東日流外三郡誌 第三百六十巻

注言一句

此の書は他見無用、門外不出とせよ。徒らに世視に施して科を招く勿。

寛政二年  秋田孝季

丑寅日本國譜

一、

吾が國は、倭の東方に位せる丑寅の日本國なり。北方に渡島・千島・流鬼島と續き、倭境は坂東の安倍川地境より越の糸魚川地境、東西に北位せる國を丑寅日本國と曰ふ。

倭皇にして、祖を神とせる神話作説の神代と曰ふを以て、皇位の權をまゝとす。世に神代と曰ふ歴史の上ぞ非らざれば、人の信仰に譬喩し、神々を親緣し、その信を洗悩せしめ、民を從卒せしめたり。

依て、從ふものを神々の皇孫と賜緣して、天皇氏・諸國大王に從卆せしむ史書になれるは古事記及び日本書紀にして、是れぞ神話語部なる大野安麻呂及び稗田阿禮なる者なり。彼等は諸国の神話を築紫の神話に併せ、茲に神代たる皇祖に修成し、遂には國史とて民心に宣布し、諸國に倭神の神社を建立なしけるも、是れ東征の役目たり。是れ從はざる者は誅伐され、国賊とて天皇の勅とせり。

然るに是の如き作爲・權謀術數を見拔き、祖来の信仰に不動心たるは丑寅日本國にして、倭神は天地水の哲理に遠きものとて、その總ては諸國民族神話の集併なるものと、皇化に從ふなきは丑寅日本の民にして、神は人祖に非らず、天なるすべて卽ち宇宙なる満天の星や日輪の下、空・風・雷・雲・雨・雪・寒・暖すべてはイシカとし、人祖とは有緣なきカムイとせり。

更には大地をして、生々萬物總ては天然・自然の哲理に依りて生じたるものにして、人祖を神とせる神の創り造らるべきもなしと説けり。次に水の一切にして、萬物の創生は天地水の神、卽ち天なるイシカ、地なるホノリ、水なるガコの混成に依りて、萬物の種は創生し、萬物のなかの一種より人間は蘇生せるものにして、如何なる人間とて神になれるはなかりき、と説くは丑寅日本國の民が神と信仰せし荒覇吐神の迷信なき信仰なりと曰ふ。依て神とは宇宙にして、また陸海の一切なる森羅萬象を神と曰ふなり。

世に大王とて、自からを神とせしものは、たとひ如何なる大王たりとも死は至り、その子孫にして久遠なるはなかりき。コプトなる金字塔とて、いつかは砂と砕け砂土に埋む消滅の至らんありきと、わが國の歴は曰ふところなり。亦、倭史なる天皇記及び國記の序にも明記あり。是れを固持せる蘇我蝦夷は、甘橿丘の邸を焼かれ討死せりと曰ふは史實にして、かゝる天皇記・國記の見當ざるに依り、蘇我蝦夷の墓は土をはがしめ石の玄室までも崩壊されしきは、今になる石舞臺と稱されし處なり。蘇我氏はかゝる事のあるべくを察し、大事をとりて天皇記及び國記を三河なる荒覇吐神社に秘藏せしを、春日氏・物部氏・巨勢氏・大伴氏・葛城氏・和珥氏等とて知るべきもなかりけり。

抑々この天皇記・國記は、越の大王・耶靡堆氏に依りて、天皇氏代々の譲位の皇證とせしものなり。然るに、その上記大要には神を以て神祖とせるは一行も非ず、天皇を萬世の一系に譲位せるはなかりきなり。亦、その記になるは、神武天皇より皇継はなく、天皇一世は越の大王に創り、亦、出雲大王との互継にして、譲位亦即位せるの明細史たれば、古事記・日本書紀の僞傳も明白なればなり。

二、

吾が丑寅日本國の史を論ずるに、先づ以て蝦夷と曰はれるクリル族の語部録卽ち地語にしてユーカラを心して信じべきなり。語部録とは口傳に非らず、實相を物語る他、何事の作説やあるべからず。もとより吾が丑寅の國を蝦夷とて化外の民とて重税のおぞましき多賀城の軋政に兵を挙し、前九年の役を以て制圧せしは今にして尚恨みの遺る奥州の倭政なるを知るべきなり。常にして奥州は化外の地とて亦皇宮の鬼門に當る國とて何事の反乱なきに前九年の役は起りけり。

抑々坂東に平將門を誅したる天慶の乱、續いて前九年の役の起りけるは、何れも朝庭の起因にして、坂東より丑寅の國はたゞ蝦夷意識に征討を以ての他、議決の余地はなかりき。和議を以て挙兵の陣を解かしめ、その不意を突くは朝庭がくりかへす戦法にして、反忠の反乱を起さしむる画策を以て前九年の役は敗れたり。とかく丑寅日本國の大王たる日本將軍は、この戦に敗れたることに依りて天下の泰平なると思ひきや、安倍討伐に反忠し官軍となりし淸原氏また後三年の役にて誅されし、朝庭の画策はすべて前九年の役より既にして朝議に決したる奸計たり。何れも源氏に依る戦謀を密に約し、更には平泉討伐に至れり。

然るに安倍氏は東日流に在りて姓を安東と攺め、厨川大夫貞任の息子・高星丸は一族再興を遂げ、北海の大王たるべく威勢を海に覇をなしたり。安東水軍の誕生は山靼交易を以て益をなさしめ、更には支那は揚州湊に往来し更に益を挙げたり。

十三湊に唐船の多く来舶せしはまさにその商易盛なるものたり。北海の幸は限りなく、安東一族を以て諸國にかなふものはなかりき。東日流にては支那の貨銭を以て通用し山靼も然なるも、多くは銀を以て流通せり。渡島の地民またその暮しは衣食住に能く渡りたり。

三、

歴史の根本を宇宙に求め、宇宙の創りに、人は神の創れしもに想定し、多くの神話を今に傳ひしも荒唐信じべからざる多し。然るに、はるかなる古代に宇宙の創りを次の如く説きたる一書遺りて證す。ルガルカオスと曰ふ古書にして、次の如く説きたり。

時もなく何物もなく、漂ふが如き暗黒重なりて、果もなく闇に續くカオスの中に物の質あるべくもなし。是れ宇宙の創まらざる前のさまなり。時にその闇なる重なりに渦起り濃縮さる大暗黒に光熱の起爆起り、無辺の暗を誘爆し、激しい光熱に果しなく暗は焼却され、たゞ光熱のみ宇宙と相成りやがては冷却し、その焼跡に塵は漂ひ塵自から渦となりて固りぬ。これぞ阿曽祇の數になる星の誕生にして宇宙の創りたり。光熱の星、岩塵の星、塵雲漂ふ處より誕生す。是れぞ宇宙の創りなり。以上の如く、ルガルカオスと曰ふ古書に綴られたり。

信じべからざる人をして異なるゝも、丑寅日本にては山靼よりかく傳はりしを歴史の創めに筆記せり。これぞ古代シュメールやギリシヤに於て宇宙をしてその運行を計りてなる哲理たり。地界にては、日輪星に生じたる星にして、その光熱離すること適當して成れる水を保ったる星なれば生命の誕生あり。萬物生々の中より吾らはその一とて生じたるものなり。

生命にも消滅あり。進化成長のおくるゝものは子孫を絶ゆあり。亦人間の如き智能のものは、他生命を消滅せる程に害したるさま今尚續け居りぬ。草木とて生命あり菌苔蟲鳥魚貝獣らとて生命の一つなり。

