丑寅風土記 第全六ノ二

安東史談 一、

安倍一族と川辺氏之事

寛平二年日本將軍奥羽押領使安倍致東築羽後飽田高清水山王飽田城此歳春夏秋冬天候不順貧四季陸海農漁何分出来秋農収尚挙地民断歳貢拔地領遁他地多移者茲安倍致東以定法重臣遣川辺小五郎義孝制是然怒土民是遂交弓箭爭乱相成圍土民黨飽田城其領掌握時川辺小五郎義孝日本將軍西奥羽討誅之將士召安倍致東從其下知赴奥出羽卆義孝和賀十二郷二千三百二十騎徒構飽田城近郷岩見澤陣破一挙反黨圍果飽田城救済依加之地讃川辺小五郎義孝武功號戦勝地岩見澤川辺郡遺今于也爾来川辺一族和賀在國見郷安倍氏重臣相成其累代于小太郎義直小次郎義治小兵太孝幸爲相續於前九年之役入安倍弥三郎宗任幕下籠鳥海

天喜五年七月十八日宇曽利富忠乘金爲時之奸計反忠自猿石川至鷹巣山来気仙川併爲時之軍移本陣人首構江刺攻時安倍日本將軍賴時聞是報固江刺柵過長日不是富忠攻以使者入和睦然安倍厨川太夫貞任不是認于賴良制是應富忠和時双方餅野田決對面欲賴良是時宗任及川辺氏他是留出向賴良不聞入赴餅野田是從者五百人茲賴義警護之近從選川辺小五郎義孝其子息孫孝幸從卆赴富忠陣時金爲時之食客平貞親途隱牧賴良箭射賴義側腹及肩二箭落馬川辺己身飛矢方向立矢面護賴良退鳥柵亦名鳥海柵介抱空

天喜五年七月二十六日賴良入滅依茲川辺小浜太孝辛大忿怒誅反忠之富忠挙兵川辺家兵法和賀黨秘傳以阿修羅化身即毘沙門天神樂四季面當毛蓋金剛藏王之頭髪逆立以身装二百六十八人決死勇者乘夜半振狼火在風下富忠陣放野火其背後討入富忠幕下警護者三百六十二人悉誅滅依川辺氏一族讃其勲馬印菱木瓜紋流授厨川太夫貞任是更贈日高見黒澤尻太夫川辺太郎隆幸士號曰也亦自鳥海弥三郎宗任贈故父賴時愛馬月波

康平四年八月二日黒澤尻八郎正任入幕下更反忠清原武則戦寄手是多勢對無勢敗遂残者少六人極樂寺奥院鏡面岳脱難後和賀橘郷豪士藤原橘入道巌崎次郎基則依援助黒巌邑定着天治元年川辺氏宗家孝幸子息幸信仕官平泉鎭守將軍藤原入道清衡要人誘不入祖之遺言固守其一族庶家衆及川氏国見氏川邑氏菊池氏佐藤氏鈴木氏以川辺六氏傳今如件

貞應二年   極樂慈惠

安東史談 二、

陸羽之古寺来歴之事

抑々陸州羽州之古寺其創無詳審傳曰行基慈覚田村麿役小角等開山説亦按察使及四道將軍布教僧金光坊等幽説存多聞古寺跡於東日流正中山梵場寺阿闍羅山中尊寺稲架之伽藍寺長谷堂大安國寺藥師堂極樂寺弘舟寺飛鳥寺大光寺華和之三世寺新法寺奥法之験處寺大飛鳥寺増光寺大光院中山修験道場外浜飛鳥寺妙見堂持國天堂多聞天堂宇曽利阿吽寺糠部名久井寺荷薩體寺等陸州閉伊之西法寺淨法寺毘沙門堂報恩寺佛頂寺和賀之大竹寺萬藏寺金福寺毘沙門堂極樂寺大日堂如意輪事日本寺等奥羽鹿角十三佛寺吹浦觀音寺火内淨法寺山王事等他日積寺旭川寺湊寺羽前之羽黒山修験寺月山大權現湯殿山五佛寺庄内大日堂藏王山修験寺等也。

陸前之嚴島寺多賀寺宮城國分寺栗原寺日高見寺耶靡堆寺来朝寺東塔寺長谷寺等也亦陸奥磐城之四天王寺大元寺田村寺白河寺萬代寺大日寺等天平乃至貞觀創建寺閣也然是皆乍寺史不祥審寺縁起無是候也。

天文辛丑年九月三日   堀田甚吾介賴宗

安東史談 三、

凡そ歴史の古事をおもんみるに、東日流の倭朝に依れる征夷と稱さる戦にては、阿部引田臣比羅夫の海攻戦、二度に成れる寄手なり。初は有浜、亦は有澗浜上磯とぞ遺名せる西海、吹浦の浜なり。次なるは外浜、後方羊蹄浜、亦は潮方後泻と稱せる中山麓浜なり。

當時にして、東日流に在りきは有澗武にて、宇曽利に在りきは青荷、外浜にては青蒜、糠部にありきは都母なり。古き事、安日彦王より累代せる縣主にて、下磯の貴羅を入れける、丑寅の五王と曰ふ。比羅夫の丑寅の海攻は、二度とも敗退せるは實相なり。

丑寅の五王は、各々相援くるを常とし、古来、倭人の怖れなせる處なり。海戦にては黒油、硫黄と混ぜる火彈にて、攻舟はハタと曰ふ戦舟にて、其數多し。通常漁舟にて、鯨討舟とも稱し、古代より海に跳躍せし舟にて、二本の帆柱は大弓となり、銛弓となり、火彈弓とも相成りぬ。火彈とは、布また木皮を、秋田の地に湧ける黒油漬たるに、硫黄粉を混ぜたるものにて、是に火を付け、大弓箭にて射るものなり。是、山靼より傳授されたるものにて、その戦法、海戦にては無敵なりと曰ふ。火彈なるは、鯨追に用いたるものと曰ふ。

