社に祀れりと今に遺りぬ。蒙古地藏傳也。

寛政六年十一月四日
家傳に曰く 原惣次郎

安東船之水先記

川舟往来宿

北上川舟止、玉山及び好摩、北上川舟寄舟場、厨川双股落合、和賀落合、猿石落合、膽澤落合、猊鼻落合、厳美落合、衣川落合、迫落合、江合落合、石巻湊、追浪湊、奥州屋問場、米代川舟止、大舘田代落合、鷹巣落合、相川落合、二井落合、能代湊、越後屋問場、雄物川舟止、十文字落合、横手落合、大曲落合、仙北落合、河辺落合、土崎湊、秋田屋問場、砂泻舟止、尾華澤、大藏落合、戸澤落合、最上湊、松前屋問場、

岩木川舟止藤崎

板野木落合、十川落合、十三湊、堺屋問場

寛政五年四月七日
大丸屋要介

陸羽国之奇談

甘橿の丘にて討死せし蘇我蝦夷が、死を以て尚秘せし天皇記は、天皇耳の築紫日向に創まれる神話に祖先をかまえて歴代とせるは尚や信じるに足らざる也。天皇とは氏にして、耶靡堆に氏をかまうるは蘇我氏・物部氏・大伴氏・春日氏・磯城氏・葛城氏・阿毎氏・多利思比孤氏・阿輩雞彌氏・和珥氏・巨勢氏・平群氏・紀氏らにて、何れも王朝を司どられ、過却にありては阿毎氏が筆頭の歴史を保てり。

天皇氏が勢を爲したるは後世にして、天皇記にてはその一世を舊史を攺め、天皇氏一世を挙號せるは大根子日子なるも、その出自になるは荒覇吐五王より故地奪回を果したるより、耶靡堆諸氏の從屬と相成り、その実相を記せしは天皇記なりと曰ふ。

この天皇記ぞ後世になる古事記・日本書紀らと異なりければ、天皇氏にありて所持せる蘇我氏に返却するべく旨都度に請ども、蘇我氏特權の保持なる證とて應ずる無ければ、中大兄皇子の命令にて船史惠尺が蘇我邸を襲いて灾るも、天皇記・国記の巻ぞ見當らず。蘇我蝦夷は死したるに、此の二巻を武藏の和銅山に存せるあらはばき神社に秘藏し置けるを、平將門の代に社殿再建にて見付けられたり。

依て將門是れを神皇の位にして、東国を平政し立君せしにや。朝廷は挙げて將門を討伐せんとて遂に將門を討取るや、その天皇記を奪取せんとせしも見當らず。北の中尊を祀る極樂寺、更に北なる淨法寺までも詮儀されしも、未だ解らずと曰ふ。

寛政六年一月一日
秋田孝季

淨法寺傳説

安日岳を水源にして涛々と流る安日川辺に荷薩體邑ありて、此の邑中の丘に七時雨山・淨法寺あり。神亀丙寅年、安倍皇女の請願にて聖武天皇が后父橘氏に建立させたる、台密の両界を丑寅鎭護の法場とて建立せしものなり。更に、東日山西法寺をも同じく建立せしめ、両寺鎭護を安倍日本將軍・国東に委ねたり。

此の法場ぞ、後に孝謙天皇が道鏡に勅し、陸羽の境に北天鎭守の法場とて天平勝寶庚寅年に、国見山極樂寺を建立せしより、二十三年前の建立なり。

是れを世稱にして天なる淨法寺・地なる西法寺・水なる極樂寺と風聞遺れり。古来より荒覇吐神を以て信仰の一統にありきを、聖武天皇、皇后に當れる橘氏ぞ古祖孝元天皇に累血せるに依りて、皇女を安倍皇女そして天皇と即位せしも、祖皇の頭號をいただき孝謙天皇とて、亦称徳天皇とて皇系を継ぎ奉れる旨、天皇氏系図に證せり。

