東日流外三郡誌 三百廿五巻

注言之事

此之書は他見無用にして、門外不出とせよ。

寛政五年  秋田孝季
和田長三郎吉次

古代實史之證

一、

凡そ吾が国の古代にのぼりて世の創まりを尋ぬるに、吾らが住むる地界なく、亦宇宙に星も無かりける暗黒の濃薄せる、物質なき時もなき宇宙たり。暗黒の中にたゞうごめくは、暗黒濃薄の幽かなる重力になる他、なにものも無き宇宙たり。抑々、その無界に宇宙の創まれる所以とは、暗黒に希薄なる空間、亦濃厚なる漂々混沌たる軽さ重きになる重力の一点に、密度無限なる起点が起爆し、計り知れなき光熱ぞ無辺の暗黒を焼却し、跡に遺りしは始めての物質、暗黒の燃えたる灰塵たり。

宇宙は冷却すると倶に、それなる灰塵は大暗黒雲と相成り、無辺の空間に渦を巻く如く、幾億となく廻轉し灰塵を集縮せしめ、光熱の星・岩質の星・氷凍の星と宇宙塵の流星などにて、茲に宇宙は創まれり。星は生死ありて、輝く星もやがては輝きを老失し、大爆烈して星雲となりて、暗黒に消ゆなり。吾ら萬物生命體生死の如く、土質に消ゆは相似たるものなり。依て、宇宙に星の生死ありて、星は萬天に満つ。日輪とて久遠に不死たるはなかりけり。吾等が地界とて日輪と運命を倶にせる日輪軌道にあれば、地界如き小惑星は倶に砕粉となるべし。

是の如く説くは、天文哲理にして、学ぶ事實なりと覚るべし。依て信仰にして、徒らに迷信を以て惑はすべからずと戒め置くものなり。右、原漢書を釋す。

寛政五年  秋田孝季

二、

大地界の肇りと生々萬物の創りは、神代といふ人格神に造られたるものに非らず。かゝる幻想夢幽の、世にあるべきもなき神事の迷信に惑ふべからず、と戒むなり。

凡その道理、信仰の道理に哲理無きは信ずるに足らん。抑々大地界の始りは、日輪の誕生時になれるものなり。日輪に集縮せる宇宙塵に餘れる小惑星、地球亦は月界・金星・水星・火星・土星・木星ら軽きもの重きものをして、日輪恒星の惑星となりその軌道をめぐる星團をば、太陽系天體とて號く。

燃ゆる光熱の日輪に隔つこと適當にしてなれるは地界なり。依て水のある星となれる星・地界に海と陸、七對三の割にて地界は成れり。その海中にて水土の化成なる菌より種々の生物誕生し、菌・苔・草・木・藻・魚・貝・虫・鳥・獸の類に生々萬物は成長しけり。その成生に世襲の異変ありて、對生進化なきものは消滅し、人間こそは今、萬物靈長の先端にありぬ。

人類をしての祖は猿にして、その生々進化に智能に向上を得たるものは、吾らが人類にして成長せしものなりと證す。神とは、人心に想定さるものにして、神の造りたるものなかるべし。

寛政五年  秋田孝季

神信仰之誠

神道も佛教にもそして世界諸国の信仰界に共通せるは、奇蹟と幽幻、更には餘言と神憑り、傳説と人師・論師の巧みなる誘心、布施に衆を惑はすこと多かりき。

吾が国の神と信仰には、かゝる信仰を要とせず。神とは天然・自然の一切とし、信仰とは身心を天命に安ずるの修心とせり。依て荒覇吐神とは、天地水の要に叶ふ神事の他は何事にも、終始一貫にして他神信仰は哲理の叶はざる邪道のものとて、心固くして迷はず信仰の誠とし、亦神とは姿なきとて像を造らざる、荒覇吐神の信仰になる誠にて他非らざるなり。人は心身をして弱きが故に、邪道に堕易く迷信に誘われ易きなり。

寛政五年  秋田孝季

天然自然の哲理

心して仰ぐべくは天然・自然の節理なり。神はこのなかに存す。天なる宇宙の運行、大地なる春夏秋冬の節理の中に神は在り。わだつみのなかに、また湖水に、大河や泉や井戸水にも、そして吾等人體にも血となり肉となるべく流動あり。是れみな神と信じべきなり。天に仰ぎては日輪の光熱、月光の満欠、萬天の宇宙星に吾等の生命原あり。四季の移りに地界は寒暖に候をなし、風・雨・雷・雪は生々萬物を育み、大海の幸は盡るなく萬物生々を育みぬ。

