断片史料集13

東日流大要史抄

天なる神イシカ、地なるホノリ、水なるガコを神とせるは、荒覇吐神より幾千年前に創まりたる神なり。

イシカカムイとは、大宇宙にして天の總てなり。即ち、星々の星雲と陽星と陰星及び風雲・寒暖・氷雪・雷電・稲妻らなり。ホノリカムイとは、大地の總てなり。生々萬物みなながら山川草木(※この一行、判読不能)
噴火・地震・津浪・洪水・龍巻・起火・金銀銅鉄をも神とせり。ガコカムイとは、水の一切にして、生命を育む聖なるものとせり。

抑々、神を三神にせるも、その修理固成せるは荒覇吐神にして、後世なる耶靡堆國より住着せし安日彦王より創りぬ。亦は、役小角行者が津輕に太寶辛丑年に来着せしより、地神と行者が感得せし、本地金剛不壊摩訶如来・垂地金剛藏王權現を、荒覇吐神に奉り大本地とせり。

西王母・東王父を父母神として、女媧・伏羲を萬物生命の創造せし神として、是を法喜菩薩・孔雀明王を當てたり。是を修理固成なして天地金剛不壊摩訶如来とし、金剛界・胎藏界の法報應三身も即一身と修成せり。

然るにや、津輕にては永きに渡りてイシカホノリガコカムイを稱名して今に絶む無し。稲架大里より根子彦王、耶靡堆に渡りて孝元天皇と即位して、荒覇吐神、倭國百八十國に渡りて崇まるも、後世たる白木國の崇神天皇に依りて廢さる。然るにや、金銀銅鉄の鑄鑛せし處にして、その崇拝を絶む無ければ、倭朝挙げて是を禁圧せり。銅を神器とせず鉄を以て神器とせるは爾来創りて、金銀銅なる神器ことごとくして土に埋まるることと相成りせば、荒覇吐神を稱ふるをも禁じたれば、住者をして是を捨難く、門神・客大明神とて祀りきも、日之本國にては是を攺む無く、今に荒覇吐神とて稱えむなり。亦後世に於てをや。白山神・白鳥神・姫神・荒神・三輪大神・日神・月神・星神とて今に攺む多けくも、坂東より以北のみなり。

奥州にも、日髙見神社・塩釜神社・大元神社・鹿嶋神社・白山神社・白神神社・大三輪神社・白山毗咩神社・山王日吉神社ら攺稱多くせるも、祀りし神は荒覇吐神なるを知るべきなり。何れも、康平五年を一期としての世襲に依りけるなり。

亦世を降りては、支那元國のフビライハン・紅毛國人マルコポーロを祀りきもあるは、商易を鎌倉にせむとて、國侵とて戦交なせるに至らむ。北條氏の島國魂性なるも、東日流・飽田・釜石・砂泻の湊より揚子江揚州に商易せる安東船耳は、通商断たず、縣主マルコポーロをして航交せるに依れるものなり。故に奥州にては、諸神社・佛閣にその遺像ありて、今に遺るる處多しも穏拝なり。

寛政五年三月六日 村山次郎太

佛頂山

日髙見國衣川之柵を選地せる日之本將軍安倍賴良をして、自から地の理を足測せりと曰ふ。

平泉は、もと佛頂山とて安倍國東が大日如来を中尊とし、その東西南北に阿閦如来・藥師如来・阿弥陀如来・釋迦如来の伍佛を造営せし處にて、是を佛頂山伍佛院安國寺とせし處なるも、天喜五年に亂火に焼失せり。幸にして五佛像を閉伊に移しめ、気仙湊より塩釜神社に安置せしも、是の像行方不知と相成りぬ。

衣川柵とは、柵を二重三重にせる関驛にして、平野・河辺、皆牧なり。古きより馬産を旨とせし、地民は延々たる柵をなせるさま、佛の衣の飛天に似たるより、衣川と號けられたりと曰ふなり。