元文庚申年十二月六日   田名部宗次郎

安東史談 四、

昔、平川の藤崎邑に、弥七と曰ふ川船の船頭あり。平川、岩木川、十三湊へと、日に一回の往復をなせし家業なり。然るに、弥七、常に想ふところは、安東船にて山靼に赴くを志し、十三往来に目標たる岩木山に舟上に祈願せる毎日なり。藤崎舟場に見上ぐる往来船に見ゆ岩木山峰は三つ峰にて、天地水の神が川降る程に一峰となれる神秘を、毎日の如く望拝、弥七の願ひなりけり川船は、海と異なり雨につけ、嵐につけて、往来を休むることなかりければ、十三湊に安東船の廻船歸りては、藤崎城への納品、夜を通しける往来の多忙につけても、朝夕の美嶺岩木山に祈らざる日はなかりける。

弥七の大願、神に通ぜしか、康正丙子二年五月七日、藤崎城に召された弥七に、安東弘季の倶をなし山靼への旅を命ぜられたり。弥七は夢かとぞ悦びて、此の年六月、十三湊を流鬼國に船出でたり。

弘季曰く。吾が國は日本國なり。強けきは武威に非らず。人心相信じ、一より二、二より三に心を睦むこそ、武より尚強けき心の安らぎにて、その心を以て國を異にせると雖も、人は皆人にして祖は一種の一点にありける也。山靼に達しては、人の異となせる多し。衣食住、神なる信仰、そして言語、四季の候、諸々の異差ありけるも、接しては人類皆兄弟姉妹なり。異郷に入りければ、異郷に習へて、吾等が神と同じたる信仰、亦、故土にありけるも、異土にありけるも、日輪、月の満欠は同じなる人間ぞ住むる處なりと、心に覚つべきなり。

時に弥七、答へて曰す。吾れ常に十三湊に山靼なる紅毛人と接せしに、世界のさまを知るべくも、今、巡禮に預りて同行を叶いたるは悦ばしきなり。吾がまだ知らぬ神境聖域、ブルハン神、カオス神、ルガル神の聖地に萬里の旅程を果し、御前に御報告叶はむ事を、明暮れに欠き申さず、吾が日本國國神、荒覇吐神に祈誓仕り居りまする。

広季曰く。余もその意趣は同意なりとて、山靼黒龍江の河口湊に着きたるは、同年七月三日たり。ここより川舟にて満達沿海平原、鳥伊嶺より満州里に至り、蒙國宇流座にて舟を降りぬ。陸路亜流丹部落に至り、程なくブリヤート族の住むるバイカル湖に至り、聖なるブルハン神の鎭座なりませる聖湖の水に身心を清むと、同年九月十九日なり。冬の至らざるに伊寧にたどりて、天山なる天池に西王母神を祀れる聖地を拝し、裏海にいでて、アラビアなるバグダットにたどり、ルガル神の女神川なるチグリス、男神川なりけるユウフラテスの両聖流になる聖處を拝しけるも、ルガル神殿は何處も廢墟たり。地民はアラー神に信仰を攺めたるを知る。

エスラエルを越え、カイロに至り、北斗に靈窓をなせる古代フワラオの石積の大墓、獅子座、ラーアメンの神、實想を絶せる石像の數々を拝し、いよいよ以てギリシアなるオリンポス山にたどりぬ。

此の地にとどまること八十日、紅海諸國、地中海の大王國ローマの神殿跡を巡拝せるも、古代なるものみなながら、古戦場の跡なる痕跡を遺しぬ。想ふれば、倭國にて起れる神佛をして戦ふる如く、紅毛人國に於ては、尚激しきありぬ。地の歴史を知るべく、長老に聞く紅毛人國の戦ぞ次の如く也。

古きはメキドの戦、カデイシュの戦、オロンテイスの戦、トロイの戦、アッシリア戦、ペルシア戦、ペロポネソス戦、クナクサ戦、スパルタ、ペルシア戦、コリント戦、神聖戦、サムニウム戦、カイロネイア戦、アレクサンドロス戦、イプソス戦、ポエニ戦、マケドニア戦、ミリア戦、マグネシア戦、ユダヤ戦、ユグルダ戦、アクエセクステイ戦、ブエルケレイ戦、トリダテス戦、ガリア戦、パルテイア戦、ロオマ戦、トイトブルク戦、アドリアノクブル戦、カタラウヌム戦、ソワソン戦、ニネブエ戦、イスラム戦、レコンキスタ戦、トウフルボアテイエ戦、タラス戦、フランク王對サクソン戦、ステイングス戦、マンジケルト戦、十字軍遠征戦、レニヤ戦、モンゴル遠征戦、ブウブイヌ戦、クリブオ戦、ニコポリス戦、アンカラ戦、タンネンベルグ戦、フス戦、ブアルナ戦、コンスタンテイノオブル戦らの戦、今尚戦雲の急を要せりと曰ふ。

世界は今にして戦國の世さながら、吾が國にも似たるなり。此の頃になる藤崎城にては安東義季の子息義景が藤崎城を再建なせるに當り、十三湊を復し、東日流を安東一族の旧復に念願して、その弟広季を山靼に学を長ぜしむ旅にて、弥七を伴なはせしは、いささか山靼語に通ぜる故なりと曰ふ。此の旅は、安東一族の繁榮を悲願してなせる巡禮なりしも、彼等の見たる紅毛人國は、到る處、死臭の漂ふ戦乱の巷を遁げるが如く、寛正甲申年六月、東日流に歸り来たりと曰ふ。