山に海そして天に神ありてこそ、人は衣食住を安泰とせり。依て神とこそは、天然・自然をして他非らざるなりと断言す。世に人の爭を作爲せしは、大王をして民の命を下敷に、住民の安泰を賦貢の税に苦しめ、また戦を以て民を憂はしむ行爲こそ、神をも冐瀆せしものにして、信仰を用ひて人を修羅に人命を散殉せしむは、救ひ難き魔障なり。

民の泰平を破るは聖なる救済ならず、魔王・鬼畜の輩なり。ましてや大王を神とて神格せる行爲も然りなり。神とは人をして、人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造ることなかるべし。依て民の命とて、人命を尊ぶこそ聖王なり。

寛政二年  和田壱岐

天皇親政の評

倭史をして始馭天下之天皇、亦は御肇国天皇とて、天皇を神なる天津神・国津神とてなる神の直系とて上史を説くは、神をも背く行爲にして民を下敷く暴政なり。己れ天皇たる系に、ほこり・みやびのおごりは何事の故ぞ。天皇、人格神なる故か。民は国を富ましむる人寶なり。民無くば、汝とて何ぞあらん。古事記・日本書紀に神代の事あるは須く語部の幻想夢なり。かゝる故因に依れる史書は、民を制ふる迷救無報の書なり。亦、是に背信せる者を罰するは、天秤計れざる罪にありけるを知るべし。

神を應用し、民を迷信に誘ふは、神の怒りを招き、民の反きを自から招く亡国行爲なり。

寛政二年  平田直作

荒覇吐一統信仰之事

古来より荒覇吐神を奉じて一統信仰とせしは、日本將軍が宣したるものならず、民ら自から以て神格せしものなり。もとよりこの信仰は、人祖の遺したるものにして、天地水の理りを神聖とせしものなれば、神像など造らず、自然そのものを神と崇拝して、風の舞・波の舞・火の舞を奉じて捧ぐ祭祀せり。

祭文に曰く。
アラハバキイシカホノリガコカムイ、オーホホホー、イシカホノリガコカムイ、ホー、イシヤホー、フツタレチュイ、カムイノミ、オロロシンバラシンバラ、アラハバキヌササン。
夜を通してコサ笛を吹き、一枚太鼓を打ちたゝき、弓絃をはづく。土笛一笛、木鼓を打つ、貝を鳴らし、石鐘を打て、神をヌササンに招くは、民族挙げての行事たり。

春はコタン、夏は海に、秋はホノリ、冬はチセに行ずる祭事は一族挙げてのイオマンテたり。ヌササンにイナウを捧げ、各々が神に祈るは無心にして無我の境地に心置く事に依て、神憑りせるものを三種に選び、ゴミソ・イタコ・オシラにして人々はそれぞれに己が願望を逑て、神の告を聞く習しは、東日流に今も遺りけるなり。

寛政二年  江羅四郎

東日流古信仰之併

海浜・平野・山村をして、信仰のさま異なりぬ。亦は捧ぐる品々も然りなる處にて、神事祭文のみは変わらざるなり。中山の正中山梵場寺より中山千坊と曰ふが、これに續くは十三千坊なり。中山の峯を東西にして修験の道場が開かれしは、前九年の役にて東日流に落忍ぶ安倍一族が仮装にして、山伏ならば大刀はき歩くも自在たる故縁以て、安倍一族が積年財寶を敵方に奪はれまずと、幾十年も中山に移しめたるものなりと傳はりぬ。

外浜なる摺鉢城・新城・油川奥内城を以て健護に固むる。中山の西には飯積城を以て護り、中山に道を造らざるは掟たり。依て安東一族の再興速やかに果し、十三湊に安東船の北海・西海往来に航海せし商法は隆興せり。この交易に依りてモンゴルよりもたらせし古信仰あり、テングリと曰ふ。亦、靺鞨・女眞国よりはラマ教、クリル族のユーカラ、千島アリユト族のタンネ、ギリヤーク族のオホーツク女神らは、東日流のオシラ・イタコ・ゴミソ・カタリベらの信仰と歴史のユーカラを遺しけり。

モンゴルよりはテングリの他に、ブルハン神及びシュメールのアラハバキとルガル神、コプトのアメンラー神とイスス神、エスライルのアブラハム、ギリシヤのオリュンポス十二神、アルタイのエホバ、トルコの女神アテナなど、モンゴル民は多神各々自在信仰の国ゆいに、吾が丑寅日本国のアラハバキ神の信仰に一統構成に修成相成れりと、ユーカラに傳はりぬ。ユーカラとは語部にて、その語印を末代に遺す大王の祐筆なり。

吾が国の古代は、そのままに遺る歴史の眞相、露も僞非らざるなり。

寛政五年  秋田孝季

東日流三千坊抄

東日流三千坊とは、阿闍羅千坊・中山高野千坊・十三千坊と名付けられたるは、佛教の渡りより稱號せしものなり。

吾が安東氏の代に於ては羽黒・中山・十三を以て千坊と曰ふも、大浦爲信をして攺められたり。古来は是れに秋田・荷薩體・鳥海をして千坊とし、宇曽利・糠部・外浜を千坊と曰ひり。

