東日流外三郡誌 第三百六十二巻

注言

此の書は他見無用、門外不出とせよ。

寛政二年  秋田孝季

古事之書集

一、

山中に於て苔草に埋もれ、社堂朽落ちて参ずる人とてなく、今や歴史の彼方にぞ消えんとす。此の社は古事を尋ぬれば、安日彦王・長髄彦王の国造りに建立せし古社にして、人の参詣多かりしも、藩令に以て崇拝禁足されし社と曰ふなり。依て今は廢處と相成り、復古の社造神は邪神故に再拝再興の段まかり相成らず、と曰ふ始末にて今は只朽しまゝなりと曰ふ。かくある荒覇吐神社かしこに存在せり。寺社奉行に再願せど、公にして神社帳に除かれしものとて聞き屆くなし。詮なく此の地を後髪ぞ引かる思ひにて立脚せども、未だに心残るなり。かゝる断圧を脱せる道は、旧神攺め倭神とせしか、亦社名替稱の他非らざるなり。

依て、荒覇吐神を攝社亦は末社として本殿より外にいだすをかまわずとてそれに習う多し。更には、神名攺稱ありて門神・客神・客大明神とて祀るをかまはずと曰ふも、外にいだすを條件たり。次には社稱攺めありぬ。荒神堂・荒磯神社など、亦仮名にてあらはばき神社と曰ふは赦されたり。然るに是れキリシタンの如く強行なかりければ、勇ある信者・氏講は古代のまゝに祭行せるなり。渡島・外浜・閉伊・多賀城・坂東・三河など今にかわらねども、字を當外したる多し。荒脛巾・荒羽々岐の如く荒覇吐と書けるはなかりき。然るに祭文は何處も同じく稱したりと曰ふ。

寛政五年  和田壱岐

二、

安倍一族が城柵を築くはすべて掘建にして、柱を角材に木挽きせることなかりき。木挽きせる敷板のみにて質素たり。柵を廻し、一重乃至三重なり。四方に櫓あり。本陣の城棟に階を造らず、兵舎は厩と曲屋に造りぬ。城邸、樹木を伐せず、城棟を隱せり。城築の條は、川辺亦は海辺に地形を以て要害とせり。山地の城は、湧水あるを先として難攻にして弓箭の射程をとどかざる高台に築きて、城棟視界に入らざる樹木の繁るまゝなりて外柵の見ゆのみなり。何れも秘道ありて危急に脱するを旨とせり。誘敵の矢倉をかしこに造りて、囮兵を以て撃滅す。

安倍一族は、城を枕に死すの觀念なく、敗ると見ては退き、勝と心算ありては猛攻せり。敵侵ありの報は、八方に草隱れの者を放って鳩傳に知りぬ。戦起るとなりては、先づ領民を移しめ、一粒の糧も遺さず、安住の郷に老人・女子・童・病人を住はしむなり。若き者は、兵となりて安倍軍陣に馳せ参ぜり。是不断の心意たりと曰ふ。安倍一族はかゝる城柵をかしこに築き、退くと決しては手火を放って焼却せり。

寛政二年  秋田孝季

三、

常にして安倍一族は駒を飼はせ、敵侵に備ひたり。亦、民の冬仕事として鞍造り・矢造り・弓造り・ハヨクベ卽ち皮鎧を造らしめたり。亦、寒中にしてボルツを造りぬ。ボルツとは、寒中に牛肉を干しそれを臼にて突きこなし牛の胃袋に詰込む兵糧にして、一人は一袋を以て一年の食を保つと曰ふ。牛一頭一袋にして、これを塩湯にひたし喰ふものなり。是れ、モンゴルよりの傳授たり。

寛政二年  秋田孝季

四、

抑々戦起りては、不断にしてたくわいあり。塩玉・いり豆・干菜・干魚・焼酎・薬草・傷薬・持鍋なり。夜具は犬毛皮を併せしもの、亦夜営あらばハツポパヲとて、山靼傳の仮家と相成りぬ。造りも解くも一刻をしてなり、一軒に十人の寝起ぞ可なり。これ、冬期にても用ゆなりと曰ふ。

戦陣にてはツト飯とて、塩と飯と干魚たり。酒は陣中に禁ぜり。まして弓引きの者は固き戒にありぬ。常に刀を手入れしむるは先とす。迫は逆茂木にて閉ぐべし。弓に折れ傷あるは捨つるべし。薙刀の柄また然りなり。常に鞍の下帶〆を心せむべし。馬脚傷ある駒は喰ふべし。狼火を以て援軍を集むは敵視に達す、依て鳩を用ふべし。敵手にあるべき地の橋は落し、道に大木を仆し、敵進をはばむべし。