安倍賴良、この馬柵をなせる牧、見張の岳を舘とせしより、要所と相成り、世に衣川柵とて源軍攻むるも、戦殉多き地なりと曰ふ。亦、地の拔道多く、退去また八方に續きし秘にありけるより、十二年になる戦に都度の戦場たり。

寛政六年八月一日 仲代賢十郎

倭の落人

倭國にては上毛野田道が奥州征伐に失敗し、荒覇吐一統民の强きを驚きて、鉾先が折られしを如何とも報復もおぼつかず、武内宿禰が奥州に潜行なして討伐をすすめたる案を戒めたれば、武内一族更に鉾先を朝鮮征伐に向はしめたり。依て奇襲を受けたる朝鮮國、いたく敗れ貢賦をなして降伏せしより、倭國は富みたり。

依て、仁徳天皇の勅に依り民の税を免じ、朝鮮より餘多の糧を資となし、都の飛鳥に建つるのち、朝鮮國より佛教傳り、佛典など傳りければ、文字の便亦數の術よろしければ、欽明天皇の十三年に是を試みに入朝を許したり。

佛法のおくゆかしきは、わが國の神より覚明の大なるを悟し、天皇は是を蘇我氏に委ねたり。蘇我氏是を拝し、向原寺を建立なして崇拝しけるに、物部氏是れに反議なして帝を戒むれば、一度入朝せしを捨ならんとて聞かざれば、此の年天下大疫流りぬ。是を國神の恕とて物部氏、帝に奏上しければ、許されむ。

向原寺は炎上され、鋳造なる佛像は難波の堀江に投棄されしに、天下、以前にまして大疫流行し死者多くいでむを、蘇我氏曰く佛法は天竺ブッダガヤに起り唐に渡り韓を經て渡り来たりしに、是を棄たる佛罰なり。速やかに悔いて崇拝せんにや國亡ぶるの兆尚起らむ、と帝を戒むれば、佛法崇拝を許されけるより、飛鳥の都は佛殿多く興隆す。

然るに、物部氏是をよしとせず、常にして朝庭の政を害したれば、上宮太子攝政のみぎり、物部氏誅伐され、一族四散しける。依て物部一族氏、姓を赤間氏・須尺氏・巷置氏・扶竹氏・肩野氏・尋津氏・經迹氏・相現氏・𥢌麻氏・二田氏・竹内氏・横田氏・溶田氏・是田氏・田尻氏・久米氏・大豆氏・羽東氏・布部留氏・築紫間氏・築紫寄田氏・讃岐三野氏・住道氏・酒人氏・馬見氏らに攺めて、荒覇吐王の袖下に從へたり。

依て、日髙見國にては物部一族の智覚を用いたるより、鑛金産出に大なる財を得、更には諸國の図解を得たりしも、奥州要地の定着を赦さず、郡主視下に置かれたり。

倭にては物部一族却りてより、蘇我一族の天下たり。佛法大いに振興せしも、民の崇拝に遠く、佛寺建立の重税に苦しみて畿内を逐電せるもの多し。

時に、倭の葛城上郡茅原郷に役小角誕生し、長ずるに於て神佛を崇拝なし、かかる物部・蘇我氏の信仰に血を流さむを憂いて神佛混合の求道に求め、獨り金剛山・笠置山・膽駒山・大峰山らの連峰を巡り、自獨の日本信仰なる本願を成就せんがための荒行せり。役小角は遂にして、大化丁未年八月大峰山に於て金剛藏王權現を感得し、更には法喜菩薩を感得せしも、既に老令盡したるも、その本地なる主尊感得に求め、更に苦行を求めたるも得られず。

その修験の相に弟子に參ずる者多く、衆もまた大峰に道を求むる多ければ、八宗の僧侶らこれを邪道と稱し役小角を訴人し、役小角捕はれ伊豆に流罪と相成る。然るに、太寶辛丑年赦されたるも、役小角は未だ感得得ざる本地尊を求め唐國に渡らんと欲し、肥前平戸松浦より門弟を從へて船をいだしたるも、玄界灘にて船舵折らるる暴風に遭遇しければ、船の漂ふまま若狹なる小濱に漂着なし、地民に援けられき。