千坊と名付たるは修験の者にして、安東氏が安倍の旧跡より古来の遺産を集むる手段たりと曰ふ。一族挙げて山伏となり、各所の秘處より集むる砂金は、驚く勿れ、幾百萬貫と曰ふなり。これは何處に秘藏せしかは、宗家の主筋の他知る由もなきが、それは天明の大火にて三春城の焼失にて久遠の秘となりけるなり。

寛政二年  秋田孝季

秋田家系図之秘

凡そ秋田系図にては、月の満欠る如く、その全明を知るを能はざるなり。上の系図・下の系図とて、世にいだせるは下の系図のみなり。

いかでか、上の系図はその處在を秘密とし、世に出づるなきは、秋田より宍戸更に三春、そして秋田城之介實季の伊勢朝熊への蟄居より、實季は子息・俊季にも渡さず。一族ゆかりの地豪に永代密藏と相成りると曰ふ。

その系図と倶に、平將門よりの秘巻・天皇記及び国記も在りきと曰ふ。抑々、此の事實は秘中の秘なり。

寛政二年  秋田孝季

安東累代史

一、

萩野臺の合戦、東日流洪河之合戦、藤崎城の合戦、十三湊長期戦、狼倉之合戦、摺鉢城之合戦、秋田土崎湊合戦、と安東族の騒動は前九年の役以来、一族をして兵を挙げたる戦の數々は、秋田實季を以て終りけるも、東軍・西軍をして一族内乱の始末に関ヶ原の合戦に参陣を叶はず、大名の座を東軍方とて印可さるゝも、関ヶ原参陣無きを理由に、松平・佐竹両氏の目安にて實季は伊勢朝熊の地に蟄居と相成りしも、子息・俊季を五萬五千石大名として相續せしめたるは、大坂の両陣にて實季の功ありてこそなり。亦、伊達政宗は實季蟄居は早計なりと松平氏及び佐竹氏を責めて、かくなるに治まれりと曰ふ。

家康滅後は、權謀術數にて諸国の大名取潰しの策謀やむことなかりけるは、武家たるの道外れたる家康が滅後のさまなり。

寛政二年  秋田孝季

二、

厨川落柵以来、安倍一族は東日流に落着せしも、もとより、いざ急ある時とて東日流に既設の城ぞありける。その一には、福島城十三湊にあり。渡島に十城を築きて、進退自在にありきを知らず、南部義政、糠部の騎馬全軍を寄せて福島城を圍むも、その福島城に一兵も空居にして、それを焼落したるは、南部義政の面目潰れたり。

安東一族は、領民倶に渡島に渡りて、既に三年の過程たり。然るに軍兵は却らず、唐川城なるにこもり南部勢を制えしも、嘉吉二年春、安東勢自ら城に火を放ち、小泊なる柴崎城にぞ移り翌日を以て渡島に渡りぬ。南部氏の十三湊にての勝利の利品何もあらざれば、兵の不服相強りて、義政遂に放棄せりと曰ふなり。もとより十三湊は旧に復すを能はず、見切りて松前に渡りけるは安東盛季が軍策たり。一人の殉者なく東日流を放棄せるは、安東一族の心理術たりと曰ふなり。

東日流放棄とは南部氏が足利氏に報じたるより今に遺りき記行なりて、安東盛季及び康季の心底は異りぬ。一族の命脈は何より先にぞ安住に移すは、一族の掟にして、是を破るは何をか曰はんや。一族の絆は強きなり。言語一句にも敵を造るべからずとは祖訓にして、あやまらず。自獨慾になる者は、まさに天の許さざる行爲なりと戒しむ。吾等は祖訓に反きなく、民を護るを先とせり。

戦の勝敗は時運にして、その武運亦然らしむ處なり。南部氏の東日流侵攻は、ただ一途なるものなく、安倍一族の秘寶を狙う他あらざるなり。源氏の出なる南部氏、不戦のまゝに任を解かるゝを、意感じけるも、津浪以来その復興叶はざれば新天地に移るは當然たりしも、是れを無戦なればまかりならずとの言辨は、足利氏に傳ふだけのものなり。

然るに、南部氏の狙ひは別件たりと曰ふ。安東氏に替る十三湊の航易を夢見ての進攻は尋常ならず。安東盛季もまた、今は十三湊も死守するに價なしとの判断の結果なりと放棄す。案ずるが如く南部氏の采配になる十三湊は、うどの大木たり。

