丑寅風土記 第全六ノ三

此の書は門外不出、他見無用としべし。

末吉再書

序言

本巻は、倭史の傳に基かず、丑寅の日本國に於る古傳を、語部諸氏の史傳を修綴せるものなり。

拙者も老令に盡し、眼も書記困難と相成り、細字鮮明の筆走も乱れ、都度の憶覚も混乱しければ、記行の訂誤・字の訂を要す處暫々にして、亦脱字のあるやもせむ處を心して労讀下さるべし。先代の書写なれば、我をして新旧の文も相混ぜしもあり。右心得ふべき事如件。

明治四十四年八月二日   和田末吉

朝熊隱居之譜 原漢書、疏著秋田實季

秋田城之介實季の祖は、太古にして越王阿毎氏なり。阿毎氏、國併に耶靡堆に居を移し、耶靡王初代に君臨せり。凡そ五千年前の事なり。神を祀り、地の聖境に石殿を造り、支那魏、山靼鮮卑、韓の高句麗・馬韓・濊・辰韓・辨韓に交し、自國は倭と稱號せり。爾来孫王、國治安泰たりきも、筑紫の國呉南の民、移り来て地民を併せ、日向王とて君臨し、九州を一統せり。日神を信仰し、暦を知りて、南蕃の妖藥を用いて人心を自在とし、彼の王系ぞ髙天原とて日輪の國とせり。

その國より日向高千穂峰に天孫は降臨せり、と曰ふを地民は信從し、地王の猿田彦は彼の妖藥に心惑ふまま王位を獻じ從臣と相成れり。此等、更にして東國なる山陰・山陽・南海道を長期に渉りて配從し、王居は髙嶋に移し、茲に兵武を備へて満し、遂に挙兵なし倭国を攻むれど、防ぎ强けく日向軍大いに殉ぜり。

依て、南海道・山陽・山陰の地王を併せ、巨勢なる出雲王を併せたる併合軍を挙げて、倭國の要害難波を襲ふたりしも、當時なる倭國王・阿毎氏に安日王その副王とて長髄彦ら、是れに應戦して降しけるに、日向王とて遺るるは佐奴一人となりて、その兄々皆殉ぜり。佐奴は敗王の後を繼ぎ、魏韓の將士を入れて勢を加へ、陸海両攻の大軍にて倭國を攻むるに、難波の倭軍崩れて敗退し、軍誅爲らざるまま遂にして倭國を放棄し、東国に敗退せり。

時の王・安日彦は瘡重き長髄彦を介抱しつゝ、奈古より坂東、更に會津のまほろばに湯治を療し、長髄彦の全治を以て更に北に王土を求め、東日流大里に定住せり。時に、東日流大里にては晋民の移民ありて、稲作を以て地民と睦みけるを、安日彦是に併せて大挙せる從臣らを睦ませむより、地の長老らより安日王選招さるまま、地民古来の聖地石塔山に於て安日彦王立君し長髄彦を副王たりしより、安日彦王、茲に旧稱阿毎氏を攺め安倍氏と號し、丑寅の此の國を日本國と國號せり。

代々子孫をして一系に安泰し、山靼より来たる民をも入れて、陸羽は人に満つ王居を西に移しむ。稲郷、川邊に秋稔せり。神を荒覇吐神と崇拝一統し、王民一稱に荒吐族と號したり。

一方、倭國の故地奪回を忘却せず、常にして山靼の討物を工程に、先づは金銀銅鉄の鑛材に懸念せり。亦、山靼馬を入れて騎馬の技を得、農器を造りてより、大祖の國・越の人々、是に習へり。

國富みて民安かれば、倭にある民、丑寅に居を得んとて移り来たるを制ふるなきに、和睦を以て坂東になる國主、日本國に併合せり。根子彦王の代に故地奪回なりて、倭國に荒吐王を建つれば、出雲是れに順ぜるより、日向系なる者四散し、辨韓・辰韓・馬韓王の地に遁住せる多し。