程なくして應仁の乱起り、
〽なれや知る 都は野辺の 夕雲雀
  あがるを見ても 涙こぼるる「落つる涙は」ともあり

倭國に於ても世は戦國、東日流もまた六郡の地は、落武者の巢留りと相成り、安東一族もまた主筋をして、廢湊十三湊に寄るべく船はなかりき。広季は名を次郎忠季と攺め、檜山に入れり。弥七は語部となりて山靼の歴史を、諸處に渉りて口演し、今に遺るるものと相成れり。

弘治乙卯年七月三日   木田松禄

安東史談 五、

興國元年八月之津浪とは、津軽系図累に曰ふ、興國元年八月海嘯大に起り、津軽大半覆没して、死者萬余人をいだす云々とあり、此の時より下磯なるを荒磯と郷史に遺りぬ。

行丘八幡宮縁起に曰く、夫奥州津軽荒磯行丘如意山八幡宮、云々。

亦、神社式に曰く、加茂宮社浪岡五本松に鎭座也卽ち奥州荒磯郷行丘と曰ふ所也、云々と曰ふ。凡そ東日流とは、安東氏代に用いられし稱號にて遺り、その以前にしてはツパン、ツパング、東日流とはかく古人の意を以て國號とせるを、津軽古事録にては津軽、津刈、都賀留と記ありぬ。

津陽録に曰ふ、我が國の名を東日流とも東日留とも書けり。蓋し、東の日出方の處を扶桑と曰ふ。我が國は天離辺境にして、東方は絶域地なれば、日出所に近しといふ心なり、云々。

亦、東日流物語に曰く、日本の艮に當て日の流るる所故に東日流と曰ふ、云々。

亦、十三湊の由来にては、古くは門狹と號し、太古にては鳴澤一里崎より脇元黒石崎迄の間を安東浦と號したるも、興國元年の大津浪及び地震にて、海底盛上り、岩木川の流れ洪漂なし、流砂を以て中州をつくり、蛇曲流常にして田光川、冷水川、雁川と流変し、川流留となりし廢川跡ぞ沼と相成りて、今に遺りけると曰ふは安東地検禄なり。

亦、東日流物語に曰く、應神天皇丁卯五十五年、丁卯は三十八年也。粛愼氏蝦夷を扶けて亦起る時に帝、田道大連の臣をして蝦夷を討し給ふ。田道蝦夷を破り、粛愼氏を糠壇の嶽、善知浜に於て悉く討取。時に山津浪起りて、粛愼國と都賀留の間七十余町同時に海となる、云々。

本藩濫觴實記に曰く、人皇七十三代堀河院の御宇とかや、白髪水とて山津浪の節、津軽は入海となる。藤先崎か。より下通りは皆倒れ、五郡餘、断絶す。此の節、三千坊並びに所々の伽藍も滅亡す。然ども阿闍羅山は別條なしと曰へり。此時、此山に御立被成候八幡宮を浪不寄之八幡宮と申事は、此山へ水押上り不申故、浪不寄之八幡宮と曰ひ、又浪の中より岡に成りたる所を高岡と曰ふ、云々。

是の如く海なる津浪を山津浪とせしや、如何に。

寛政五年五月一日  和田長三郎吉次

安東史談 六、

東日流を倭史寄に曰ふ諸に先なるは、日本書紀なり。天子問曰蝦夷幾種使人謹答類有三種遠者名都賀留次者麁蝦夷近名熟蝦夷、云々。

亦、続日本紀に曰く、桓武天皇延暦七年十二月征夷大將軍紀朝臣古佐美に賜りたる勅書に曰く。坂東安危在此一挙將軍宣勉之、云々。

亦、三代實禄に曰く、津軽夷狄或同或不同右不動者以上野國軍將得討滅遂同者雖大兵難寸輙制、云々とは陽成天皇元慶二年七月の條也。

更に扶桑本紀には次の如き注目すべき記行あり。抑々、安倍一族大祖爲耶靡堆土王也稱姓阿毎氏名稱耶馬臺安日彦舎弟富長髄彦爲補王自賀州三輪山入耶靡堆居箸香弟王居膽駒嶽富雄郷白谷號是耶靡堆國、云々。

亦、旧唐書及び新唐書に曰はしむれば、東海日辺國異倭國稱丑寅國亦日本國初王阿毎氏也、云々とぞありて、宋書・梁書に安東大將五王を記し、安東とは支那、満達、朝鮮、日本の新睦の交をなせるものとて、韓史安東書に意趣記行ありて、五王の讃、珍、斉、興、武なる天皇は倭國に非らざるなり。故以て、倭史に依れる丑寅日本歴史は實存に當らざる也。

萬治己亥年二月四日   新井金吾

安東史談 七、

役小角之事

大寶辛丑天六月十六日役小角石化嶽上陸石化崎干登加之深山建草堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離苦憂世也我宗祖阿羅羅迦蘭仙人𣒰檀煙不免給得獨來往生死道誰相伴事末之露木之雫後前先發共終同道往耳不是今始事也頓終老命託一蓮生未來得阿𧂭多羅三藐三菩提也世榮華是空也多年馴睦者飽別悲臨隙行駒須臾不住早光陰移事老我到北國雪山於國末石化嶽干定臨終正念之地未來到九品上生玉台分阿弥陀如來半座欲即身成佛嗚々我老獨拝授御酒吹法羅消憂申集門弟夏月樓干設宴促酒宴回盃小角曰赦御酒三杯之於是唐小摩以國字再唐國渡還銅板著修驗宗題目金剛不壊摩訶如来經役小角一代諸書時大寶辛丑天七月十七日也

八月十日火生三昧行後小角追日身體燋焠漸々重疾果飯廢衰見給門弟大心痛普加持祈禱天數何効不奏小角只弱小角曰我汝等至修驗宗呪術敎說我不死唱口中呪文小角呼雲乘雲弟子共乘雲干得飛行術小角身體以前無變强體還給小角敎呪術門弟事是初也小角曰汝等自今日我分身也後汝等是不怠我敎說是術千日萬日苦行空是落也若我涅槃後汝等自我先金剛胎藏兩界神佛尊像敬拝可耶靡堆國還不可何我共於是所入涅槃可