寛政二年  秋田孝季

五、

囮兵は小數にして、大勢とせんからくり音呼合ひ、敵を誘ふべし。旗差し物をいたる處に建つべき策もよろしけれ。囮兵は戦に應戦せず、常に適地に侵入して、敵馬を毒殺し、亦兵糧に食せざるの害を仕込むべし。亦、敵動ずる灾もよしとす。たまさかに敵將を暗殺せるも功名たり。暗隱れ・木隱れに敵情を探るもよろしきなり。敵急動あれば、歸陣せよ。常にして敵の急使を捕ふて、白情せむ旨を信ぜず、放して後、跡を追ふべし。然しては眞相知りぬ。戦の明暗は、敵の企を先讀て定まれるなり。

寛政二年  秋田孝季

六、

鹿角弓を用ふるは安倍軍なり。弓身みじかく、射程遠し。モンゴル弓なり。また手持三本の投鉾あり、能く當り必殺たり。ハヨクベは軽く、敵矢を通さず、皮の持楯は刀刃を防ぎ、仮面は敵を威圧せり。緑面・赤面・黒面・白面ありて戦法の役目あり。戦陣の太鼓・法羅貝・銅鑼の音は味方をば鼓舞せり。夜襲は松明をかざし、長刀を用ゆ。一挙に火を消し敵を眠らせず、朝攻めに敵はひるむをモンゴル弓箭はうなれり。かくある戦法は安倍氏の意中とせる破邪の誅滅戦たり。

戦陣にては逆茂木垣と楯垣をめぐらし、馬足取りとてイドシ卽ち落穴を犬股に掘り置き、敵襲を完全に妨ぎけり。この落穴にかゝりて生者馬もとろもに串刺したり。かゝるからくりを、知らるは清原氏の反忠によりけり。かくして安倍氏は囮兵の者を兵糧輸搬の道に落石して道を閉ぎ、秋田犬をけしかけ馬を襲はしむに、前先の兵は飢え逐電せるもの多く、源氏は軍を退くこと暫々たり。かくして前九年の役は長期戦となりにけるなり。

寛政二年  秋田孝季

七、

抑々、吾が丑寅の古事にかゝはる事の申すは、アソベ族・ツボケ族のユーカラ、卽ち語部録に知りけん。東日流の地は日本中央にして成るゝは、北方に渡島・千島・流鬼島を領土の固定あり、民族餘多を併合し荒覇吐族とせしにや、東日流を日本中央とせり。此の国は、倭の先に日本国とて国號せし国なり。シャモ卽ち倭人は、たゞ武威を以てのみ平征し多くの人命を下敷きて泰平とするは、神の御心卽ち平等なる天秤を狂はせしものなり。

倭の西南、流球国にても、ヤマトンチュウとは倭人にしてたゞ征討に以て他民族の意趣深く、自得の賦貢のみを以て泰平至ると曰ふなり。これぞ邪政なり、鬼道なり。

寛政二年  秋田孝季

八、

吾が丑寅日本国は、まつろわぬ化外の民・蝦夷が住む国とて倭史に遺りぬ。倭の国は神代より萬世一系の天皇が統卆しける国にて、天皇の皇祖は天津神・国津神々にして、高天原より日向の高千穗の峰に降臨せし神の皇孫と曰ふなり。されば、吾が丑寅日本国はいかなる人祖にあるべき国なるか尋ぬるに、神を祖とせる記行ぞ一行だに非らざるなり。人祖の渡来は山靼にして、山靼とは国廣くして紅毛人国に達せりと曰ふ。

人の祖は、その国の南にて立歩く猿猴に似たるものにして、世界に分布せしものなりと曰ふ。人となれるはシュメールの国にて、衣を織り、食を耕作し、葦を束ねたるマデフに住み、文字を作り、暦を作り、ルガルを祀る神殿を作り、童より学を修め行を習はしむ。国を造り大王を国主と立つるは、シュメール国人たりと説く。此の国に乱起り、民は故地を捨て、砂漠を越えてシキタイの果なき草生ゆ地平廣きアルタイに住み、馬を馴らし牛を馴らし羊を馴らして生々し、更にモンゴルに天地を求め、神なるブルハン湖より黒水に流れ下り、流鬼国にたどり、更に日髙に渡り、東日流に渡来して永住せしは、吾等が人祖と曰ふなり。