一夜の夢に阿羅羅迦羅摩蘭仙人、顯れて曰く、佛弟子役小角よなんじ能く十戒を護りたるに依り、なんじが悟道のしるべを導びかむ。なんじみちのくに向ふべし。なんじが求めし本地の全能の神佛に會はん、とて夢ぞ覚めたり。是ぞ天授の導きとて、役小角、即ち羽前三山の羽黒・湯殿・月山に修験の道を遺し、羽後に到り、更には東日流にたどりて、中山なる峰に役小角、五色の光明を拝したり。

地の領主・荒覇吐五王分倉なる津刈丸の案内にて石塔山に入峰なし、荒覇吐神なる境内に入りければ、天は裂け地割るるが如き雷鳴ありてのち、山岳に旭日髙く五色の虹かかり、その上に役小角は永く求めし本地尊の御影を拝したり。

役小角心になくも是を、南無金剛不壊摩訶如来と稱名しければ、その幻影淨かに昇天して却れり。役小角、茲に一心不乱にて檜木を奉じ一刻三禮にて(※この一行、判読不能)
金剛不壊摩訶如来を刻像、見事に造像なし是れに開眼なして、此の年の十二月石塔山に入寂せり。是ぞ、今に遺れる石塔山役小角墓なり。

此のあと阿部比羅夫、東日流を二度に渡りて皇化征略せんとせるも敗れたるは、役小角仙人の靈力とて、荒覇吐髙倉王も是を崇拝すべく民に布したり。

倭國にては蘇我氏の横暴きわまりて、天智天皇が皇子のみぎり藤原鎌足をして誅滅せるより、藤原一族の出世と相成り、都は藤原京に移り、更に平城京へと移りければ、國の治安ようやく治り、稗田阿禮に依りて古事たる日本史を古事記と稱して遺し、更にして舎人親王が日本書紀と稱して倭國の歴史を世に遺したり。然るに、推古天皇より上古なるを荒覇吐王ある故に、西をして創作せし荒唐信じべからざるの史書なるも、現なる世に到りては衆の心にぞ根張りて固定せるも、われらが奥州總て空白なれば、信じるに足るるものに非ざるなり。

右、長元辛未四年六月七日、難波羽曳野往事記。富邑白谷郷、明日香家藏書。元当主富村淸左衛門。

寛政五年十二月十日 秋田孝季写

坂上田村麻呂蝦夷征伐

天平丁丑年築紫に起れる流疫は、倭國にも到りて民多く死す。依て、聖武天皇は諸國に國分寺を建立せんとせしも、聖武天皇の諸國行幸のみぎり、玄昉僧正や吉備眞備らに唐國の佛都長安の弘福寺らその荘厳なるを聞かされ、平城京に歸らず恭仁宮を築き、更には紫香樂宮・難波宮らを築き、三世一身法・墾田永年私財法をなどさだめ、國分寺のみならず東大寺盧舎那佛を造らしむに至れり。

天平勝寶己丑年、荒覇吐王國にては水島嶋足の治領地に黄金が産金なし、倭朝にては藤原仲麻呂・橘諸兄・僧行基・國中公麻呂ら諸議をこらし、使者をして安倍日下將軍安東王に勅して曰す、

天朝茲に日髙見國祖王の根子彦天皇に系ずる犬養橘氏御孫、安倍内親王を天皇に奉り所願の大佛を建立せむとす。依て、安倍一族安泰の爲め以て産金の献貢あれ、

とぞ請しければ、安倍安東王、東なる五王・水島嶋足をして献貢の任に當らせぬ。嶋足、心得て産金を倭に屆けたれば、天平勝寶壬辰年四月九日、大佛開眼なりて尚陸奥の金餘り、茲にその産金にて天平寶字庚子年に銭を鋳れり。

開基勝寶の図

是れ荒覇吐神社、奥羽陸奥百社に賜はられたり。亦水島嶋足、倭の都に髙位任官なして歸らざれば、安倍安東忿怒なし倭朝への通交を絶したり。安倍天皇即ち孝謙天皇の親書度々あれど、是れに應ずるなく、日髙見國の倭人も朝庭に縁る官人多く追放されたるなり。