三、

安東水軍と稱したるは、元寇以来なり。北條氏、對島の住民を救はんと安東船を出陣に請ふるに、安東氏、是を断じけり。

元寇の因を造りしは、都度の要請をなしける韓の三別抄なる請願も聞かず、元使を討ちし幕府の軽卆に依れる元寇を招きたる恨因に起りたるものなり。然るに對島・寄島は從来、安東船が揚州往来に欠くべからざる要島なりせば、中立にして島民をば一時、東日流に安住せり。

古唄、今に遺れるは次の如き子守唄なり。

〽おら家のめご子あ 泣くなぢやよ
  泣けば山から蒙古来るね
  泣かねば海から おとあもどる
  泣くなぢあ 泣くな

〽ねにやあ ねにやあ ねにやあや
  泣けば海から蒙古あくるね
  泣かねば山から おとあもどる
  泣くなやあ ねにややあ

是の如く今に遺る蒙古襲来のことや、いかに。

寛政三年  秋田孝季

安倍氏考

安倍の姓は、古代阿毎氏にして、その上つ姓は耶靡堆大王なり。もとは加賀の犀川郷なる三輪山に在りて、白山をしてその地に西王母・九首龍・饕餮を神とし、東王父として西王母を迎ひたりと曰ふ傳説ありき。

古代より山鑛の神とて民の祟にあり、倭に招きて大王となりぬ。その宮は大三輪神社にして、蘇我郷の王たり。泰平にして十六代安日王、その舎弟長髄彦は難波の膽駒山に君臨せり。然るに、築紫日向より佐野王の東征に、防ぐも敗れ、一族を挙げて丑寅日本に落着せり。

以来、安日彦王・長髄彦王倶に日本大王とて位に即し子孫をして榮ひたり。吾が国はかくして王国となりしは、倭より先なる国たり。倭国は大王を立つるも空位の間ありて定まらず、その頃にして東日流より故地奪回の西征を挙げたるは、大根子彦王たり。

大根子彦王は安日彦王の六代にして、坂東に於て兵をととのうて潮の如く倭に進攻せり。民族を併し荒覇吐とした挙兵は、倭に王居をなして五畿七道を征覇せり。

荒覇吐神は各處に祀られ、多くの鐸と鉾が造られて奉納さるなり。然るに、大根子彦王が崩ずるや、荒覇吐神は除かれ、奉物はことごとく土中に埋めたり。その故は、荒覇吐神は不吉なる鬼門より来たる神とて、巫女の神託たり。依て爾来、是を造ることなかりける。

寛政五年  秋田孝季

中山巡歩記

東日流中山に歩むれば、石の矢鏃・石斧・石鉾ら拾ふこと暫々たり。また、石塔山古墓には支那銭ありて、歴史の古きを知るらん。魚貝を求めて、その者を得ること易し。人住むは海辺に邑を連ね、大浜あたり古代の跡たりきありて、地耕にして太古の器いでくるありぬ。外浜に中山より降るは、空沼切通し他二道あり、遺跡多し。

宇鉄より渡島に渡る船ありきも、波立荒ければ出で帆なかりき。倭にあるべく地名あり、飛鳥山に神社ありぬ。また耶靡臺城跡ありて、不可思儀なり。なかんずく中山の石塔山には、東西の林道及び切通しありて人の往来しきりたり。

寛政五年  和田壱岐

古事しるべ

あまばしるよろずのさき、よをしるべにとはむれば、わがうしとらのくにひのもとは、あさなはやけくよあけますくになり。くにたみのおろがむるかみありてまおさく、あまひらくあそうぎおくまんねんなるさき、よのやみひらき、やみもゆこうねつのたぎり、ばくれつにのこりきちりばいのかたまれるほし、かずおくてうにうまれきうちゅうなりませるよのはじめより、にちりんかゝるやみをてらすまゝ、ちすいのかいうましめ、ひるとよるとのかいてんにうましむ、ばんぶつうまれけむ。よろずのるいに、りくとわだつみのあえに、ひとつのしゆにあひわかつ。せいめい、そのかずやまんてんのほしかずのごとし。

そのしゆのなかにうましひとの、うまれきはさひはいなり。ひとはきをかりてすみ、かをつくりなし、けものをかりしてころもをなせむより、くさきよりいとつむぎてぞ、ころもをりなむ。わだつみのへに、うろくず、かいをひろひ、きぐさのみをとりて、あさなゆうなのかてとなせるくらし、よけれ。

きをすり、いしをうつてひをおこしより、どせきにみつくひろいがね、いしわるはものより、なほたもつこそきはめて、たゞらをなさしめり。うみわたるふねこそつくりて、ひとはすみくににわたりけむは、ならひとてならむなり。これあらはばきのかみのみつひきのためならむと、ひとはおろがみまつるなりとまうさく。