東日流の西南に住む民をアソベ族、東北に住むをツボケ族と曰ふなり。永き歳月をして両族相混血して国を建つるに至れり。国王をオテナ、長老をエカシと選び、事を傳ふる文字を用い、更にはユーカラ卽ち語部録を末代に遺すことと相成り、年々歳々世にある事を遺しけるなり。依て一行の記になる僞はなかりけり。亦神たるの信仰に於て、迷信のあるべからず、神をして人格神に造らず、天なる一切卽ち宇宙の創めより満天の星や日輪の運行を神聖なるイシカの神とし、大地の一切をホノリ、水の一切をガコと神聖せり。依て人格神は元より存在せざるなり。天然・自然を神格して、神と信仰は成れるなり。亦民族に継を深め、睦をなせるも信仰たり。その唱題に曰く、
イシカホノリガコカムイ
これだけなる稱へにて安心立命とし、子の誕生に、亦人の葬儀にもかたくなに信仰を確立せり。まさに天地水の哲理を信仰とせしは、倭国の信仰神話とは根本より異なれり。更にこの国を日本国とせしは、まさに古代丑寅民こそ現代に相通ずるの智覚たり。能く想ふべし。吾等が北人は何事ありて蝦夷たるや。

寛政二年  秋田孝季

九、

神を祀るは陰と陽ありて、その神事行程は異なりぬ。天の神を請招せる處、及び大地の神・水の神を請招せる祭壇と置石に大いなる意趣ありぬ。卽ち天には日輪の黄道と赤道あり、宇宙また軸轉ありと曰ふ。古代人はかく運行を見取りて星座を知りて名付けたり。春夏秋冬にめぐる星の軌道、日輪の軌道に変らぬ北極星を地軸とし、日輪を芯に廻天せる地界・月界に依りて、海潮の満干を古代人は既覚せり。カルデア人の血を引く吾らの智識、自からそなはりてこそ、吾が東北民の住める跡ぞ巨大なる人跡ありぬ。智識の故に古代稲作あり、またハララヤ跡ありき。

抑々、奥州の信仰は天然・自然を能く、季節にある草木の芽吹き・開花と結實に依りて、自然の吉凶を知りにけり。また天喜年間の爆烈せる星の更に以前なる星の爆烈を語部録に記あるを見讀せるに、古代より宇宙をよく見上げたる民はツボケ族はもとより、その前なるアソベ族の代より受け継がれたる天文の智識なりと想ふなり。のぼりての世を神代とて夢幻夢想にせざるは、丑寅日本国の民が記せし歴史の要たり。

寛政二年  秋田孝季

十、

凡そ丑寅日本国は国の創めより、宇宙に地界にそして海に、神として求むる根元の由は、人たるの一生を通じ覚りたる總てを子孫に遺すべく哲理たり。たゞ神とてその由を閉さず、常にして知るべきを知り眞實を子孫に遺すこそ、人とし生れたる道とぞ究めたりと思ふるなり。日輪そして宇宙と限りなき天文の見解は大宇宙も廻転すと曰ふなり。その一週せるは二億五千萬年に一回天せりと曰ふ。何をか以てかくの積算に求めたるか知らねども、語印に曰はしむれば、想像に非らず宇宙の法則と曰ふなり。その法則とは独り吾れ思ふに、宇宙は古より星間を廣げゆく積算ありと曰ふも、その積算とは太古より月は地映に遠のけりと曰ふ例ありければ、是れ總ては西洋の紅毛人なる博士の言と曰ふなり。

寛政二年  秋田孝季

十一、

いかなる僧とても法難ありて、一宗を開山せし高僧とて流罪の憂えを被るありき。日蓮・法然・親鸞の如く末代に一宗を遺したるも、その法に安然たるの證なし。求道、宗をして佛陀の眞理に近遠非らず。何れも佛陀の解脱・覚りの法なりせば、宗をして安心立命の近道なかりけり。

信仰とは、生々の者をして孤独にならず、睦みの友をして和の絆を保つが故にありきと曰ふ。荒覇吐神の信仰には、佛法の如く因果に縁るを以て説法はなかりけり。神は、たゞ無我の境に入り祈る他非らざるなり。祈りこそ神への誠にして、一心不乱に稱名を唱ふ神への祈りに救済は叶ふなりと曰ふ。古代人は能く山に入り、瀧水に身を清め、六根を清淨し、聖地の方に向ひて稱ふは、アラハバキイシカホノリガコカムイとぞ稱題す。

寛政二年  秋田孝季

十二、

中山に耶靡臺城ありて、延々たる石垣ありぬ。空沼より道あれど獸物道に等しく、今は知る人もなく原生林に閉す。外浜に旭日を拝すあたり飛鳥山あり、降りては外浜に出づるも、その城跡を見ること能はざるなり。依て、後泻より登りては摺鉢城あり。潮方氏卽ち安東政季の城邸ありきも、時代に合はず。耶靡臺城の處在まぼろしなるも、奥深く大藏山の麓に石垣のあるを聞きけるに、尋ぬれば、濠道や石垣のあるを見付たるも、古書に遺る星型の城跡いかな見當る由なし。