此の三大寺に必崇の神あり、是ぞ荒覇吐大神なり。前九年の役後、荒覇吐神を廢し毘舎門堂と攺め、毘舎門天を代像とて祀りぬ。

寛政六年十一月一日
報恩寺 海雲法印

陸州三大寺之事

荷薩體の七時雨山淨法寺、閉伊の東日山西法寺、和賀の国見山極樂寺は、何れも荒覇吐神を祀りき聖地跡なり。依て、此の三寺境内の奥坊とて土踏まずの盛ありて、何れも康平甲辰の年、安倍入道良照が荒覇吐神なる御像を埋淨せし盛なり。是を世襲にたばかって、経塚と布稱せるなり。

寛政六年十一月一日
報恩寺 海雲法印

木草学書

羅漢柏の繁る東日流中山の大森林帶、雜木林中に自生しける薬草にては、地老の曰ふ寶庫なり。外浜より登りて近き石塔山に、飛鳥山より山郡界を西に越して在り、地稱なる荒吐神社に、郷人能く採草しける。カンピロ・トトギ・ホドイモ・オバユリ・ベゴノシタ・イタヤズル・ゴクダミ・トラクサ・マルハグサ・バツケの根・中中人参・ベト土など、薬研して萬病薬とせる風是あり。

余も是に習へて入峯しその種を採したる他、是山にありき草木の種に、本草学に在りき採集得難き薬原の種多きに驚きぬ。

一宇の草堂あり。古き代々和田家の守護に在りて、半里四方石塔山の山權を有す。加之神社に秘深くして、和田家代々の他知る人もなし。

七月六日  白井書

ノスパンヤ行状記

古来ノスパンヤ国なる地民の祀る神に、善なるケツアルコアトル神・悪邪なるテスカトリホカ神ありて、信仰の要をなせり。

慶長ローマ遣使節に同乘せる秋田藩秋田實季殿の学臣・行丘顯忠殿、サンファンパブチスタ號にてノスパンヤに至るも、ノスパンヤより先なるローマへの選人ありて、山口常長殿以下三十人と相成り、百五十人はノスパンヤに残留と相成りぬ。依てサンファンデウルフ港より、更に東なるローマに渡航せしイスパニア船を見送りしあと、七年の歳月をノスパンヤに待てる間、此の地の古代なる史跡を巡りぬ。

テノチテイトラン遺趾・アステカ遺趾・ベラクルス遺趾他、テノチテイトラン各湖上及び湖岸遺跡・テオテイワカン遺趾、更にマヤ国なるチチエンイツアー遺趾・パレンケ遺趾・テイカル遺趾ら多巡せり。

古人なる子孫はソチミルコに多住し農を営めり。産物トラテルコ市場にて盛んなりせば、地民の暮し安養なれど、信仰に於ては忌しき因習あり。神への供物とて人の生贄を献ぜるありて、古来よりの習とす。善神なるケツアルコアトル神より尚邪神なるテスカトリホカ神の神通力の強きに、人の生贄を献げずば、日輪は亡ぶると曰ふ迷信なり。

生贄に選ばるる者は、生乍らにして心の臓を拔かれき惨行なり。石刃に胸をえぐられしさま、まさに惨たるも、更に生皮を全身にはぎとりて、呪術者それを着て神に法行せるさま、鬼人とてあるべからざるの行爲なり。地民は次なる神への供物とて、黄金を以て神具を造り、惜気なく聖なる湖中に生贄を飾りて落ぜしむは、筆舌に説き難きなり。

寛政六年八月二日
浅利智次

宇宙想定之事

ノスパンヤ国に人身生贄なき古き世の信仰にては、日輪及び九星の運行を神とて信仰せしより、日輪の過却に四度の滅日ありとて、是を復活せしむは、人身なる心の臓を生贄とせる他術なきとて、呪術者の言ふがままにてかかる惨行のなれるは、チャツクモール及びシペトテックの神になる邪法になるは、我が国の年號にて天喜甲午年七月旧五日の夜明け前、東空に半月の夜空に突如として爆光したる、大いなる宇宙の出来事以来なりと曰ふなり。