変らざると見ゆる満天の星さえ死ありぬ。星の死は爆粉塵と砕けて宇宙の暗に溶けぬ。そのさまは天喜の世に起りて人の傳ふところなり。世の史家はかゝる説をしてにべなくも一笑さるゝなり。然るに山靼の彼方にては日輪の運行を赤道と黄道に極め暦をして年を知りぬ。

四、

吾が丑寅日本國は北境の故に國外の侵敵あらばその護りを密にしてクリルタイの盟約をこらして不可侵とて、たゞ商道に信を得たるは元軍の攻めなきに知れるところなり。

元軍流鬼國に上陸せしも、クリルタイの盟約ありてこそ、大量なる兵糧をいたゞき凶年の飢えを過しきは、寺社にフビライハンやマルコポーロの像遺りきに實證たり。

倭に於ては國難とて、幕府の衰退にかゝはる程の凶事たるを知るべし。何事も武威を以て國の護りとせると相違せる安東一族の護りとは、民族をして爭はず商易を以て對交せるとは大いなる相違なり。

戦を以て權政を掌握せるはたゞ憎恨を遺すのみにして、睦むとは遠くてありき。依て萬論を盡しとも爭ふ戦の事は起因を造らざるは安東一族の本旨たる處なり。

波涛萬里世界に航道あり。安東船の征く處ぞ一族安泰の益得る盟約の國なり。流鬼國はナニオ湊あり。黒龍江水戸口よりチタまでの大河航路、渡島マツオマナイ湊よりワニ湊及ウラジオ湊への海航、十三湊より支那揚州への航路に國を富ましむる安東船たり。

國の外より得たる智識をして大いに十三湊は榮ひたるも、うらめしき興國の大津波に廢湊となりたるほか、南部守行の侵領にて東日流より安東氏は渡島及び秋田へと新天地を開き、茲に東日流を放棄せり。渡島には十二舘、秋田には檜山・土崎をして舘を築き、能代湊・土崎湊をして十三湊に代る湊とせり。渡島には松前湊・七重湊をして東日流の旧臣を渡らせ百姓の多く秋田に移して、去りし東日流放棄に東日流は荒芒として南部氏も亦放棄して糠部に退きたり。

五、

吾が國は歴史の事を他見無用とし、門外不出とせしは、安倍一族が永代に渡りて一族のために秘藏せし秘寶の護持にして、あるべき處を蟻の一穴までももらさぬとせるにありきに、平泉なる藤原氏の如く陸奥の財を湯水の如く消費せるとは祖来より戒を以て禁じたるものなり。

秘寶を藏したるによりその復興速やかにして、一族は何處に移り轉ずるとも、貧に窮せず今に尚以て君坐ぞ安全たるを知るべし。人の慾とおごりは限りなく一度び浪樂三昧に更けりて正常に復し難く民に反忠を招くなり。亦、臣と睦み難く戦に臨ては逐電相次ぎ國ぞ護り難し。

依て安倍一族をして常に、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造らず、一族相互の交りを不断の心條とせり。遠く山靼に赴き異土の暮しを入れて、たゞ農作便りの生々とせず、牛馬を放牧なしてその益を挙げ、凶作にも窮せざるの生々は一族共存の調和相成りぬ。地産の金銀銅を不断にして凶兆に備ふは、安倍氏が祖来の訓令たり。依て、如何なる一族の窮時に耐えられたり。

安倍一族の祖来は加賀犀川の三輪氏に創り、次には耶靡堆氏と相成り、次には安倍となりて丑寅日本國を興し、次には東日流に安東氏と相成り、秋田に移りて秋田氏と相成り現今に至りぬ。吾が丑寅日本こそ古来より日本國とて倭國とは根本より異なりぬ。

明治廿年  和田末吉

安東治領史

安倍氏東日流にまかり一族安泰の地領をば振興につとめたり。無窮なる北領の幸を渡島及び千島・流鬼國に求めてその地産を山靼に交易をなしてより、異土の歧を入れ鑛山採鑛に大産を得たり。安東一族は渡島に住民の多くを移しめて富めり。

渡島はマツオマナイ及びウッケシ・オサマンベ・トマコマイ・エサシ・シコタン・イシカリらの海辺に居を邑造り先住の民らとその親睦を旨として地を開拓せり。

まさにその地産を向上せしめ、安東船に依りて山靼に交易し彼の國より物交にして得たる衣物、馬や鞍、弓箭、ホルツ□、茶、馬乳酒、金銀銅を以て製作せしもの地民に悦ばれ、多いに地産せり。積荷なるは毛皮、鷲羽、干し鱈、干鰊、塩鮭、昆布、干山菜など、山と積にしとも着湊一日にして空船となり、彼の地よりの積荷また然なるにより安東船は船群六艘を一團として往来す。是を世に號けて安東水軍と稱せり。

安東一族をして海を道と開ける要因は、築紫の安倍宗任が一書に依れるものなり。むらごみ水軍を頭とせる倭寇は、松浦水軍と倶に海賊行爲をして十三湊に来舶せるを犯したるは事實なり。然るに安東船を襲ふことはなかりき。

若し襲ふものならば、安東船には鉄砲と曰ふ揚州渡来の武威あり。一撃にして倭寇船は𣲽没せる憂もある由を知りてあり。亦、宗任の系に縁る松浦水軍は揚州往来船たる安東水軍を何事ありても通航を妨げることはなかりきたり。

依て唐船は十三湊への航海を倶にすること暫々たりぬ。十三湊にては唐人等ヤンクなる船を東日流檜を以て造船せりとも曰ふ。やがては安東船の商易は倭湊問屋にも迎へられその益を得たり。

〽十三の砂山 米ならよかろな
  西の辨歳衆にや ただ積ましよ

かく古歌の如く榮ひたり。

續丑寅日本國譜

一、

満天の星も日輪の照光に消ゆと想ふ現象に、夜を怖るは邪道なり。亦、死を怖れ心に不老長寿のみを願ふも然なり。凡その道理を知り乍ら、人は久遠に遺るを願ひ自己を大事とし人を下敷におとしむるは、まさに自から邪道に求道し表飾だけを以て神に佛に求道せる僞善の者なり。

常にして萬天の星は宇宙にあり。生死は至り時の流れは暫らくも駐むことなかりけり。生生は流轉し流るゝ水も、世にある人も同じく見えて同じからず。世は移りけるなり。速走る水に顯れ消けるうたかたの如く、世は無常にして續くも、久遠もまたいつの日にか了る日の至るは必如なり。

人生少かにして命運は人に依りけるも、必ず無常は至るなり。人は神を求めその信仰に求めて安心立命とせるも、迷信に堕ち易く人師論師のまゝに散財せども救はるゝなし。すべては無常の至るを苦諦なり。

荒覇吐神なる信仰は森羅萬象を神の聲と相として、天なるすべて地なるすべてそして天地を往来せる水の一切を神として、その哲理に究むる信仰なりせば、迷信のあるべからず。眞の如實相にもるゝことなかるべし。天然自然は人智の及ばざる畏れありき。語部録に曰くは次の如くなり。

この意趣を説くものはテングリの他に非ずと曰ふ。

二、

吾が丑寅日本國は、荒覇吐神とその信仰を以て一統なせる國なり。凡そその信仰とは、ヌササン卽ち六本掘建の髙楼神殿にして階三段に造り、上を天なるイシカ、中を地なるホノリ、下を水なるガコカムイを祀りぬ。