如是小角九月七日欲生身現顯金剛藏王權現垂地尊之大本地金剛不壊摩訶如来法喜菩薩垂地尊之本地佛伍佛本願之大日如来阿弥陀如来藥師如来阿閦如来釋迦如来等之虚空示現請願拝千手陀羅尼誦法華經不動經荒覇吐祭文山靼神呪等入斷食苦所干其夜現阿羅羅迦蘭仙人忽然曰吾依汝請西國自天竺來東日流石塔山吾御身爲輝光極樂導進來此道場干己修驗宗大願是成就御身滿足可自汝今三月後豫必授来迎也請汝生身諸神佛示顯此娑婆不顯層滅後者也依汝於極樂淨土再會可曰笑仙人然如來拝會可仙人忽變端嚴微妙佛身自正坐放光明忽然響虛空音樂降天華薰異香芳郁照光明八邊如來告小角干你我身同位也善哉善哉你勉哉宣去坐見中即如來金雲乘淨雲干西天干小角御後伏拝餘随喜涙袖滿濡渇仰胸干拝諸神佛生身給

十八日朝再顯小角夢中金剛不壞摩訶如來曰汝往昔迦葉自說法優尚釋迦自說新多驗也汝殘所是無神佛遺教典末代可亦汝會得給吾時汝涅槃遣大日如來阿弥陀如來阿閦如來藥師如來四尊進吾本干可引導仕也於常世干阿羅羅迦蘭仙人釋迦牟尼共得阿𧂭多羅三藐三菩提宜小角謹領掌九拝於是役小角我如肉眼凡夫者給目前如來眞身拝會身心言不及只耳聞由答拝如來消何時間干至十月十七日未不死集小角門弟曰我身汝等共耶靡堆國戀郷還欲者只今可若我涅槃後還者我化身其者誅立所也時門弟先達唐小摩曰有安心可誰一人導師共干從國末干関道左様辱者無是葬我以下徒弟共此石塔山也小角大喜悦

十一月二日自身知終焉期洗浴六根淸淨盥嗽拝目前淨土微妙荘嚴向西方讀經端座合掌待往生日刻十一月二十三日未死十二月一日欲火生護摩修法集枯木成三昧生身火中往生於是大祥坊小祥坊大角坊等留是怒小角曰汝等留師之往生勿汝等暫殘現世我抜身魂祈後生善生可汝等終頓老命未來託一蓮生可汝等慕我法事爲我千勝萬部之佛典遺言大寶辛丑天十二月十一日入生身火葬行午刻無聊御悩大往生遂給其臨終砌聞雪中虛空音樂散蓮華天女舞下現阿弥陀九品之全如來來臨迎來給安養淨上乘紫雲役小角魂逝引導幻影觀門弟一同給也

和銅戊申十二月十一日   唐小摩坊

安東史談 八、

役小角梗概之事

役小角の傳は、続日本書紀、日本靈異記上巻、三寶繪詞中巻、扶桑略記四巻、三國傳記二巻、元亨釋書十五巻、本朝高僧傳六十九巻、木葉衣、踏雲録事、本朝神仙傳、大日本史九十二巻に多説傳載を異にせり。然るに、本巻は東日流安東氏に遺れる題書に基きて書写仕る者也。原漢文、流爲天内義仁。

舒明天皇御宇四年三月十五日、耶靡堆國葛城上郡茅原郷之人、族姓高賀茂役公と曰ふ倭朝屬神樂器の工に、長女あり、幼名を千代、長じて須惠と號けしに、十八歳にして、面立艶麗容貌、譬へて金谷千樹華搖池玉樓月言可、愧毛檣西施面と曰ふ。世人是を讃めそやし、葛城華と稱したり。

其の聞え天聽に達し、宮中に内々の御沙汰あり、千代姫を東宮に召して御所神樂の舞姫と選ばれり。其美貌振りにては、あたかも天女の如く、是ぞ宮中津々浦々に知渉りぬ。宮中に於て千代姫の神樂舞催すに到りては、敷坐足らず、庭に満々たる参觀たり。朝庭にあるべく公卿は曰ふに及ばず、御門さえ宴に千代姫を親接に招かれたり。御上からなる賜衣装金子にて金臺珠楷心詞も及ばず、擬謹領掌し及ぶる限り奉仕せる千代姫と御門はこよなく愛しめり。

翌五年三月十七日、五穀祈願の神樂に千代姫、舞を奉じける、その宵なる御宴に、御門は千代姫を召され、御室にて御酌に御奉仕ければ、御門は御酔になられ、姫の御断りも聞かせらず、御床を同じになされしより、月々に目立給へき御門の胤を千代姫は姙まれり。

翌六年正月元日、千代姫は東宮にて玉兒を産みまえらせしは、面美貌異相、體魁悟とて、並々なる赤兒と異ならぬ。千代姫、十八日を以て在郷茅原に還るを御門に奏上せるも、時に御門は大いに悦びて母子倶に留め置むとせるも、皇妃、皇后の憤りを避けて、いでにけるを御門は不愍とて、御門の御印、勾玉、剣、鏡、冠、笏、を賜られたり。

子連なる千代姫を、父高賀茂氏は大いに怒りて責め、遊女如身分浅猿者とてののしれど、役公は己が末子とて名を小角と號けり。幼少頃より強健にて育つぬ。高賀茂氏は孝元天皇の裔にて、皇子次代なる開化天皇の皇子彦坐命の系なり。役はエタチと訓じ、小角はヲズミと曰ふべくも、千代姫は己れを須惠と攺め、小角をエンノオツヌと稱したり。