ユウーカラの亭より

寛政三年八月
エカシ オトドフ

道芝の記

祖祖歴跡を尋ぬるに、妹背のとどむを振り、出でたる旅の夜風は寒し。秋田に至りて先づは日和見山の爺に再会し、土崎のいさばやに酒を交す。旅は二人となりて生保内に至り、西へ進むるをとどめ東に峠を越え雫石に降りぬ。またぎの宿に居をすえて、近山に安倍良照が遺せし柵跡を尋ねたれば、澤を濠として東西の要害とし、流れを東に結び北に峨々たる岩山に包まる、天然の自からなる城柵たり。城邸平野にして三町歩にわたり、兵馬をして二百騎を常住せしむに何事の支障なし。

史傳に曰はしむれば、秋田に峠越ゆれば生保内城あり、戦に傷負いし者の病棟たり。されば良照この舘を峠下に護りなん城柵たりと覚つなり。雫石の山野に澤田多く、兵糧に窮せば、生保内及び仙北よりの軍馬の飼もありければ、戦のあるべく非常時の要處たり。此の地は源氏も知らず、良照を神出鬼没の妖怪と怖れたり。常にして厨川に一族を案じ、その情勢にて兵馬を調達せり。

良照は入道して導照とも稱し、淨法寺・極樂寺を平素の往来とせしも、安倍富忠の反忠より佛道を捨て、元来の武家となりぬ。常にして曰くは、戦とは先征か後征かに要意し、一糸乱れぬ軍律に護りてぞ勝負ありとて、常に軍議の参謀たり。黄海の戦にして、また黒澤尻の戦に、源氏を皆滅にせしもその首將を知りつゝ逃がしたるは不覚たり、と悔ゆこと常たり。

賴良は情にもろきも、良照はその逆にして、敵に情あるべからずと兵を訓ぜりと曰ふ。かくある良照にして雫石の隱密に築きし仙岩城、亦生保内城は、佛心の故か、各處に傷負ふ兵を此の地に養生せしむは良照ならではの善意なり、とぞ思ひとりぬ。

寛政二年  和田長三郎

戦脱之史跡

和賀の極樂寺及び荷薩體の淨法寺、生保内の病治舘ぞ、戦火是無く残りけるは、源氏に知られざるところなり。然るに和賀にては両刀の如く鬼剣舞とて、胸當に笹りんどうを紋として源氏に從ふ者多く、その戦害に民を救ひたる導きをなしけるは良照なりと曰ふ。なかんづく岩崎鬼剣舞の振付なせるは、良照が自から舞ひ導きたりと曰ふ。

亦、猿石川の遠野にては、貞任山と名付けて南北に名付けたる二山ありきは、敵の追手をくらませる道しるべたり。山田湊に、亦淨土浜に道あるも、對岸二道に策ありぬ。糠部道と東日流道をして海道に越ゆ處を断ぜり。再度の道は久慈にありけるなり。是を稱して海隱れ道と云ふ。

良照が心をこらして護りけるは淨法寺と西法寺たり。是れ両寺ともに安倍国東が建立せし寺にして、天平年歴日に建立せしものなり。国東、諸国を放浪したる若き日に、倭に至りて驚きたるは佛閣の壮大なるに、奥陸になきを憂ひて建立せしは西法寺にして、その後に淨法寺を建立せしものなり。

寛政二年  秋田孝季

日之本將軍

古今に通じて倭の皇政に障るは、日本將軍の稱名たり。日本を稱するは奥州の国名にして、倭国は倭国の故なり。日本国とは、丑寅に存在して太古よりの稱名たり。依て国の大王たるを、日本將軍とて名を爲せるは當然の道理たり。

さる程に朝廷にては、是を国賊行爲とて都に通せるも、安倍一族挙げて對しゆずらず、遂にして前九年の役と相成れり。その道理は天皇記・国記をして明白なれば、朝廷も是れを知りつゆえに、丑寅日本国を蝦夷として貶しめるために、乱兆を造り、奥州征伐の大義名分とせり。先づその征夷に赴きたるは田道將軍なるも、伊治水門に討死せり。爾来、三百歳餘に生ある竹内宿禰と曰ふ世に非らざる不実在の人物登場となり、更には日本武命、亦然りなり。

凡そ日本書紀及び古事記と曰ふは、全くにして奥州を知らざるの記なり。丑寅日本国には、太古より世にあることの史實を記せるユーカラ卽ち語部録あり。亦、甘橿丘に蘇我氏を討伐せしときに焼失せしものとて世評にせし、天皇記・国記に記あるは、倭史の作爲なる史の編纂ぞ露骨たるなり。

