東日流六郡誌 全説二

序に曰く

東日流六郡の歴史に以て太古を知るは、土中に秘むる荒覇吐神像なり。古来に祀りし、イシカ・ホノリ・ガコカムイ、土中に埋りきは、永き歳月に冠土せしものにて、古人自から埋むことなかりきなり。

六郡に農もたらしたる耶馬台族も、一族再興なりてより、域を廣め南に移り、日下將軍とて故地を奪回せしにや、世襲常にして安からず、日本一統なる王位に非らざる代々にありて、倭國は常に騒乱續きける耳ならず、倭の百年戦乱に治らず、三百年戦と相成りきは、古代日本百八十國の攻防たりと曰ふなり。

ときに勢にありしは、越の白姫族・黒姫族、山陰の出雲族・九龍族、山陽の髙嶋族・内海族、築紫の熊襲族・日向族・卑人族・猿田族・邪馬壱族、南海道の吉野族、倭の耶馬台族、坂東の太郎族、東海道の奈古族・木蘇族、奥州の麁族・熟族・津保化族・阿蘇辺族、渡島の日髙族ありて、この他に國を持てる族主を數ふれば、前逑の如きなり。

耶馬止彦王が倭に起りて、國を廣げむ太古に於てをや、支那春秋時代より古く於能己呂國と稱されき日本古事にて、日本中央に耶馬台の髙倉を成らしめ、三輪山に卽位せし吾が國の創めとせる王は、耶馬止彦王なり。

是を一世とて代々を継けるは萬世一系にして、明日香の安倍邑に君臨せしは耶馬台王の累代にて、安倍・安東・秋田に姓號せし君坐の代々、今にして三春五萬五千石の小藩たるも、蛙の子は蛙にて、一年の君坐も空たるなきは荒覇吐神の守護なればなりける。

元禄十年五月二日 藤井伊予

東日流歳月記

嘉吉三年東日流を却りに、安東一族にては飽田に地を拓し、渡島に地を拓しけること、妨げなく、諸國に縁る一族の援けありて、土崎湊・能代湊・松前湊・江差湊をして、海交また一族の職にありつけり。

飽田にては、雄物川・米代川辺に拓田しける。一族の邑々、農耕よろしく拓き営めり。依て茲に、土崎領にては安東鹿季、能代檜山領にて安東政季を養子に迎へて義季のあとを継ぎ、安東兼季は男鹿領を治むる茶臼より脇本に移りて、更には東日流の北畠氏に迎へられ藤崎領に移りきはその子息・安東義景なり。

文明十二年、天眞名井宮義仁王が東日流に入り、續きては(※數文字、空白)公が来りしも、足利討伐の官軍に加勢ならず了りぬ。

諸國に軍挙せし戦國の世と相成りしも、東日流・飽田・渡島に於てもその兆起り、一族をして相爭ふるの凶因また起りぬ。織田信長軍挙し、今川氏を敗りて以来、天下の權は安土城の織田氏にかたむきけるも、織田氏また本能寺にて明智光秀にて反忠暗殺以来、下臣なる木下藤吉郎が天下を掌握しける。然るにまた藤吉郎秀吉が寂し、世は東の徳川・西の豊臣に相爭ふ末に、奥州にては東軍に併せ、安東實季も一族を併せて、秋田城之介と姓を攺め、世の新世に君坐を保てり。

而乍ら戦乱治りては、政權の間謀あり。秋田氏は関ヶ原の合戦に出陣かなはずとの事にて、宍戸の藩に國替と相成り、五萬石大名とて徳川氏下の大名たるを、秋田實季不復として上訴しけるや、その議に不禮ありとて、終世伊勢なる朝熊に隱居と相成り、子息・俊季が五萬五千石に加増なり、更に國替と相成、奥州田村郡三春藩大名とて今日に至らしむも、世襲なればなりける。

文政十二年八月一日 和田長三郎吉次

津輕藩主爲信之事

飯詰邑和田家文庫に所藏ある津輕藩主之書状に曰く、

天正六年行丘攻めにして、北畠顯村殿を飽田檜山に逐電せしの段、爲信が長谷川氏なる忍を顯村とて捕へたるを知らざるなけれども、和田佐馬助がかねて大浦氏に請願せし故に、この忍を顯村とて切腹に及ばしめたり。

と曰ふ。辭世の歌は、顯村がかねての作なりと曰ふ。爲信が津輕平征了りしに、北畠一族、秋田藩主國替と倶に田村郡三春に移りきは、史實なること定かなり。

文政十二年六月一日 菅井眞澄

偉丈夫爲信之事

東日流藩主大浦爲信、安東一族去りにし六郡の荒地を再復せしにや、その心労大なり。六郡に遺りし古代なる寺社再復なるもの修せども、南部一族に依りて焼却されにし、乱火を民家に移穏せる古代安東一族の諸遺物を、攺宗にして保護仕り、慶長二年に了りたり。

然るに南部氏に依りて總ての古事来歴の證す遺品ことごとく失なはれきを、爲信が己が事の如く心痛せりと曰ふ。依て爲信が自ら布令なして再復せし寺社にては、藤崎なる平等教院、行丘なる西迎寺、平賀なる薬師寺・極樂寺・中尊院・不動寺・久遠寺、荷薩體なる天台寺、上磯なる壇臨寺・淨安寺・觀音寺・海満寺、下磯なる淨圓寺・大泉寺・大光院に、各金六千匹を呈したりと曰ふなり。

亦、平等教院・山王十三宗寺の遺物若干、爲信が上洛の砌り、伊勢朝熊に秋田城之介を訪れ献上せしにや、気丈なる實季も涙して拝受せりと曰ふ。両雄ぞ互に若き日の天下創立せむ戦爭の想を宴として、名残ぞ盡きざる奥州武家の末代を二日三宵に語れりと曰ふぞ雄々しき。

文政拾弐年八月三日 和田長三郎吉次

津輕藩祖宸筆之事

和田一族に傳遺されし爲信が自筆三十二状あり。次第、藩主の知行目録五状の他、書状百七十八通に及ぶ。

文政拾弐年八月三日 和田壱岐

津輕中山庇護權

魔岳・無澤分水嶺より飯詰川に流る中山の權を和田神職に頂きしは、藩祖よりの職與なり。茲に、石塔山大山祇の祭祀ぞ子孫をして𢚚るる不可。右以て津輕藩主の賜恩ぞ永代に拝仰之事如件。

明治十年十二月再筆 和田長三郎末吉

願御拝許

映季(家紋・馬印あり)