神とせるは天よりの天降りし流星石、山湲に木の石となれるもの、次には魚貝の石となるゝをヌササンに安置なし、六本のイナウを立て上中下階に神坐なして祀りき。神殿の四方にカムイノミ卽ち神火を焚き、老若男女フッタレチュイと即興に唄を歌ふ。音頭に合せて踊るは是れなり。

エカシは弓の舞、オテナは生贄を神に使者とて捧ぐ。空飛ぶ夜のふくろう、昼の鷲、陸走る熊と狐、水住むる𩹷と鮭などをヌササンに供へ、祭り了りてはカムイノミに焼き、煙りとして天上なる神の界に諸々の祈願をこめて使者とせり。祭祀は七日七夜を通して日夜の祈願たり。

是の如きは古代なる祭りなれども、荒覇吐神を併してより贄を禁じたり。然るに渡島のみは、從来に祭祀を絶やさざるなり。安日彦王・長髄彦王の三輪山信仰は、ものの殺生を神事とせるを禁ぜしゆいに、東日流にてはそれに習はしめたりと曰ふ。神格をして人格神とせざるも亦然なり。

倭國にてはカンナガラ亦はワケミタマそれにウブシナを神の要とし、神々の世界を髙天原と稱しアマツ神と曰ふ。地にある神はクニツ神とて、天なる神は地なる神にユニクイナホを、アマテラス神はスサノオ及びツキヨミの天孫をオノコロ島に神勅をして降臨せしめたりと曰ふ。その神勅に曰く。

〽豊葦原千五百秋の瑞穂の國は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ行矣寶祚の隆えまさむこ當に天壌と窮り無かるべし。

かくの如き神勅を奉じて髙天原より築紫の髙千穂山なる峰に降臨せりと神話ありぬ。

この倭國は天界にて伊弉諾及び伊弉冉の神が、天の浮橋に立って下界なるわだつみを天之ヌボコにてかきまわし、あげたる雫に依りてオノコロ島ができたるものとせるなり。

右はいづれも荒唐無稽にして信じべきに非らざるゝなり。また倭の大王はこの神の皇孫にして萬世一系とせしは、あきれたる夢幻夢想に造られしものにして、まさに天地水の神を冐瀆せし行爲にして哲理になんの實證なきも、神話にあきたらず天皇の祖を大格神とせるは、いつの代にか崩滅せん無能なる説なり。

荒覇吐神に信仰せしものは神を神格神に造らず、神とは天地水にある生々萬物、満天の宇宙みなゝがら神と奉拝し給ふを哲理に叶ふ信仰とせり。

三、

倭史なる古史書、古事記・日本書紀になる神代とは、その根本になるは官任の語部・大野安麻呂及び稗田阿禮に依りて諸國の民の神話になるを併せしものなり。

天より流星・雨雪が降りても、人格神の降るとはまさに荒唐無稽にしてあるべきもなき神代たり。然に當代に是を信じる多きは、深層に捨難きは人の心なり。

鳥の卵を生れしときに初めに見たる者を親と想ひてなつくが如く、迷信と言ひども神なる信仰は人師論師に依りて人を左右す。心して正邪を究めよ。神とは人格神にあるべくもなく、神とは森羅萬象にして、その信仰にある者に感原せる人智に盡せざるを神格にして、もとより神は姿の無けるものなり。

依て神を祀るは山や嶋に聖地求めて、古代人は人踏まずの地とて一年に一度の參詣とせるは、登山と海渡りの神事とて行じたり。

荒覇吐神は倭神とは雲泥の相違あり。迷信是無く實相の哲理にあるべく信仰たり。東日流に存在せるイタコ・ゴミソ・オシラの神事や占は、何れも山のテングリより傳はりしものなり。此の國に民が自から神と崇むるは満天の宇宙と萬物生々の陸と海なり。心して迷信に惑う勿れ。

四、

倭の天皇と曰す系図を尋ぬるに、天御中主神─髙皇産靈神─神皇産靈神─可美葦牙舅尊─天常立尊─「天神七代」─伊弉諾命・伊弉冉命─大綿津見神─玉依姫命・鵜萱草葦不合命─天皇

是の如くなれり。天皇にゆかる臣とては、賀茂氏・三輪氏・物部氏・尾張氏・津守氏・大伴氏・忌部氏・中臣氏とあり、倭神道の神々なる系にありぬ。この神道に奉る行事に於ては、髙天原・天神七代・地神五代の神々とそれを鎭座せしむ神社、そして祭りと神懸りと禊祓いにて神道の作法とせり。

何れも人格神にして成る神にて、諸國には八百萬神を當つるなり。然るに、何れも皇祖神に皇化されたるなかに、今尚以て皇化をこうむらざる神あり。是れぞ荒覇吐神にして、三禮四拍一禮を以て神詣禮とせり。

代を經て荒覇吐社、丑寅日本國より倭はもとより築紫の國までも弘布せるに、今は倭神を入れて、もとなる神を門神または門客神更には客大明神とて神殿の外に祀られ、または排斥亦取潰せり。然るに、尾張・坂東・奥州には未だに大古よりの社遺りぬ。依て荒覇吐神は安日彦大王・長髄彦大王になる古代神は久遠に不滅たるを知るべし。

慶應元年  松野法印

古代文字譜

一、

右古字譯 上宮太子

人含道善命報名親
兒倫元因心顯錬忍
君主豊位臣私盗勿
男田畠耕女蠶績織
家饒榮理宣照法守
近惡攻絶欲我刪

二、

右は日文と曰ふなり。是は東日流語部文字とは異なりぬ。

三、東日流語部文字

右はテングリの神憑りに用ゆるものなり。

寛政二年 帶川又十郎

神司祭文之事

仰ぎ請ひ願はくば、吾らが全能の神に曰ふさく、アラハバキイシカホノリガコカムイ・ヌササン・カムイノミ・オーホホホー

茲に謹んで奉請してコタンチセの吾らがイオマンテに来臨なさしめ給へとこそ稱へ奉る。神耳ぞ知る吾等が命運幸あれかしと吾等が衣食住を護り給ひとエカシ及びオテナの願ひなり。

是の如き祭文は現代にして、古代に於てはただ一向に稱ふるは次の如くなり。アラハバキイシカホノリガコカムイ、とのくり返也。

飯積派立住人  長三郎

石塔山近郷遺跡

外濱・耶靡臺城、大濱・三内ヌササンチャシ跡は今にして古き代の遺物・土くれに埋む多し。亦、宇鉄なる處然なり。後泻なる古宮摺鉢、入内の石神、安泻のカムイ、ウトウワダツミのヌササン、大濱のコタン跡ぞ、石圓イシカカムイを祀りし跡あり。アラハバキ神社ぞ今に遺りける。

文政五年
安泻住 沼田善五郎

神行事之事

ヌササンに供ふものに二種あり。御饌と幣物、生饌と熟饌にして、神酒・水・塩・餅・魚介・山菜・海草・果實らを奉納す。

神社境内の木は伐せず、參道をして草を刈りしも、その根を絶やしべきに非ず。神事の他は自然がまゝなるべし。神域不入の神聖地は一本の草とて刈り拔きするべからず。神事にも神職の他入るべからざるなり。

寛政二年  和田壱岐

神話夜話之事

遠く紅毛人國なる古代ギリシアとは、神々を神話に満つ。そのひとつにホメロスのトロヤの物語オデセイウスの物語は今尚人々の時代に遺りぬ。凡そ三千年前よりホメロス・イリヤスの叙事詩は、久遠に生滅せる事はなかりきオデセイヤの物語なり。