日本国とは奥州にして、古来の国號たり。この證たるを抹消せんと、蘇我氏の陵をも土をはぎ玄室を露雨にさらしたる如きは、その探求たり。然るに蘇我氏、事あるを自警し、是を坂東の武藏なる荒覇吐神社に八本の鐸に封じ奉納し置きたるを、たれ一人とて知るものぞなかりける。亦、ユーカラ卽ち語部録はニブミ文字・コリヤーク文字・クリル文字・粟末靺鞨文字・黒水靺鞨文字・キムイン文字・アラハバキ文字の類ありて讀むに難ければ、近世猶も用いたる南部暦に知れる處なり。かくの如き語部録なれば、よく護られたり。かくあるを讀みつるに、倭史の如き神代なる世の非らざるを知りぬ。

天皇とは支那の眞似事にして、亦、神武天皇たるの世になかるべきを知るは、天皇記・国記の然るところなり。これ平將門の手に在りきを、更に日本將軍安倍致任の手になり、安倍一族の永護となりけり。安倍頻良の代にユーカラ六百を集し、これと倶に永代に秘藏せしは奥州要護の楯とせり。然るにこれを奪はんとて、何事の和睦なく奥州への討夷を国策とてなせるは、皇統に生きむとせる者の画策たり。

寛政二年  秋田孝季

荒覇吐神社之事

神社とは神殿・拝殿をして瑞垣に圍みて本殿とせり。その左方に攝社と末社をなせるありて、元本殿に祀らるをこれに移すは倭神道たり。荒覇吐神の如きは、猶格下げて門神とせるも是れありぬ。更には、取潰せるもありて名のみを留むあり。亦は、田の畔に石堂なして祀らるもありて古き社境を知るなり。然るに倭神に染まらず、あらはばき神社とて堂々と名乘り古代のまゝに祀らるもありしかど、祭事一切に隱密ありせば次第にして倭神に習從せる多きは、今なる世襲たり。

荒覇吐神こそ、宇宙の哲理、地水の合理になる理論は、迷信を破り眞如實相の神たり。信じべきは荒覇吐神の眞理にして、古き世の歴史の実相を知るべし。

寛政二年  秋田孝季

本聖地石塔山

天走る雷雲、暗をつんざく稲妻、電光の落下、わだつみに巻立つ龍巻、豪雨やまざる土石の崩れ、大洪水、大地割る地震と津浪、草木も枯るゝ大旱魃、氷雪に潰れる住家、猛吹雪逆巻く怒濤、一刻にして燃えなす大火と山海の噴火、亦、陸龍巻と山津波。人の世に渡るは、死との背合せなれば、神かけて祈りあれと、古きよりアラハバキイシカホノリガコカムイとて、古人は祈りたり。

亦、和やかなる生々に、突と起る火難・水難・病難・怪我などありきも、何ぞか人に依りて起る不自然、更には恙虫及び蝮や飯匙倩らの毒蛇、そして狼や熊、海に入りては鮫や海蛇に死ぬる多しも、何ぞか人に依りて不運につきるは、如何にとぞ不答たり。

人をして殺さるありき。戦にて死すありけるは、神をして祈る他非らざるなり。かゝるわざはひを救ひ給ふが故に、神を祀り神に祈らむことにて、しばしの安心をやすらぐは信仰なり。

聖地石塔山にては、古代より人に依りて降りかゝる魔障を卽滅せる祈り場なり。亦、太古にツボケ族が聖地とて定めたるより幾拾萬年か今上に至りぬ。時には天上に光靈現るるありて不可思儀たり。

寛政二年  和田長三郎

石塔山抄

人は、いつ代乍がらも悩み多く、病に苦しまざるなし。亦人の死も、今日は他人の葬をなし、明日は我が身の、心の安らぎなきまゝに逝く者多し。人も我れも、いかでか心に安らきを求む、神だのむに無我の境に入り難く、心は慾望に満つぬるは、神への参訪も布施心非らざる輩なり。

人生こぞりてだましあふさま、神の全能にも因を隔つぬ。古き世は病に醫師なく飢饉にも施者なし。依て人は互に援け合い、神に無我心境地に心し祈りて運命開きぬ。不老長寿を自らをして究め、その薬料を自然に求めて得たり。若松葉・銀杏葉・天蓼實・黄肌・萬年草・大葉らをして病に傷に身を自療せり。知能の限りを盡し、心に餘るを神に祈りたり。

石塔山にその薬用なるすべて自生あり。一年一度の祭事に詣で取り置きぬ。亦、宮主は傳法の作術を導きたり。年に一度びを以て入山を禁ずるは、これらを絶やすまずくせるが故にして、急する者には許したり。荒覇吐神はかしこき自然なれば、救ひ救はずと曰ふことなかりける。無我たる境地に祈るべくは石塔山なり。