小角、生れ乍らにて眉間に瘤あるが故に、小角と役公は名付たりとも曰ふなり。小角、童となりけるも餘人と遊戯を好まず、只、山林に分け入りて獨り遊べり。成人となりては、父母に孝、厚く山嶽を好みて、宇宙の構成を獨学し、神への接点を唐僧名は阿曹と曰ふ。より聞きたり。

小角は漢書を能くし、高句麗書、濊書、馬韓書、辰韓書、辨韓書、魏書、鮮卑書、蜀書、呉書らを葛城神社に学びて、倭神の哲理に貧かるを、世界に順乘せむとし、先づ以て神道、佛道をして相爭ふるを憂へて、道を山嶽に求めて、神の宣を求めたり。

大化元年十月一日朝、難波の浜に漂着せし唐人を助け、青丹、孔丹の両人を葛城神社に入れて、支那大国史を学び得たり。彼等は長安の白馬寺なる修僧にて、我倭朝を訪れたるに、瀬戸内にて暴風に遭遇し、九死に一生を得て、此の浜に漂着せしものと曰ふ。

彼等より突厥國、契丹國、山靼國の道しるべを得るに、小角、渡唐を志したるも、此の両人これをとどめたり。彼等の大志は倭國に非らず、丑寅なる日本國を求めてのことと曰ふ。丑寅の國に安東將軍を訪ぬるに、黒龍江を巡るべきに、東厥王の許を得られず、揚州より薩陽、南海道を經にして来たる故の遭難たりと曰ふ。役小角、此の二僧より白雉元年に到る間、学びたる事大事にて、倭朝にては蝦夷と曰はれる東國に安東將軍に會ふる勅許を奏上せしに許されず、唐僧は遣唐船にて、つれゆかれり。依て、小角、葛城よりいでて金峰山に入りて獨り勤行なせるとき、地の前鬼・後鬼が小角に弟子入れり。亦、一言主たる山主も小角がもとに入道して仕へたり。

朱鳥元年に此の地に藏堂を建立したるは、此の弟子らに依れるも、小角はその頃捕はれて知る由もなかりけり。役小角は文武天皇元年に和州の住人・從五位下韓国連廣足の入道を聞屆けざるを恨み、朝廷に小角のあらざる換言を目安しければ、小角、召捕の勅が宣せられ、是れに八宗の僧ら武士を傭へてぞ、役小角の住家に馳向ひ、召し捕ふべく武士とも領掌し葛城山に到りぬ。

小角に對面し、今上、汝が修行に御不審議是有り、急ぎ都に参り申上可しと。小角、敢て應ぜず。我は王の臣民に非らず、世捨人なり。都に召されべく謂なしと自若たれば、武士、怒りて普天の下、王土に非らざるはなし、汝、此の山にすむるは王民に非るや、とて討物に圍む。

小角、嘲笑して曰く。此の土は王國と申故立ち去るべしと、忽ち虚空に飛び上り、空中に坐して端然たり。武士ども手なく搦捕ふる事能はず、掌を空ふして眺め居るばかりなり。小角、之を見下し徴笑し、頓に雲を踏み行方知れず消ゆ。武士ども如何すべきぞと商議せしが、一人進みいで申逑ぶ。「我聞く、小角は彼の老母に厚きあり。小角生得孝心にて諸國經歴の折々にも還りて母に孝養す。彼の老母を捉へ給はば、小角、母を慕ひ都に上り縛に就くべし」とて、老母を捉へて人質とせり。

小角、悲んで茅原に馳せ行き、老いたる母を救はんと京に上り、朝廷にいでて名を告げて縛に就けり、願はくば母者を免じ給へと。即ち、任せて老母を免じて郷に還し、小角を伊豆大嶋に流罪とす。時に、文武天皇御宇三年五月六日也。然れども、神通自在なる小角は、夜な虚空に飛び、老母を養へり。七月二十四日、老母寂滅し、小角、涙を以て火葬し、舎利を己が鉄鉢に乘せて、伊豆に、晝は配流に黙し、夜は飛行し、衆の難を救い、道を開き、橋を架けにして自在たり。

廣足、又心中に、小角國法を犯しむるも、赦免あらば報復我身に及ばむとて、公の手を借りて誅すべくに如かずとぞ、高市王に讒言して曰く。役小角、流罪に行なはれしを恨みて、御門を呪咀し奉る由、聞えあり、是を誅せむ爲に早速にして小角を討首に處すべしと、高市王、是の妄語に感驚し、翌年十月二十五日武士を伊豆に遣し、小角を誅戮せしめんと下知せり。

廣足、武士に賄賂を贈り、小角を誅すべく旨を再願し、武士ども大嶋に下り、一應の糺問にも及ばず小角を曳き出し、僞筆の断罪勅書を讀みにして宣命し、その旨を告げたるも、小角、少しも怖れず、敷皮の上に端坐し、掌に大日印・金剛界印を組みて、口中に何をか呪文せり。太刀執る武士、後に廻りて喝と振揚げ、丁と斬りけるに、恰も磐石を切るが如く、太刀は二段に折れ、小角、安然たり。

故に、太刀取り是太刀の惡しき故なりと、新太刀に替へ、再び切下しければ、又、三段に折れて、猶、小角悠然たり。有合武士忙然たるを、小角、後を顧みて曰く、汝等僞る如き勅命に我は惑はず、先汝等の讀みあぐ宣書にありき罪なる大要は、帝を呪咀し奉る事に依りての死罪とは、拙者のいささかも心無き事。亦、あいて帝を呪咀せむなし、若し呪咀を以て爲すは、廣足、高市王なり。然れども、我は是を呪咀に奉る由なし。修する事は獄中に在りとも、天下萬民の安泰耳なり。然るに、汝ら間大旱魃にして萬草亡び種を盡すべし喝と、天空に印を解きければ、虚空の雲中の彼方に、是に答ふる如く耳をちんざく雷鳴と稲妻走り、近くなる大樹一挙にその落雷に爆裂せり。