亦、支那にては西王母の神話、モンゴルにてはテングリのブルハン神の物語、古代シュメールのギルガメシュの叙事詩、古代コプトの神話にはノアの箱船の傳説をはるか以前に洪水傳説が物語られ、文字の創めとも曰ふ。土版に押された楔型文字に綴られてあるは奇怪なり。倭國の神話も亦歴史と想はざれば面白きかな。

吾が丑寅にては、神をして實在もなき物語を遺すは神を冐瀆せる行爲とて、なけれども、語部録にぞ神なる全能の諸話あり。人々は語部より冬の夜、話の盡きるなかりき。なかんずく神の信仰とその奇蹟は夜話の話題に多きなり。

明治三十三年 和田末吉

奥州怪奇談

陸州須川と曰す三つ石神社に存在せる三つの巨石のひとつに、なんと鬼の手型と曰はれる石が巨大なる手型を今に遺して在りぬ。この石の手型をして、多くの傳説遺るも當然たり。

亦、閉伊にはツヅキ石・笠石・剣石あり。秋田にては龍石神などありき。石になる自然の造りなすものに宇曽利の神々石、東日流大鰐の石塔、中山の石塔、西濱のカブト岩や石の千疊敷などまさに怪奇に満つる物語ありき。

鬼の岩窟や怪奇なる傳説を遺す石神は、出羽・陸奥・渡島に限りなく存在せり。そのなかには人の工を加へたるもありぬ。

寛政五年  木田貞市

荒覇吐神要典

〽諸人よ来たれヌササン
 神の救ひに集ひたれ
 生れて逝くは世の常の
 神の御手に導びかれ
 生きてある身を祈れかし

〽世にありて朝な夕なに
 神すがたあり今日もまた
 荒覇吐神なりませる
 東日流中山石の塔
 なやみあらば祈れかし

是の唄はたれとなく祭禮に稱へ遺りしものなり。石塔山は山そのものすべてが神の御姿にて、年に一度の參詣に集ふ人々が踊りて唄ふ年行事たり。祭文は次の如く稱ふ。

アラハバキイシカホノリガコカムイ

たゞこれだけをくりかえしヌササンに向ひて三禮四拍一禮を以て拝す。祭禮日は九月十九日なり。その前日より、十八日前夜祭にてはカムイノミを焚きて神を招請して禊祓いてゴミソは神憑り、イタコは靈媒す。更にオシラは參詣諸人に各々吉凶を告げ惡障を禊祓ふなり。

かくして子の刻に神火を焚きて、その火相にて神の相を拝し奉りぬ。石塔山の本祭は次の日にして御神體として宇宙より天下りし流星、木の石となれるもの、魚貝の石となるゝを神前に供ひて神司が奉詞せり。

神詞

あやにかしこきイシカの大神、ホノリの神ガコの神に曰さく事の由を今伏して願はくは全能の神荒覇吐大神に曰さく。つらつらおもんみれば世の相神を遠くして天に地に水に穢れを遺しきる諸人の造惡なる罪穢れを祓ひ給へとこそ大神の御前にかしこみて曰す事の由を曰さく。

右の詞を了して次にはイタコやゴミソそしてオシラのテングリ達が各々衆を集ひて占ふ行事となれり。

明治廿年  和田長三郎

奥州神道史傳

凡そ奥州に神道と曰ふ多神信仰の創りは、渟足柵及び磐舟柵を越に築きて以来、いよいよ以て出羽・陸州に北征を企てたる倭朝のたくらむることと相成りぬ。越に玉造りとていでむ東日流の民を柵養とし、越の民らと併せ難波宮に參道し冠二階を授賜せり。その條として玉造らに朝貢とて糸魚川に産ずる緑石の玉、閉伊に産ぜる琥珀玉らの献上催促たり。

然るにその玉造りたるの類にては管玉・圓玉・勾玉の連珠たれば、即答せず、二百餘人のうち柵養の地民九人、津刈の民六人のみ、その冠位を受けたり。然るに冠位ありとて丑寅日本國大王に何事の用もなさず、たゞもつぐされたる冠位なれば、越の国司安倍比羅夫、北征の勅を奉じて百八十艘の軍船を北進し、秋田の渟代の五王・恩荷を攻めたるも、アラハバキ族とて民族併合せしこの急を五王の有澗武に屆くや吹浦より軍舟ハタが海濱に幾群と數をなして渟代に迫りぬ。

その海戦とは秋田に産ずる地湧きの黒油を以て火箭とし、比羅夫の軍船に八方より射られ百艘餘は焼𣲽せり。流石の比羅夫も是れには敵はず東日流有澗濱に遁れたり。時に溺者三百人と曰ふ。この前に有澗武は渡島の水軍をマツオマナイより寄せて安倍船團を向擊にせんとせしや、比羅夫自から帶剣を海に落し和睦の降に伏せり。依て海上にて膽振鉏の船軍、矢を弓壺に納めたり。

時に有澗濱にて和睦の宴を催したりし。秋田土崎を侵して奪ひたる總てを返し、更には倭軍のハヨクベ卽ち鎧を残さず差出さしめたり。かく和睦の條とて東日流・秋田・マツオマナイの主將に北征の兵糧を分つことを認得さしめたり。秋田恩荷、東日流の有澗武、宇曽利の青蒜、秋田の沙尼具那、男鹿の恩荷、土崎の宇婆佐、渡島の膽振鉏ら、比羅夫の残船八十艘よりその船室を空とせり。まさに面目潰れの和睦たりと曰ふ。

然るに越に退く比羅夫はこの恥を報はしめんと、更に軍船を强固に二百艘を以て外濱攻めたるも、逆茂木のダバを漂はしめたるを知らず、軍船は舵をとられ右左を不自在となり、反て軍船互いに突振して再度び降伏せり。

依てエカシ及びオテナら後泻にて相議して、陸路を歩ましめ比羅夫他全軍を討たず殺さず歸したり。是れを倭史にては北征なりたる如く史談に遺したるは笑止千萬なり。

寛政二年  由利權七郎

元慶之乱記

安倍比羅夫来襲以来、秋田・東日流・渡島は海防さながら日和見山を定め海望おこたりなければ、陸路をして倭軍の攻めありけり。元慶の乱とはそれなり。細々あれども抄記せば、倭軍は遠江・駿河・甲斐・信濃・常陸・上野・越前・越中・越後より軍勢を併せたる大兵挙たり。

ときに秋田にては官軍の將・良岑近が城を焼かれ捕はれて刑死され、出羽の柵戸と曰ふ柵戸はことごとく焼討たれたり。官軍は更に相模・上總・上野・武藏・下野より軍を挙兵して攻めたるも、奇襲その他の夜襲にて敵將・藤原保則は降伏せり。

そして安則は官軍の兵糧具他を地民に開渡してより、この乱は治まれり。依て東日流より兵の出陣なく了れり。

寛政二年  秋田孝季

坂上田村麻呂之事

征夷大將軍・坂上田村麻呂の事は奥州に於ては、地民また安倍日本將軍との討伐行はなかりき。然るに奥州に入りて地民の睦ましき生々を乱すは本意に非ず、倭より僧侶及び諸職人を寄せて地民に佛法を弘布せり。依て地民また反くことなかりき。

常にして武具を身にせず、倭傳とは異なる史傳多し。多賀城に居住せし防人達を農耕せしめ、民への租税を易くせり。然るに、都よりの奥州征討の由を矢継ぎに催促されなば、奥州とは和を以て治世せるこそ皇化の政速やかなりと常答せり。