坂上刈田麿は、かかる荒覇吐の仕官にある嶋足より陸奥の討伐を謀りて訴願しけるを心よしとせず、常に子息・田村麻呂と奥州平征下に皇化を謀りに謀りたり。

延暦庚午年、桓武天皇は詔して奥州蝦夷平征企て、大伴弟麿に勅し、革鎧一千・鉄鎧三千を賜て、東征を宣布せり。弟麿は坂上田村麿を副將とて奥州に挙兵せども、莫大なる産金をねらふ理由なき侵領にて心進まざれど、攻手を羽州より陸奥に征戦せんとするおもはく外れ、出羽の羽黒月山にて大敗し、征軍總ての甲鎧・武具・糧を奪はれ、九死に一生を越の國に退けり。

依て延暦辛未年、奥州平征は兵を以て成る術なしと奏上し、父・刈田麿との謀りたる案を參謀しければ、無血の平征に優はなしとて、田村麿を按察使兼陸奥守に任じ、一切の征略を委ねたり。

田村麿、兵ならぬ僧侶・医藥師・織女・神職・料味師・道具造・鉄工・刀師・武具師・玉造・船大工・鋳工師・酒造・紙造・舞樂師・鞍造・車造・石工・陶磁器師・轆轤師など諸職の者と少かなる兵卒をつれなして奥州に入りぬ。刀帯びぬ民團なれば、荒覇吐分倉の王・母禮は是を通し、髙倉の日下將軍安倍安東に田村麿會さしめたり。

依て田村麿、奥に駐在を赦され、諸處に師工人を遣はして建つる建物たるや多し。先づ、己が氏姓たる同名の田村郡に大元神社を建立なし、多くの職役を傳へたり。その巡廻なる處、飽田怒代までに到るも、田村麿常に多賀城にあり、安倍安東の視下に駐まれり。諸處に田村麿を語る史跡を遺すとも、諸職師が宣布せし名稱なり。

駐留長じて安倍の警視もゆるむ頃にては、奥州かしこに城柵や神社佛閣、倭景にも似たる如く成りければ、是ぞ戦なき心の洗脳戦略ぞと、怪しみだしたるは荒覇吐五王の大墓阿底利爲及び磐具母禮なり。依て、その旨を安倍日下將軍に告訴せども、捨置くべしの一言なるに、双人併せて田村の奸計を曰す。

今なる倭の田村麿ことに付きて、戦なければ侵領にあらざると想ひきや、大事なる眼違ひなり。衆に親近しその心、洗脳さるるは、吾等の忍對尚空しきなり。是ぞ、蝦夷は蝦夷をして討つの仕掛なり。今に田村麿を討たでは、奥州みな倭に化せん。

とて議すれども、安東ただ黙すのみなりに、答へなければ両人いでて田村麿を誅伐せんと謀りたり。とき速く田村麿是を覚り、夜半に乘じて阿底利爲及び母禮を討って首を取りて倭に引揚げぬ。なぜかなるか、安倍安東一族挙兵をなさず、亦田村麿追討に起るなく、白河関を閉じて、倭の職師らを終世に駐め置きたりと曰ふ。

首を討たれた阿底流爲・母禮の首は都にさらされ、田村麿、征夷大將軍とて世に傳ふるも、荒覇吐王・安倍安東、田村麿なる仕掛に乘ぜざる名君なり。名を挙ぐより、民の心を逆らわしめざるに、今にして田村麿ぞ奥州に神と救世主とぞ崇拝自由たるも、安東が謀にして、田村麿の奥州討伐を心せざるに及ばしむ、雄々しき心かな。

右、弘仁壬寅年八月、武藏國宮下邑、田村家御書管也。

寛政甲寅年六月一日 秋田孝季

後書

右、各々原書漢文なれども、子孫に讀難ければ、拙者の解讀に記す置ものなり。

明治(以下判読不能)