小角、更に曰く。汝等、罪無きを誅せんとするは、是、三寶の大賊なり。若し悔ずして我を斬らば、却って禍、汝等に及び、且つ宇宙の雷剣は汝等を誅せんと曰へ終るや、天に黒雲走り、日輪隱れ、雷鳴稲妻を激して、武士ども小角を断罪能ざる旨を奏上しければ、かねて御門の知る由もなきに、大いに驚き、博士を召して卜ひ給ふに、博士、是を占言に奏上し奉る。

役小角は、もとより天子の胤に生れき者にて大聖者なり。急ぎて罪を解き、聖と仰ぐ可と。御門、大いに後悔あらせられ、大嶋に勅使を發て、小角を赦免せり。亦、小角を宮中に召し、親しく神佛の本地垂迹論を奏議しける。時に、大寶元年辛丑一月十六日也。小角、御歳六十八歳の年なり。

彼の廣足及び高市王、僞勅の重罪に斬首されきは二月六日にて、役小角は是を知らさるまま唐に渡らんと欲し、十二人の門弟らを從へて肥前松浦を玄海に渡航せむも、暴風にて若狹浜に漂着して、後、役小角は夢に阿羅羅迦蘭仙人を拝會し、丑寅に會はんとて覚たり。依て、役小角、此の年なる六月十六日、東日流に来着せり。

文明丙午三月二日   天内義仁

安東史談 九、

修験宗之創

役小角、丑寅の日本國・東日流に来着せしより、西海の彼方に無限の陸地に續きける大陸ありと曰ふは、土民誰をも知りけるに驚けり。その國に續くる人の種に紅毛髪、白色人、肌黒く黒色人、そして吾らと同じける黄肌の人種ありとて、世界を智覚し、中には紅毛人その者の歸化ありけるに、小角、その人々に尋ぬるも、今に到る唐人より尚奥深き歴史の上を覚つぬ。

即ち、神は人の住むる何處にも存在し、その本願を全能とせるルガル神、ブルハン神、アメン神、ラア神、カオス神、西王母、女媧、伏羲神、更に天竺のシブア神、ヤクシー女神ら、小角、蝦夷たる鬼神・邪道神と思いしに、丑寅日本一統の神と信仰、荒覇吐神ぞかかる世界神を修成一結せる本旨は、役小角の考想をはるかに越ゆる信仰のありかたに、頭垂れたり。依て、小角が金剛不壊摩訶如来を以て、その大なる宇宙、尚人の世界を今にして知る故、以て感得なし、是を金剛藏王權現の本地とせり。

荒覇吐神を全能神とせる丑寅の日本國に、小角が説く一切の通ぜる無し。荒覇吐神とは、役小角が説くる獨想感得に非らず、宇宙の創より起りし時と、その過積になれる智覚をば、神の授賜とし、消滅への生々萬物の新生に、神のあらはばく息を汲うを滅とし、吐けるを生とし、何れも不可欠なるものとし、宇宙の明暗も亦然り、是ぞ生死にして、滅なるは新生への不滅を意趣し、怖れず死への安心立命を神の大惠に委ねると覚るは荒覇吐神への信仰なりと聞きて、小角は六十年に及ぶる今迄の求道を攺め、金剛不壊摩訶如来とぞ、伍佛の本願を拔きて、茲に地人の信仰を入れにける。

即ち、生と明は時の仮生にて、死と暗は時空の生命を産める原点なり、と解せり。依て、信仰の一義を以て眞如實相を己心獨明せざるを以て、人の信仰さまたげざる善道収集を求むるこそ、無上なる信仰なりとて、何事をも修験せる信仰道を修験道とせり。即ち、是を宗とせしは、後世への傳統とせる故なる證也。

應永二年七月一日  大光院 如意坊

安東史談 十、

津軽の六郡を内三郡と外三郡に分けて、外郡の海浜を上磯と稱し、内郡の大里を下磯と曰ふ。津軽は、大浦氏に依る一統以来、その上の歴史を一切遺す不可ものとして、愢ぶるも難き彼方に押やり、古来なるものの遺物を無くし、跡址の寺社・城にてもその正證を無くし、甚々しきは墓地までも穏滅せり。

何事も藩政の御定法を旨とし、古寺由緒は攺新され、拓田・開墾にて故意に跡型も消滅せる遺跡多し。先づ寺社にては、地名だけにとどまる多く、その跡地は今にして見當だに付かざるなり。東日流六郡、安東氏の時代に変るるは、内三郡の花輪郡は昔の張縄郡の事にて、平賀郡は平川郡なり、田舎郡は稲架郡なり。

奥法郡は事無きも、馬野郡は有澗郡にて、江流間郡は璤瑠澗郡なり。海湊は舞涛湊(鯵澤)戸狹湊(十三)、安泻湊に續く海浜を上磯と稱し、六郡の大里を下磯また荒磯とも曰ふ。

今にして外浜、七里長浜と古稱せるもありけるも、その名殘りなり。また寺社にては、今にして地名のみなり。

安東時代なる寺にて、遠江寺、三井寺、龍興寺、長谷寺、禪林寺、阿吽寺、壇臨寺、淨法寺、東明寺、大光院、平等教院、大安國寺、極樂寺、藥師堂、大光寺、弘舟寺、迦藍寺、三世寺、東光寺、光田寺、諏訪堂、新坊寺、大飛鳥寺、梵場寺など此の一ヶ寺さえ遺るなし。此の寺々を菩提寺とせる津軽の人々ぞ、興國の津浪、應永から嘉吉の間に、渡島亦は飽田に大移住せる因もさり乍ら、多くは藩政の取潰しに依る多し。