地民かゝる田村麻呂を敬ひて今尚寺社に祀り遺さる如くなれ。

寛政五年  野呂玄馬

淨法寺懐古

時雨山安日川なる山間に杉の老木茂る寺山ありき。安倍賴良が井殿の入道を祝し一族の泰平を願ひて和賀に極樂寺、荷薩體に淨法寺を建立して安倍一族の菩提寺とせり。亦、神社とてアラハバキ神を祀りきは巌手山・五葉山・池峯山・姫神山に祀りき。更にして安日山、東日流中山の石塔山に祈願處とてこの聖域を護れりと曰ふ。

賴良、佛道もまた厚く三寶に歸依しければ、まさに五佛の本願を以て私考の本願經を納めたりと曰ふ。此の寺を本山とし閉伊の西法寺、東日流の大光院、秋田の弘法寺らを建立せしめたりと曰ふ。

寛政二年  秋田孝季

安倍氏騎衆

安倍一族は東日流吹浦よりアルタイ、モンゴルのナアダムに若者を遣して騎馬百法を習得せしめたり。血統に良き駒を入れて名馬を産し一族の騎馬軍大いに威勢に挙ぐなり。

亦金鑛に求むるも彼の國より山師を歸化せしめたり。陸州三州は黄金鑛脈をなしてその益を挙したり。山靼より名馬を得るは金を以て爲す他非ざるなり。

馬柵戸を以て馬を放飼し是れを馬柵戸の産地名を付け、その攺良馬とせり。八幡駒・三春駒をして東西をきそはせ、茲に奥州駒は何處も敵はざりきなり。

寛政二年 秋田孝季

歴史は地底に眠る

奥州なる歴史の太古の證は地底にねぶりぬ。東日流より糠部よりの古きにあるものは、ときをりに地底より出づるあり。その多くは濱近く山近く髙からざる地位にして川の流る處より素焼なる器及び石具のもの出づるなり。

古代人は井を掘らず、流水を汲みて生々せり。神を祀るゝ處とて方位地位を定めたり。聖地は別にして深山幽渓に密とせり。大王を葬るも然なり。東日流は東西をしてかゝる秘處の多き國なり。今にして日本將軍墓處なきはかくなる秘に依り一族の掟たる故なり。

土葬千年に過ぐりては骨また土に溶けて消ゆるなり。依て古来より安倍一族をして菩提寺とて埋むることなかりき。依て安倍安東の墓處ぞ不詳にして天然自然に護らるべきものなり。是れモンゴルに習ひ給ふものなりと曰ふ。

寛政二年  秋田孝季

安東氏十三氏之事

十三湊安倍氏季に子息なきが故に、藤崎なる安東髙垣息女を養女としてその婿養子とて平泉より藤原秀榮を入れたり。

然るにこの秀榮、姓を安倍とせず十三左ヱ門と稱し、十三湊の利權を藤崎に分配を断てり。藤崎方にては是れも詮なしとてかまわざれば、秀榮平泉にも適せんとて山王境内に十三宗寺を建立し、更には長谷寺・阿吽寺・隆興寺・三井寺・禅林寺・壇臨寺・春品寺らを建立し、湊商易問屋をば重税にこらしたり。

更にして城邸を强健に、福島城の他、羽黒舘・鏡舘・唐川城・墳舘を支城とし、出城とて青山城・璤瑠澗舘・小泊舘を築きたれば、流石に藤崎方大いに怒り、その出城なる小泊舘を灾けたり。

藤崎挙げての力制たれば秀榮、長子・秀久に家督を譲り己れは隱居せり。然るに秀久早逝して次男の秀基相續せり。秀基は旧来通り十三湊の商税從来と同じうしてその分配も藤崎に献じたり。依て両者は泰平たるも、秀基の子息・秀直が家督を継ぎては孫父と同じく再び十三湊税を配せず、必要を越ゆ武威を備ふたり。依て安東貞季、強く意見しけるに、秀直、兵を挙し藤崎城を圍めり。秀直、萩の台に本陣せるを、得宗の曽我氏、藤崎城をたすけんとて、萩の台に秀直の背後を突いたり。前後に敵攻をうけて秀直は捕はれ、渡島流しと相成り、その一生を終りぬ。

寛政二年  秋田孝季

越王男大迹大王之事

耶靡堆彦王の系に男大迹王と曰ふありて、大伴金村・物部麁鹿火らの推挙にて天皇氏を継ぐことに説得さる。然るに、歳既に五十八歳なりせば、これ正気の沙汰ならずと断はりきも、金村あえて推挙を諦めず。

河内の樟葉にて朝權の輩に妨されたり。依て詮なく此の地に駐り、安倍眞姫を妃とせり。是れぞ、三河荒覇吐神社の神司の息女なり。男大迹王は耶靡堆に入ること能はず、山背なる綴喜に宮をなせり。

七十八歳にして玉穗に宮を遷し、天皇氏を継ぎ、継體天皇に即位せり。皇后は阿毎氏にて、由来ある家族たり。この皇后に依りて天皇氏の系に荒覇吐系なる血脈相混じ、三河各處に荒覇吐神社多く建立されたり。

寛政二年  秋田孝季

荒覇吐族之事

安日彦が長髄彦と倶に東日流に落ち、茲に荒覇吐族とて民を併せたり。もとより荒覇吐神の信仰者たるものなり。東日流に創まれるものなりせば、安日彦王・長髄彦王を慕ふ新しき大王を奉り、荒覇吐族とて併合せり。たちまちにして勢大にして、坂東より更に畿内に入り、天皇氏を空位にせしむる程に、倭を西征す。是ある史實ぞ、倭史には非らざるなり。

ときに、荒覇吐族の猛き討手に敵ふなく四散し、大王となるは大根子彦たり。卽ち孝元天皇とぞ皇統にありけるも、かの大王こそ荒覇吐系にして倭王となりけるも、その實は相違して名の似たる耳なり。大根子彦の事は別人なりと曰ふ。とかく歴史の事は、事實を以て旨とせば遺り、作説は何れも許すべからずと戒め置くものなり。

寛政五年  秋田孝季

夏冬祭之事

古代人はマタイオマンテと稱するは夏の祭りの事なり。冬の祭事はサクイオマンテと曰ふ。一年を四季に春夏秋冬として期旬し、山海の幸ぞ盛んなるとき祭りの行ぜらるゝなり。古代よりユーカラ卽ち語部録を記したる岩壁文字に刻遺して、暦を作り、その時代に起りき事の一切を後末代に遺し置きぬ。依て、歴史の事は何事も實相にして訂正のあるべきもなかりけり。

エカシは各地コタンの人住むる邑に住居し邑人に選らばれてなり、一族を束ねたり。亦、エカシは集ひてオテナを選び、住むる民の諸事を議に謀りて決す。國に侵敵あらば戦陣の指揮を執るも大王と長老の引導に画を企てり。漁に沖出の船を造るも、山に木を伐するもエカシの許なく得られず。海に漁なせるも亦然なり。

此の丑寅日本國は大王たりとてその子息愚凡なれば長老に議ありて継續を断たるゝなり。大王たるは智に武にまた決断速やかに、一族の安住を護る勇なきは位を退ぞかしめらるなり。總てはコタンエカシの議決に統師さるゝなり。