寛政五年  和田壱岐

邪馬壹國之事

築紫東西に廣き築紫野背振山・室見川一帶を覇据せる大王早良族代々は、漢の班固をして説く漢書に、樂浪の海に倭人ありと曰ふ。古く築紫大王は磐井君と曰ふも、あたりに石馬・石人ら遺りぬ。この磐井君を攻めたるは、越より倭に入りける男大迹王が大軍たり。

既にして糸島・前治は落され、御井に磐井は討死せりと曰ふ。磐井の葛子は麁鹿の軍に、豊前上膳に追はれ、国東の姫島にたどり船師をして西海に水道を拔け越の庄内にたどり、陸州に拔けて仮住う地に永住し、地を磐井とぞ名付けたり。

依て、今磐井と曰すは築紫の移住民六百人の手に依りて開からるゝものなり。然るに、日本將軍これを許して住はせしは、築紫の知能を知るためなり。

寛政二年  秋田孝季

東日流水稲録

稲作を東日流に入れたるは安日彦王なるも、糠部に稲作を入れにし更に早期たり。その傳へたるは米代と曰ふ韓人なりと曰ふ。何れも同代の人なるも、かたや平民にして韓人なれば、十人の一族をして耕するは陸稲たり。彼の一族は稲よりも蕎麦を主食とせる民たると聞くも、後まで居住せず下閉伊に移りきと曰ふなり。

抑々津保毛族をして既に蕎麦を作耕せしは、石塔山にてその旨を記せし記逑ありぬ。水耕は三輪郷及び稲架にて稲を作りたる古老の話、代々をして語るところなり。東日流にて最古に古き稲作ありしは稲見稲垣なり。此地は泥地帶にして耕作の手足勞を要せず、ただ籾をまくのみにて稔りたるも、川洪水たれば皆無作と曰ふ。石の穗切刃の出づるは、此の地に多し。依て稲作は川上に移りゆくに、稲架に定作せりと曰ふ。

寛政二年  帶川平内

東日流古事抄

上磯・下磯と稱さるは海浜と入海浜を曰ふ。依て宇曽利と東日流大浜に至るを、外浜と曰ふ。地の候は下磯にして人住み多し。後世に郡をなしたるより先なる郡名は、宇曽利郡・糠部郡・戸来郡、これを外三郡と曰ふ。内三郡とは上磯郡・下磯郡とし是れに外浜郡をして東日流六郡と曰ふなり。依て今になるは後世の呼稱なりと覚つべし。右は安東管令控に明記せるところなり。

寛政五年  秋田孝季

天地水之奉神賫

凡そ神を天地水にせる奉拝は荒覇吐神をして創むなり。是れを要細せば、火神・金神・木神・石神・土神・雷神・風神・寒神・暖神・雨神・氷雪神・山神・海神・虫神・鳥神・魚神・草神・獸神・暗神・明神・雲霧神らあり、是を二十一神と曰ふ。然し是れみな荒覇吐神の一部にて、多神にあるべからざるなり。是の神々は山靼より渡りきたるを以てせども、これすべて天地水の掌にありとて、多神とせざるはよけれ。

シキタイのグリフィンは除かれ、支那の饕餮神・九頭龍などまた然りなり。ギリシヤの神にてはオリュンポス十二神のみなり。コプトはアメンラーの他は除きぬ。かくして荒覇吐神は天地水にぞ、諸人は含まるものとて、ただアラハバキイシカホノリガコカムイとぞ稱ふのみとせり。依て神なる像を造るなく、自然なる化石を神として高樓ヌササンに安置せり。是れぞ自然なる神の造りなす石神のゆいなり。神は吾れら身體にあり、これを除きては空なりと曰ふ。

寛政二年二月  和田長三郎

玉替造部之事

渡島の黒玉・高志の緑玉・アルタイの青玉・糠部の紅玉を組併せて飾りとせしは、神事の要たり。玉とは石なる神靈あるものとて、玉造りをエカシらは寶とせり。依て玉替あり、財を商易せしは高志をして益に富たり。

東日流にては、西浜なる海の潮洗ひ石なり。赤・緑・白・黒・茶・青など二十三色なる石を拾ひて製穴し首飾りとせり。まさに人々はこれを神錦石とて頂寶せり。神事に欠せざる珠なれば、たゞ製穴のみにて用ゆなり。

寛政二年  安保藏人

外浜古跡

鉢巻山・宇鉄山・大倉山・飛鳥山・奥内・孫内・山内・入内・平内・大浜・安方・後泻になる古跡に連らなる中山と八甲田系の山々に、古代の證はねむりぬ。外浜は大湖の如く北海に潮流し、海幸のかぎりなき寶庫たり。宇曽利・東日流の半島を渡島に海の峽にいだして、湊浜の民は飢ゆことなかりき。