城柵の跡も樓む主の目的なる趣向に依りて築かれ、時に應じての備へに城跡を巡見して知るべきなり。わが國の歴史にあるべく城築は、古代人なるチャシ、次にポロチャシを備ふ跡ぞ多し。時を降りては稲城、垣楯に依る即設のものより、高害の地型に備ふる山城、水濠を巡らせる平城、安東一族に縁るる築城は、この城柵を死守して主は死する通常美談になかるべし。城を枕に死すとは、口釈師の語りにて、城を楯として討手を防ぐる故の一策なるは、城を以て構ふる大要なり。依て、多くの城跡、今に遺るとも戦に臨みて一日とて保たざるあり。仮へ要害の地型・地物に構ふるとも、蟻の一穴、城を崩すと曰ふ諺に遺るが如く、古きに名城はなかりき。

元禄十年八月二日   藤井伊予

修験要趣

夫、三世の一切神佛を了知せんと欲し、應に法界の性に求道せるものは、先づ以て、清淨圓妙なる無我の境界に心置くべきなり。受難き人身を世に受けて、生々に榮華は是れ、空と覚つべし。常に不善を離れて聖道を證らんと欲せば、聞・思・修の三行を堅く守るべし。一念不生に至りて三寶に歸依し、佛法に遇ふ者は心にて定まるる多し。求道にては上下の隔なく成道に堕ゆも、達せるも、信仰の浅深なり。

役小角が遺せし修験の道しるべにては、常にして精進なり。身は常に老いに一途なり。心は悟に向上して修むれば、悔を遺さず、生死の轉生に己を失なふなし。一刻にして刻は命脈を盡に到る耳なれば、心に長時なる安らぎを保つ可。神をして、佛をして、選ぶる精進に惑ふ不可。道に支脈ありきも、己をして定む勿れ。總て神の成せる業にて運命左右す。修験とは、心に修め、身に験すを精進せる意趣に大要す。人の生々、安しきことなかりけり。

佛傳に曰ふは、心の境地にて、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅爲樂、と曰ふ。無上菩提とす。依て修験の道とは、身心燃え盡るまでの行願と心得べし。役小角が遺せる言葉に曰く。学ぶる者は、心朽るなし、人の一生は限りあるも、遺せる心の灯り清明なれば、久遠に通ず。暗に明りを便り、明に光りを閉る勿れ。暗は暗乍ら、明は明乍らの心眼にて三界を見つるべし。信仰に於も然なり。

盲人に灯は無用なる如く、信仰は求むる者をして説くべし。生々に衣食住は不可欠なり。依て、勞々し安らぎを身心に欲す、神なる信仰の儀は、心の安らぎにて、生々貧ける人の心に光りを与へよ。暗に去りて穏る勿れ。常にして陽に當るる道を心せよ。神は全能なれば、身心に修験せよ。心の轉倒を支ふるは信仰なり。何事をも心に拝むるの心こそ、救はれる道なり。修験とは是くありて、神佛の平等なる信仰導とて、世に金剛不壊の道を修験宗とて、慈門を開き置けり。

信仰を以て、己が身心に伴なはざるを願ふ勿れ、常に己が初期の一に還れるよしがを失なふ不可。常々、己が善處に叶ふる道を外るる不可。水に溺るる者は藁を掴むが如く、神への信仰、佛への歸依は、その時にこそ顯るなり。何事を卜占に便る不可。卜占は暗示なり。おみくず亦、然なり。祈祷にて祓ふる己が犯せし科を免れず。依て、神佛説きたる十戒を身心に受よ。戒律なき信仰は外道にして、救ひあるべからず。造惡の我、昔にある者は、一に還りて善生を積むべし。亦、我、人に罪を及ぼさずと自慢する不可。生々に罪なき者は非らざる故なり。依て、生々にある者は、神の裁くる報復のなき信仰への求道に欠く不可也。修験宗は、世に顯はれたる故縁は、是の如き生々の惑を善せしむが故のものなればなり。

元和丁巳年五月三日  大光院 微山

東日流修験大要

佛事

金剛不壊摩訶如来 金剛藏王大權現
法喜大菩薩    神変大菩薩
金剛胎藏両界曼荼羅

神事

神無常相在大自然、號是荒覇吐神、丑寅日本國古傳國神也。

祭文曰

アラハバキイシカホノリガコカムイ、ルガルカムイ、ブルハンカムイ、アメンカムイ、カオスカムイ、ラアカムイ、エホバカムイ、ヤクシーカムイ、シブアカムイ、アラアカムイ、パイシャンカムイ、セイワンホカムイ

元和丁巳年五月三日  大光院 微山

東日流治療法

一、風邪 急場藥
一、梅干味噌を焦せて湯にて呑む。
二、卵酒を呑む。
二、腹痛
一、生蝮焼酎に入れたるを呑む。
二、干せんふり草湯にて呑む。
三、卵大の川石を湯に熱して當る。
三、中毒
一、藍の汁を呑む。
二、苟藥の根煎じて呑む。
四、腫物
一、丸葉または、どくだみの葉を火にあぶりて貼る。
五、漆瘡
一、蟹の湯ガキ汁を塗る。
二、粒油を噛みて塗る。
六、黄疸
一、蜆貝を食ふ。
二、茄子柄を煎じて呑む。
七、咳止
一、梅の核、又は黒豆を煎じ呑む。
二、ニンニク生焼を食ふ。
三、焼きたる梨の汁を呑む。
八、解熱
一、熟せる酸漿を食ふ。
二、玉ぐら蚯蚓を煎じて呑む。
三、蛆カラを黒焼にて呑む。
四、冷水にて足を洗いやる。
九、下痢
一、苟藥又は桔梗の根を煎じ呑む。
十、疱瘡
一、ハコベのしぼり汁を呑む。
十一、凍傷
一、干菜又はカラスウリの根を煎じて洗ふ。
十二、歯痛
一、馬糞の汁を着ける。
二、芥の葉莖をもみ汁をつける。
三、蓮の葉をアブって頬に貼る。
四、ケシの葉を噛む。
十三、眼病
一、深山の冷水に洗ふ。
二、乳を注ぐ。
十四、切疵
一、トリコ柴の皮を刻ってつける。
二、蕗の葉もみ汁を塗る。
十五、オゴリ
一、茗荷を擂鉢にすりて呑む。
十六、痔
一、タンポポの根、牡丹若くは鶏頭の葉を陰干し煎じ呑む。
十七、梅毒
一、ドクダミ根、土アケビの實を煎じて呑む。
二、椿の種を焼きて食ふ。
十八、淋病
一、キミの房、ウツギの葉、ツチアケビ又はイタドリの根を煎じて呑む。
十九、脚気
一、跣で露原を歩く。
二、小豆を常食せよ。
三、山牛蒡の汁を呑む。
二十、腎臓病
一、キミ房、實を干したるを煎じて呑むべし。
二、爪皮も右と同じ。
二十一、くわくらん
一、桃及びタデの葉に湯を注ぎし湯をあびる。
二十二、火傷
一、味噌を塗る。
二、芋の汁を布に浸し貼る。