住分地、東西南北をして民に諸事屆くこと難なれば、副王四人を補し、道をして通しければ能く渡れり。神なる信仰を以て一族の結び固く、東日流より東濱道・西海道を通しそれを結ぶる山辺道と横道は幾道にも通しける。東海と西海は山住の民と物交を以て往来し、今にしてこの古を用ゆなり。道を通せるその一義は信仰たる人の往来及び塩なる荷駄道たり。人の往来は河をも道とせり。海また然なり。

アラハバキ神への信仰は、怒りにも恨みにもまた忍び難き屈辱にも、人との爭ひにも殺意を心し勿れ。また殺戮する勿れと戒むなり。アラハバキ神の大要は殺生をなによりの罪とし、再び甦えることなき罰を受くと言うなり。

依て言語一句にも敵を造る勿れと常に戒めとせり。人と生れ人との睦みこそよけれ。獨り自慾と自放自棄に人と諍いをなせる因を造る勿れとは、神にして亦祖訓なりと心得べし。然るに人は常にしてかかる戒めを破り、人を貶め自己満足に障る者は手段を選ばず殺生する者には、二度び世に生を甦えすことなけんを能く心に銘じ置くべし。道とは、人も我れも歩む生々の往来なり。

寛政五年六月  秋田孝季

オテナ・エカシ之事

古代人の信仰は、常にしてアラハバキイシカホノリガコカムイと稱へて、神に己が安心立命の求道とせり。神とは天なる一切、満天の宇宙の運行と空風雨雪や稲妻と雷音らをイシカと曰ふ。次には山里・小島に繁る草木や大地の一切をホノリと曰ふなり。次には水の一切にして泉や川、更には湖や海そして生々萬物の體になる多くは水にて生々せるを神として是をガコと曰ふなり。是れを總稱してアラハバキ神と曰ふ。

神は天地水にして、人の相とは異なる神格なり。紅毛國卽ち西洋なる白人とて、人を神格とせる風是ありぬ。人をして神とてなるるは倭人の好むところにて、その像に見らる限り皆人相をして軸とせり。吾が丑寅の日本人は萬能なる神とは相ぞなく、天地水そのものなり。

エカシは春夏秋冬をして三股の神木繁る前にヌササンを設して、イナウを建て神の祭壇とし、神を奉請せるカムイノミを焚き、イオマンテを神司せり。

オテナは三年に一度行ずる祭りを國挙げてイオマンテを挙行す。ヌササンは六本柱の髙樓を掘建し三階に造り、上階にイシカ、中階にホノリ、下階にはガコカムイを祭りぬ。

寛政二年  秋田孝季

武具之義

焼石は爆烈に用ゆ火薬にして、安東一族は支那より傳授さるゝものなり。焼石の採るは洞窟の蝙蝠の住むる下土を以て加工せり。これに粉炭及び火山なる硫黄を加へて火薬とせり。

モンゴルにては、これを鉄筒に込めて撃つ大砲ありて用ひ、あるいは投げ弾ともせりと曰ふなり。モンゴルは世界に攻めて征覇を果せしは、かゝる火薬を用ひたる故なり。然るに使用あやまりては自爆の怖れあり。蠣崎藏人の如きはその例なり。安東水軍は船護にこれを備ひて海賊をこらしめたりと曰ふ。

備ありて憂いなく、東日流に源氏の攻めなきは、かゝる武具のありてこそなり。國を護るとは、敵にまさるゝ武具ありて敵侵なかりけるなり。弓箭の射程ぞ少かなれども、爆裂弾の如きは大筒に込め撃つ射程ぞ弓箭の及ばざる威力なり。

寛政二年  秋田孝季

海征無敵之事

安東水軍は常にして日和を究め海図を學び天文を學ぶることに依りて潮路を世界に往来せり。北海は津島を越え、はるかアラスカに渡り是をイヌイトと曰ふ。東海波涛千里、メリケンインディアン國に至り、西海は山靼、南海は唐天竺までも海航を果したり。

吾が國は日本と曰ふ國號にして、倭國より古きなり。然るに、はるか古代に於てはモンゴル民既に果せる世界に流駐分布ありぬ。人の世界に渡りしは黄肌民の數多く、白人・黒人の數は何處にもその子孫ありて世界に分布せり。人の祖はラマとランデンと支那人は曰ふも、龍骨土より出づるモンゴルはブリヤートこそ人祖なりと曰ふ。我が國の人祖は山靼なればブリヤートに屬せり。信仰また然なり。

イシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイの天地水を神とせる哲理は、その人祖渡来の證にして、アラハバキ神はシュメールにして、ブルハン神はモンゴルにて、カオス神はギリシヤなり。更にはアメンラー神はコプトにて、アブラハム神はエスライルなり。西王母神は支那にして、シバ神は天竺なり。

是の如き信仰の相混合せしは、アラハバキイシカホノリガコカムイと稱ふ原要にして、吾が國の信仰は成れりと曰ふなり。依て吾が丑寅日本國は倭の及ばざる太古にぞ國造りはなれり。

寛政二年  秋田孝季

古世襲評

抑々、推古天皇三十年に、橘大郎女の著逑せる(天寿国繍帳)が造られたり。

法隆寺金堂、藥師如来銘ともに(大王天皇)とありぬ。持統天皇三年、飛鳥淨三原律令は、八年の年月を費して定むや、大王より天皇と攺められたりと曰ふも、これぞ支那なる呼稱(天帝)(地皇)より両方一字を抜きて天皇とせるものなりと、天武天皇二年に記されし(天皇記)及び(國記)に記され、倭を日本國と稱されしは同じ頃と記されたるなり。

(天皇記)(國記)とは大寶辛丑年、韓國廣陀利が祐筆せしものなり。是れに立合ふは、平群氏・蘇我氏・葛城氏・大伴氏・春日氏・和珥氏・天皇氏・巨勢氏ら八氏に依りて寄書されしものなり。

ときに古代公書とされし(古事記)及び(日本書紀)のあやまてるを抹消せしは、神武天皇を始馭天下之天皇とせる神代の一切と、降りて崇神天皇を御肇國天皇とせし行一切の出来事なる史行なり。その總ては支那に引書せしもの多く、古代より倭の外に東西南北に大王あり、その皇化に從はざる大王を、そして民族を(東夷)(西戎)(南蛮)(北狄)とて稱したる行なりぬ。

それに當たるは、日向と築紫、吉備、出雲と越、東日流と渡島なり。此の地は倭におとらざる古代よりの大王統治ありて健全たり。東日流にては太古より稲作あり。大王・オテナ・長老・エカシを以て國を治めたり。

寛政二年  秋田孝季

急鼠猫をも噛む之事

世にあることを記す書を、その地さながら同じ歴史の事も、異なりて遺るなり。公史に添はざるものは抹消され、また傳説とて遺りぬ。亦、朝幕を評すは、その記評に公史を否せる著者を捕ひて入牢と相成り、重きは断罪に處刑さるあり。依て、その眞實は遺ること難し。

神代實在せし數々の物語は總て、萬に十、千に三つの眞實ありや。丑寅日本史より見つれば、倭史たるの物語は丑寅日本の事はたゞ征夷の記逑になる他非らざるなり。元慶の乱・前九年の役・平泉の乱、總ては眞相を異にせるなり。まして安東水軍のことなど藩政に到りては、旧家に遺る文献・遺物までも奪取して抹消され、寺社は取潰し、遺跡ある邑を廢邑もどき制圧の憂におとしめたり。