寛政二年  和田長三郎

十三、

外浜を大浜・安泻とめぐり、かしこに古代の遺跡ぞありけるなり。亦、行丘・稲架・大根子・三輪・鼻輪・中山・妙土・床前・神威丘・十三をして土中より古器多く出づるも、これみな荒覇吐神に縁るる古事跡なり。宇曽利・糠部・戸来も亦古事多し。東日流中山・糠部の名久井岳、ともに太古を秘む聖地なり。

寛政二年  秋田孝季

東日流及国末之古史

渡島より人の往来に近きは大間なり。亦、マツオマナイよりは東日流十三湊に往来せるは常にして多し。古き世にツボケ族は大間に、アソベ族は十三に渡り着きたりと曰ふ。ツボケ族の象印は・の印にて、アソベ族の象印は・の印なり。依て着衣にこの印を織りなしけると曰ふ。亦、髪の結ひをせるはツボケ族にして、せざるはアソベ族と曰ふなり。両族の同じなるは言語たり。依て、この両族併合せるも易きたり。語部文字なる類八種になるも両族各々持印あるが故なり。両族互に神あり、ニブヒメニコカムイはツボケ族にして、アソベ族はオキクルミカムイなり。両族の他この二半島に渡来せる民は種族異にせども、世の過ぎゆくにつれて来る民族にイヌイット族・ニブヒ族・クリル族・サンタン族、ウデゲ族・ツングース族・オロッコ族・ブリヤート族ら来たりて併合しければ、神や信仰・衣食住にも風土に適せるものに一統しけるなり。

先づ神をしてエカシら集ひて談議に決せるは、古来山靼になる神、天の一切イシカ・大地の一切ホノリ・水の一切ガコを一神として、アラハバキ神とて祀りけり。神の司をテングリとして、テングリはゴミソ・イタコ・オシラと曰ふ祈禱師・靈媒巫女・占師を從ひてコタンをめぐり、住人のやすらぎとなりぬ。彼らは醫術をも心得て病にあるものを救ひたり。亦民自からも祖々傳来の薬法を知りて治せり。山靼と往来せるに至るは、この薬科をしての往来を可能にせしむなり。何れも干物にして永年保つ易き薬科たり。例に挙ぐれば、湯華・薬草・海獸膽・陸獸膽・海草・干魚・貝らなり。更には毛皮及び鷹や鷲羽根の他、干肉と金物なり。是らを求め、遠くはアラビヤ・ギリシア・シキタイ・トルコ・コプト・シュメールの商隊駱駝の群ぞ、黒龍江河岸のチタに来たりと曰ふ。依て古代よりその流通あり。此のチタなる處に往来せしは、併合なる民族の可能とせる往来たりと曰ふ。渡島及び千島・樺太島に地産・海産の品多く、この往来は安東船代に益々盛んたりと曰ふなり。

右は、フゴツペ窟に刻まれし語印ユーカラに依れる歴史傳なり。更には、東日流語部録なり。この語り印は北方諸族に相通ぜしものにして、古代の事は語部の傳にその眞實をして今に遺りぬ。これぞ倭史を拔く古書たるものなり。

寛政二年八月  秋田孝季

外三郡誌之要

本巻を以て三百六十二巻なり。何れも古傳の聞書、亦古書文献に依れる多し。外三郡誌の要は、永きに渡る蝦夷意識になる朝幕藩の奥州史觀や渡島・千島・樺太島の蝦夷たるの下賎に見下したるに、倭史のあやまてるを世に遺さんとて綴りたるものなり。老令つくして書筆見えざれども、永きに渡りては、手探りにても書けるなり。依て乱筆・抜字・誤字の段、赦るさるべく申添ふなり。古き書は今世に讀み難ければ、時代の新しきに乘じて解書せしものなり。本書は明治四十二年に記したるものなれど、行文いささか訂正ありて再書せしものなり。右、老婆心乍ら如件。

大正四年三月  和田末吉

自評

丑寅の史に何ぞ僞ぞあるべからず。古に登りての世こそ、明々白々なり。筆とりて八十年を悔なき歳月なり。老令盡して目・耳ぞ遠く自在ならず。亦家業に多忙たれば、よしがもなきびんぼう暮し、いかでか志未だ去らず、筆置捨て難きなり。先づは此の一巻をして末代の君に遺したる旨能く心に留め、世襲至らば世にいだすべし。

和田末吉
大正四年 和田家藏書