ハタと曰ふ磯舟あり、古き世の傳統舟なり。葦帆にて漕走速く、鯨・海豚・魹など海獸を狩猟せる舟たり。ハタには大小ありて、荷積舟・狩舟ありけるなり。阿部比羅夫、この海に二百艘の軍船を入れて侵領せんとせるや、このハタに群がはれて舵を折られ、火箭にて多く沈没さるゝあり。その技は巨鯨をも狩られる業たくみなり。木の葉の如き舟なれど、渡島往来し、また東海に季節の旬漁をせるもこの舟なり。

寛政二年  秋田孝季

北極星之事

春夏秋冬の天空にたゞ一点不動たる星あり北極星と曰ふ。辺なき砂漠の旅、四方海の他陸見えざる大航海に、征く船の當つる處にたどるは、この星と日輪をして果し得る旅なり。されば雨の日・曇る日は方途を失ふか、否、磁針ありて狂はざるなり。磁針なくば鳩を放つれば、その方行知ると曰ふ。

大陸にいでては砂嵐・黄土嵐起り、方途を絶すとも、その向ふべく處を知るは駱駝の歩に委ねて至るなり。海なれば、鳥の飛びゆくに陸地ありけるなりとクリル族は曰ふ。古代の民族は永き生死のなかに験したるを子孫に傳へ、その善きこと悪しきことを遺せり。北極星こそ、萬天の星あれど、人の旅を導く暗夜の星なりき。依て黄泉に赴くに北枕をしてなせるは、死人へのしるべとも曰ふなり。コプトの金字塔は北に向へ北極星をして靈窓を施せるも是の如し。荒覇吐神の社は、必ず北方に参道をかまうるなり。

寛政二年  秋田孝季

北極北方の葬儀

古来より北極を夜叉国・角陽国・夜虹国と曰ふ。日の沈まざる白夜、ゆらぐ夜虹の光り、まさに神の座す国たり。寒きは何者も凍らしむ極寒にして、海海を渡る白熊・北極狐、空には鷲ぞ飛び交う。氷島流るまに一角鯨・海猊・海豚・海象ら泳ぎけるは天性たり。かくある北極にも人住ありと聞きて尋ぬれば、ギリミ族・イリュイ族・コリヤーク族・ウデゲ族の住ふるを見ゆ。

雪穴掘りて暖は魚油灯のみにして、トナカイと曰ふ鹿皮をまとひて春陽の一刻を待つ暮しに、吾等及ぶなかりき。頃は寛政二年の春、極北に尋ね、秋田孝季、住人の祖習に見ゆは、人死して凍葬なり。大木の一本繁る技にソリ棺にトカナイまたの名をトナカイ鹿をも副葬して訃せり。夏至り土見ゆころに土埋むると曰ふ。

孝季の歌に曰く。

〽極北の 寒凍にあり 人葬の
  涙も凍る 氷雪逆り

孝季は如何に見ゆや、黙として語らざりき。

寛政七年  和田壱岐

末吉自言

吾れ老いたり、書字、眼に見えず。手感にして書きぬるは讀み難けれども、もはや筆了いくばくもなかりける。想ひ起せば、久しくも過しは心に永けれど、光陰は一刻の如し。逝く日の近きを覚り、祖来のことごといま書終了す。あとは子息長作に委ね、今宵はねぶりたし。

此の陽光に當るべく日の近きに余感せども、日本帝国の軍閥は、民の自由・言論も封じ、世界に殖民の地を廣げ領土とせんは、いつか崩るの日近からんと覚つるべし。あと幾十年や、天皇を神とし、民命下敷く戦に死すを譽とするは、民主の外道、獨占の暴挙なり。

大正五年  和田末吉

書評

此の書は、漢書及び候文を攺め、新時代の者に讀ましむに書譯せしものなり。一句一語の私加なく、祖書の意趣を再書せしものなりせば、心して讀みつるべし。

此の国は誠の日本国なれば、蝦夷とぞ曰ふ文部省のおぞましさ、いつかは神代史觀も潰れんや。軍をもって国を建つる政治の狂気の沙汰に、国運は今に斜陽するなり。華やかなる軍閥の散るべくは近きなり。天皇また然りなり。神なる座を降り、人間になる日は遠からず。心あやまりて、世界侵略に志願する勿れ。生きてある身を兵役に散らすは、教育の因原に正道を外れ、人命を彈と替ふる狂気の沙汰なり。目覚めよ。故国を護るは平和の睦みぞ他非らざるなり。

吾ら丑寅に在りて祖来の郷とせしにや。戦に讃動すべからず、民族相互に榮へまさんを世界の神々に祈願しつ筆を置く。

時、大正五年
自家於神前 和田末吉

大正五年  和田家藏書