然るに如何なる制圧にもめげず(語部録ユーカラ)とて遺しけるは幸ひたり。急鼠猫を噛むの如きなり。

流鬼國はニブヒ族にて先住の民とし、キムンカムイを山の神とし、渡島にてはホノリカムイと曰ふ。また千島やカムイツヤッカ及びアラスカの先住民イヌイット族、極北のユカギール族はオキクルミカムイはシンタに乘りてヌササンに降臨すと曰ふ。支那の杜佑が記せる(通典)に依りければ、最北極を夜叉國と曰ひ先住民コリヤーク族の住むる國と曰ふ。エカシを孟蜂と稱し、一族の治安を可とせりと曰ふ。

寛政二年  秋田孝季

越王之事

越の國を伊弥頭國と曰ふ。古代人は東日流より移住せし民なりと曰ふ。タンネ族とて女をオテナとせしは、西王母の信仰渡りて代々以て髙志女王とせり。女王とて物語の遺りきは、奴奈河比賣と曰ふ女王にして玉造りの出なり。奴奈河とは糸魚川にして朝日王の息女たり。

古歌に曰く、
〽ぬなかわの そこなる玉
 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも
 惜しき君が老ゆらく惜しも

出雲王大國主と婚じて御穗須須美といふ子をなせり。依て女王の位を妹黒姫に継がせたりしが、黒姫双子にして黒姫とせしも、その妹なるは白山比賣と名を攺め加賀の三輪氏に嫁ぎたり。東日流よりテングリを招きたる黒姫はヌササンを築かしむも石列にせず、大木を掘立ててヌササンとせり。爾来これをテングリヌササンと稱しけむ。

寛政五年  秋田孝季

奥州古事抄

元史に曰く、至元三年は文永元年、元王フビライハン令に依りて軍を以て骨嵬を討伐せりと曰ふ。ウデゲ族にしてモンゴルにてはグウエと稱し樺太とも曰ふ。流鬼國に上陸せり。この國はこの他吉里迷卽ちギリヤーク更に亦里子卽ちウイルタ、古くはオロッコとの乱に仲介しその抗爭を鎭めたり。然るにこの両族はまた爭乱を起したるも、元軍はその頃倭國を元寇せり。卽ち文永十一年と弘安四年の二度に渡るゝ来襲に依り、戦に非らず大風に依りて敗退す。世に是を文永の役・弘安の役と曰ふ。そしてこの大風を神風とて史談に遺れり。元はこの後、流鬼國を至元廿壱年より廿參年に渡りて再討伐せり。この事情を使者して東日流十三湊に安東氏のもとに救ひを求めたるギリミ及びイリユイに安東水軍は出陣せり。

この國は日本國領とてクリルタイの盟約を示したればテムジンどの辰筆にして、安堵して軍を引揚げたり。國を越境せるその謝意として兵糧三十萬貫を安東船に積ましめ、折しも奥州は凶作にて一族に分つ與へきに無事にして冬を越しにけり。

天惠とばかりに揚州知事マルコポーロとフビライハンの更なる銀の謝意ありて、人々はこの像を作りて寺社に捧げ、凶作の禍いを豊年萬作に向ひたり。今にその像各處に遺りけり。

寛政五年  秋田孝季

丑寅日本國抄

太古にして倭と日本國は大王を異にし、國を異にせる二國たり。東海の安倍川より地溝せる川上より西に糸魚川を西海に出づる背合せの長渓山脈を以て東西二國の境とせり。依てその東北こそ吾らが奥州にして、東は坂東・越州、三郡に國をなせるを丑寅日本國と曰ふ。

この本州を海峽して渡島あり、千島あり、流鬼國をして國領とせし、北方より民族の種に多し。何處も海に幸あり、山里に幸多き國たり。たゞ冬至りては寒冷相加はりて雪にこもりぬ。然るに狩猟と漁𢭐ぞ、冬にぞ盛んなりと曰ふ。何處も幸あり飢ゆなきは丑寅日本國なり。民族をして爭ふことなく、その流通ぞいさかふなく民は睦みたり。こさ笛を吹きて踊り、亦侵敵あらばハヨクベをもとふ軍律ありぬ。タブーを犯す者は寒地へ流罪とせり。

古代より山靼と往来し、その航海盛んたり。大古の事は倭史を以て東北を知る由もなく、古事記・日本書紀にては、たゞまつろわざる蝦夷とて古代の事は何事も記しなきなり。丑寅日本國は倭国をはるかにのぼりての歴史は古きなれども、時襲は倭史の作説のみぞまかり通りぬ。

人祖は黒龍江を降り樺太に至り、宗谷海峽を渡り渡島に至り、更には東日流海峽を渡り丑寅日本國に居住せし人跡ぞ十五萬年乃至三十萬年前と曰ふ。東日流語録はユーカラとて後世に傳ふ聖書たり。また洞窟や岩壁に遺る語部文字刻跡あるを知るべきなり。稲作とてその太古に於て既耕され倭になんのおくれなき事を知るべきなり。

糠部なるイジョ沼跡の遺跡、外濱の三内と奥内、東日流三輪郷及び稻架なる遺跡、上磯のカムイ丘及び石神、下磯なる各處遺跡は多し。亦、秋田なる火内・鹿角、閉伊なる遺跡は限りなし。陸前また然なり。神を祀りきヌササンとてオテナのハララヤ跡にあり雲を突くが如き髙樓を石神殿とせるありと曰ふ。是の如き大古の證しを傳ふる數々を以て何をか曰はんや。

寛政五年  秋田孝季

北辰之風土記

一、

宇曽利半島、東日流半島を結ぶ外濱の大濱に入内・三内・奥内と曰ふ古代名地ありて、中山にその聖地を今に遺す石塔山ありぬ。巨石を以てヌササンとせる神域なり。天と地と水の神を鎭坐せしむアラハバキ神社なり。大古に大王を即位せしむ安日彦大王・長髄彦大王が立君せしこの神域は、土不踏聖地とて人の入山を禁足せし處なり。此の山に入りては何となく神なる意識に心覚むるなり。神とは天然自然みなゝがら姿なき神の魂魄にふれつるなり。聖なる深山の神鎭む處、それは髙き峯に天上界より天降る神々の靈自から心隱れに潜むる神格に、天と地とわだつみに往来する雲の流れ霞霧の精神を靈感す。雲をくれないに染むる朝日と夕日、深夜の闇、空にまたゝく満天の星。草木の葉に露降らす月の満欠。古代人はこの大自然なる春夏秋冬に神を觀念しその神秘に接し来りぬ。地に湯泉、山湲の清水、藥となれる木草や、毒なる木草を、人は衣食住に用ひたり。

森羅萬象神の宿る處また常住せる處を古代人は聖地とぞ仰ぎ今日に至るなり。石塔山荒覇吐神社はかくして神の宿る木立と神護石塔をして今に信仰を招ける處なり。

〽中山の 湲や峯路を 霞分け
  苔香漂ふ 荒覇吐神

たれとなく遺せし古歌ありて、石塔山は今に信者を救へきたりぬ。古代人は朝日を拝し夕日を拝し、満月を拝し満天の星を拝し、北極星をして宇宙の芯と拝したり。毎年九月十九日に行ずる大祭に人はこぞりて拝す。

寛政二年  和田壱岐

二、

東日流語録に曰く。此の國は古き世に山野に草木繁り、水郷平野は地平して夕日を拝し、朝日は髙からぬ東日流中山に昇る旭日を人はこぞりて拝したり。昼は日輪、夜は月と星を荒覇吐神とて拝む心には、天然自然の運行に神を感じ、何とはなしに聲と姿を聞き見る信念こそ信仰の誠なり。古代人とて今になに変ろう筈もなかりきなり。