日輪の爆裂になる前兆とて、マヤ族の呪術者等、日輪の復活を人身の心の臓を生贄とせる神告とて流れるものなりと曰ふなり。

寛政六年八月二日
浅利智次

ノスパンヤ書程之事

寛政六年八月二日
浅利智次

日本国甦生志記

康平五年にして崩れし丑寅日本国を起さむと、秋田實季・伊達正宗ら謀りて世界の智明に入らんとす。古き世に坂東より東北に日本国とて国建てむと志したるは平將門なり。然るに事稔らざるは、倭人の隱謀さながらたくみにて反忠の工作を以て制せるを、丑寅の人にては何事も知らざる故なり。

正統たる荒覇吐王の王系にある安倍一族滅びける後にては、淸原氏・藤原氏せきをきりて事挙げむも滅び、丑寅の王朝未だ復さざるは倭朝の故なり。然るにや、よろじ代々過ぐるとも、民の意識に潜在せるは祖来の復活なり。

寛政六年八月二日
浅利智次

佛道傳来

古来天竺の国にあるべく信仰に、婆羅門の古き神に、ヤクシャ男神・ヤクシ女神・シブア神なり。次になるは佛陀にして、天竺各所に遺れるはストーパなり。主なるはサンチー及びサールナートに存在せる他、クシナガラ、アマラーブアテー、更にはデカン高地にてはナーシク石窟寺、カールレイ石窟寺、更にしてタキシラ地方に渡りてビーマラン、更にはカイラーサナート石窟にてはリンガ信仰にして祀り、ベナレス、ブイクラマシーラより支那に渡りて、更に韓国に渡り、舒明天皇の十二年我が国に至ると傳ふなり。
以上、右原本、和田家藏書也。

明治四十一年六月
再書 和田末吉

山靼通交要記

俗に曰ふ山靼とは、流鬼の西になる大国にして居住民族の多様になる国なり。古来より狩猟民にて信仰また厚き民族にて、紅毛人国に至りてはギリシアなるカオス神に創まれる信仰、アラビアなるアラー神、エスラムなるエホバ神、エジプトなるラー神、シュメールなるルガル神、モンゴールなるブルハン神、そしてわが国なるアラハバキ神ぞ、古来に於て成れる神々なり。

神は宇宙を無よりいだせしは、諸々の学究に盡きる。一点より光爆して成らしめ日月星地界を創れるを、わが古人らはアラハバキカムイと稱して子孫代々に告ぐるなり。神の哲理を求め、山靼をはるかに紅毛人国を求めてアムール大河を登りて無人住なるチタよりブリヤート族のアルタイ平原をカザフを経にして、ギリシアに至りてオリンポス山に神を求め、更にエジプト・メソポタミヤに諸神を求得せし數々なる諸神・諸行法を選聖なして、アラハバキ神と修成せしものなり。

神々の巡禮なる路程萬里の旅にて、その往来日程ぞ凡そ三年を経したり。古きより是を山靼聖行とて果したる者を、エカシとて人々の長とせるは習へたり。此の往来ぞ、古きより旅程にかかれる山靼諸族の通辨を覚り、その旅費とて金を採鑛せしは丑寅日本国に傳統たり。知識を山靼及び紅毛国に求め、得たるは産金・産馬なり。その技を得てこそ、わが丑寅の国ぞ日本国たる国號にして支那諸国に倭国より先をして知れ渉れり。

寛政六年九月一日
大江小次郎

諸国河湖史

丑寅の大河・北上川を、古にして日川亦は日高見川と曰ふ。水源なる分水嶺を安日山とて耶靡堆の王たる安日彦を祀りたるは、馬渕川・米代川になる水源分水嶺たるに依りて、古来安日彦王を祀りその流下に築きし淨法寺は馬渕川に、淨明寺は米代川に、極樂寺を北上川の辺に建立せるは安倍国治なり。

祀れる佛像は、ことごとく荒覇吐神神像に習って何れも横彫り仕上げに造像されたり。此の三流になる添山より産金ありて陸羽の財をなせり。

擴き原野に産馬放牧なし、拓田・拓畑・山林の運材に馬力を以て営みぬ。依て産鑛・産馬になる益ぞ得たる事大なりて、山靼及び紅毛人の歸化になる諸職渉りぬ。太古にして陸羽大河の辺に亦海辺に山辺に住分けしは、各々職分にして今に至りぬと曰ふ。

寛政五年二月廿日
秋田孝季
和田家藏書