右、通常保健藥心得

常にして身體強健を保つは、先づ食生活なり。昔より、踊り子は壮健なりと曰ふ。體動にて血走り良きが故なり。依て食欲あり、素食とて美味に食せり。宗教禁句に惑はず、肉とて食ふべくとし、亦徒らに塩漬耳を片食する勿れ。夏に至りて臭せるを食はず、魚・貝・海草の干物を食して安全なり。早老衰を防ぐるは、少量の酒またよろしきなり。まむし酒・果實酒もまた良哉。

物忘れを妨ぐは、先づ学文なり。脳に憶測を与ふる秘決なり。武道またよろしき哉。身心以てなまくるこそ、早逝を招くなり。食生にて起るる病を祓ふるは、蠶を歯にて潰さむこと、洗顔水を二人に用いざること、箸を同用すべからざること、食器亦然なり。常に掌を洗いて、食前の習とすべきなり。藥草を四季におくれず採すこと、四季に外る藥草はただの草なりと覚つべし。

寛政六年八月二日   菊地正庵

秋田之乱

古来、秋田の地は農漁の豊かなる地なり。なかんづく雄物河流域にては、東日流渡りの移民が住着きて稲田を拓き、言葉も訛に異なるなし。然るに、天慶己亥年、倭人の渡黨、此の地を掌握し、地民との騒動起りぬ。倭人は、丸木を掘立せる柵を四面に構えて籠れるも、地民は地湧く黒油に灾ければ、倭人多く死せり。

秋田にては時にして、鹿角黨・火内黨・生保内黨・仙北黨の四族相通じて、米代川・雄物川・子吉川を水源とて稲田、年毎に豊けむを、倭人是を渉りて産物を強奪し、更にして若き娘を引連れゆきぬ。依て先づ是に刃向ったるは、雄勝の由利一族にて、次には象泻の鳥海一族、本荘の鷹羽一族、仙北の平賀一族、生保内の和賀一族、火内の鷹巣一族、鹿角の安日一族なり。

倭人はことごとく討果されしより、倭、暫くの年月、秋田に入ることなければ、地民、富を復したり。然るに倭人は是を狙ふて、陸州より侵しきたれり。依て、仙岩峠・雄勝峠・山内峠に大関を設けて吟味せり。今にして遺れる生保内の大柵は、地型そのものに遺りきも、人知ることなけん。

寛政五年十一月一日   由利正伍郎

倭史之丑寅史

日本書紀の神武天皇紀に曰く、
〽えみしをひたりももなひとひとはいへどもたむかひもせず

内裏和歌題十五首春に曰く。
〽浅ましや 千島の蝦夷の 造るなる
  とくきのやこそ ひまはもるなれ

藤原顯輔

御百首に曰く。
〽蝦夷かすむ 都加呂の野辺の 萩盛かり
  こやにしきのの たてるなる覧

藤原親隆

日本書紀、東方諸國視察歸朝報告書に曰く、
東の夷の中に日高見國あり。その國の人、男女並に椎結け身を文けて、爲人勇み悍し。これを總べて、蝦夷と曰ふ。亦、土沃饒えて廣し。撃ちて取りつべし。奏者、武内宿祢。

現在小祠表に曰く。
客神、客人、客大明神、の名にては、伊勢、伯耆、周防、武藏に在り。阿良波波岐明神、荒録且權現は越前に在り。荒脛門客人權現の神名は、武藏に多し。

古事に曰く。
荒羽波岐二神は共に天石別神の別名なり。

延喜式に曰く。
此の神は御門の巫女奉る。

右の如く公史に逑ぶるも、その要細審かならず、後世なる者の一聞多記に筆延せるありて、丑寅日本を知らざる記逑なり。亦、この他、征夷の記行、然なり。かかる貧践に見ゆ丑寅の日本國とて、古代より山靼と歴史を歩み、倭の知られざる有史萬代の國なり。茲に以て記逑せる諸事の綴りぞ、丑寅日本史の古事にて、山靼を相加ふれば、此の國なる國史の因源を知るべく實相ぞ、倭史を拔かん。神なる信仰も亦、然なり。

我が國は倭國と異なり、もとよりの國號にして日本國なり。日高見國とや化外地、亦住人を蝦夷と曰ふも、須からく倭人の付名にして、國盗りと倶に代々を倭史に染はしむが故の作爲たるぞ、明白なり。丑寅日本國は、吾等が故地なれば、是を住むる人々のほこるべく萬世史たらんを、末代に甦しべきなり。

寛政七年八月七日   和田長三郎

終巻

明治四十二年 末吉、写

和田家藏書