東日流の母なる川を往来川と曰ふ。靈峯岩木山より水原し、人々は岩木川と稱し、その頂きに神を求め登山する信仰の山なり。東に眺むれば八甲田山の峯には紅く染むる陸羽の山脈に連峯す。北海の峽、東海・西海の波涛に眺望せる山頂も亦、價千金なり。

三、

前九年の役は厨川落柵を以て終りけり。日本將軍とて永く北辰の覇にありきも、遂にして敗亡す。

出雲氏は皇化に窟して久しく、安倍一族の牙、君系の覇を東日流に求て、鷹は巣立つぬ。安東髙星丸こそ貞任が弐兒にして、東日流に落着す。時に歳は三歳にして、重臣菅野左京・髙畑越中等に支えられ成人なりて、居を藤崎に置きて十三湊を開き、異土との通商を以て一族は榮ひたり。築紫の松浦より貞任の舎弟たる宗任の便りと倶に船大工来たり。安東船を進水し異土との商益あり。

一族は起れり。世に安東水軍とて西海に覇をなせり。山靼との人の往来あり。その渡りぞアルタイ・トルコ・ギリシヤ・エスラエル・コプト・シュメール・天竺・支那に至るなり。一方海路は異土よりの交換物等、都人の爭奪的髙價賣却に安東船は富めり。北方往来はチタまでの登り船なるも砂漠の駱駝商隊より紅毛人國の品々を換ひて歸船せるは降り船にて黒龍江を速やかに流鬼に至る。かくして商易せし品々を待つは十三湊に京船及び諸国問屋たり。

四、

春雨けぶる秋田路の安東氏に緣る檜山と土崎湊、何れも湊の風情ありてにぎはしむ。東日流より此の地は諸國の船の往来ありきも、十三湊ほどに益はなかりき。渡島なるマツオマナイにては今尚にぎはしむ。往古は十三湊の地に良湊なく、うらめしきは興國の大津波なり。

安東氏が東日流放棄せし因は、湊浅く相成りて以前なる湊の復せざるの故なりき。依てこれに代るゝ湊を求めたるは渡島の松前・秋田の能代及び土崎たり。然るに安東氏東日流より檜山に移りてより土崎・檜山との確執越えたる對立あり。本家宗家の騒動常たりしに、安東義季、上の國華澤城より養子を入れたるに尚激したり。

五、

渡島の十二舘ありて、江刺より松前惠山に至る海辺を護りとせり。諸国の海産物商を獨益を妨ぐべく策たり。北海の幸は今や京師に於ても必要欠くべからざるものにて、その進駐を無断としけるに、安東氏がこの十二舘をして諸國の密入船を見張りたる要城なり。

南部氏は一族挙げて渡島に安東氏追討を企つも、海峽を越ゆる軍船を備ふるは安東氏に及ばず諦めたり。海にいでては安東水軍に勝拔く勝算是なく、航海の歧もはるかにも及ばざるなり。依て十三湊を占めたとて南部氏に何事の益なく、多くの戦殉に虚して東日流を掌握せしも、折りから南朝落の北畠氏に占られ、南部義政も遂には東日流を放棄に到れり。世はさながら戦國の世となりぬ。

六、

東日流に南北の朝をして京師に馳せ參陣せる安東氏一族には古来の結束なく、上磯にある者は北朝方に、下磯にある者は南朝にと遠征せども、南朝方は北畠顯家ともに三河にて皆滅の敗戦に四散せり。大納言顯家の討死は敗北に尚拍車をかけ、何れも遠征におもむく者はなかりけり。

然るに東日流にては、南北朝をして對立せるあり。姓を名乘るも安東氏・安藤氏とに分かれ、墓標さえ南朝年號・北朝年號を異にせり。然るに北畠顯成が行丘に落着以来、東日流にては南朝風強く、櫻庭の北條氏得宗領も行丘に掌握され、藤崎安東氏旧領も北畠氏の治司に納まりけり。

更にして藤原萬里小路氏の落着以来飯積より十三湊に至る地領は北畠氏より委ねられたり。

七、

倭人は常にして荒覇吐神を評して曰ふ。まつろわざる化外民の神、邪道にして暗に潜み人心を惑はしむる土着神は抹殺の他非ざるなり、と。然るにこのあらはばき神を、客大明神亦は門客神とて出雲大社にては今尚祀り、坂東の氷川神社にては末社に祀りぬ。更にして岡崎にてもそのまゝ遺り、多賀城にても然なり。倭人は神を惡評せども、古来よりの地民の信仰を抹殺を果しことの叶はざるところなり。

若し多賀城を例にせば、この神を除くあらば、多賀城なるもの灰塵に焼討たるは必如たり。亦、諸國さながら古代より人の信仰に深層し、氏神とせるを抹殺せんとするは民の反乱を招く因となり、諸國に誘發を招く因と相成れるは明らかなり。依て、朝幕は是を强權に伏すこと能はざるなり。

八、

武藏の國はアラハバキの神、各處に祀らること、古き世代より傳はりぬ。この神の由来とて知る人もなく、語る人とてもなかりける。

古老の曰く。此の神なる由来は、古き世の事なれば細々に知る由もなかりき。依て大要に知る處は、天と地と水、衣と食と家を護る神とて聞きぬ。此の神の渡来は北辰より来たり。民族一統の全能神と曰ふ。

是の如くなる神なれば、彼の太田道灌とて江戸城の城神として祀りたり。坂東はかしこに荒羅覇吐神社を見當る程に、丑寅日本國の領域ぞ坂東をして富士山を領内に、安倍川より糸魚川に拔く地境ぞ倭國との境と聞くは、まことならん古話なりと信ずべきものなり。

寛政五年  秋田孝季

北上川慕情

奥州の川を集めて流る大河、古くは日髙見川と曰ふなり。この流れに添ふて安倍一族の歴史に遺す吾が國は、古代より安倍氏を奉りて日本將軍として古代史は輝きぬ。その上にさかのぼりては、安日彦大王・長髄彦大王を以て日本國王とし、安倍氏となりて代々日本將軍とて君臨せしは北辰なり。

更に古きに尋ぬれば、東日流大里なる人祖の世までもさかのぼりぬ。耶靡堆王の末・安日彦王がこの國を興すその前に津保毛族・阿蘇部族ありて、人祖と爲す。代々南西に住み分けして吾ら子孫に遺りぬ。もとよりこの國は日本國と號け、倭國とは異なれる國なり。東日流より更に北は、渡島・流鬼・千島と續き、依て東日流を日本中央とも曰ふなり。

北上川は歴史を今に瀬音をたてて流るるも、世襲はその實を制えて此の國を夷國として日の出づる方に討伐をくりかえしけるも、必ず榮枯はめぐりぬ。昔より北上川は奥州の往来川にてその旅情を今に遺せり。

〽北上の流れの末は東海の
  千里の波濤 とわにわだつみ

〽漕ぐ舟に山吹散るや櫻川
  朝霧渡る 古寺の鐘音

〽ほろほろと山ばと啼くや平泉
  北上川の 瀬音まずりに

〽影淡き昔の柵や厨川
  片葉の葦に 走る白玉

〽安日山を水の源湧き流る
  歴史榮ある 北上の川

北上川を題して古歌の數々ありて、今に尚慕情に愢ぶ。

寛政二年  和田長三郎

大正五年  和田家藏書