亦筑紫にては、邪馬壹國起りて、神司なる卑弥乎女王立帝せると曰ふも、その四辺に日向王崩れてより、對島王・一支壹岐王・伊都糸島王・末盧松浦王・不弥糟屋國王・那珂王・投馬髙嶋王・逆鉾日向王・熊襲筑後王・隼人薩南王・南海道四国王・内海瀬戸王ら、たむろしけるも、卑弥呼女王の神示を崇拝にありければ國勢强く、茲に魏朝との交りもありて聞こゆ。

卑弥呼は倭王とも交じ、時の王・大根子王に邪馬壹神殿を獻じ、自からも神祭にまかりて爲せり、と筑紫磐井古事記に見ゆなり。此の神なるは、天神・地神三十二柱にて、國を造り民を安らぐの神とて、天の理・地の理、そしてその大元を宇宙となせる神々の想定と、神に舞歌を捧げ、女人のみの神示・神司にて、能く崇拝されたり。

邪馬壹國に護るは、磐井連・磐舟連・宇佐連・筑野原連ら十萬餘の警警にぞありき、と傳記遺りぬ。依て、倭にありき荒吐神多く廢され、神器は土に埋められ、亦破して捨つる事各所に起りぬ。是の聞え日本國に達し、根子彦を責にければ根子彦聞入れず、邪馬壹の神々に武具を奉納仕り、荒吐神をその門神とて神格を降し、坂東より越に到る川岳溝を境として、丑寅を倭國の鬼門とて、越糸魚川・坂東の安倍川を、東西の渡りを禁關とせり。爾来、倭國と日本國は東西に相分つて、今日に尚意識せる處と相成りぬ。

是の如く秘めにし歴史の裏腹を、倭史は隱密とし、日本國を蝦夷とて今に遺れる實情なり。やがては邪馬壹王・卑弥乎入寂の後にては、西國處々に遺るは山なせる王墳の跡のみにて、世相襲極は一変せり。

神々はその國主をして己神様々にて、天地八百萬神の多神崇拝と相成り、茲に倭王は是を一統崇拝せんとて、倭の東海なる志摩に聖地を構へて神宮とし、邪馬臺の神殿を移しめて社造りぬ。是ぞ、今になる伊勢大宮なりと曰ふ。武勢に以て諸國一統し、和睦になる處に神殿をなせるは、出雲大社・宇佐神宮・大島山祇宮・熊野宮・葛城宮・磯城宮・日吉宮ら、是なり。

代々降りて倭朝に逆らふは、筑紫の磐井氏・熊襲氏にて、永く抗せるも降りければ、その鉾先ぞ此の丑寅に押領し来たるは、世に曰ふ征夷にて、吾が日本國を蝦夷とし、國を化外地とて、倭の國賊とて遺りぬ。然るにや萬世に一系たる安倍氏は、安東將軍亦は日本將軍とて丑寅の覇に在りせば、代々の倭王是を征するを能わず、世に前九年の役を以て安倍一族を降しめたるも、その胤は東日流藤崎に再興なし、姓を安東と攺め、北海の領を擴げ山靼國との交易にて榮ゆむ。

然るにや官軍とて陸羽に謀々奸計にて、討伐を果したる源氏は代々に遺言なし、丑寅の掌握を心得たる手段や、傳に飾りて遺したるとも、その實裏ぞ忿怒にきわまる間謀の計なり。呪はれし源氏は賴朝が滅後をして、子の代に終焉すともや、次になる足利氏官軍となりて、賴朝の子等を謀殺せる因果に北條氏は亡び、官軍に反旗なして南朝を敗り、幕府を以て天皇を掌握し、その幕閣たる南部守行をして陸奥に入らしむるあと、子孫にあるべくは東日流に攺めて永き乱をなしけるも、安東一族の根深なるに窮したり。

渡島・飽田に再起せる代々の安東、その主家に我あり乍ら、今にして朝熊のわびに己が先代の物語を筆なし、幕府の犬、尾振ふ輩にいだす我が系譜に、日本攺め日下ぞと記しきは断腸の想なり。右如件。

記書、元和乙卯天星日   秋田城之介實季
書写、寛政五年七月一日   秋田孝季
再書、明治四十四年八月三日   和田末吉

追而

謹んで城之介實季公の御心を拝し奉る。

末吉

東日流語部之事一、

今ふとどあ語部ばとどろくねえ話ばれ語るししばたてわ作ってさべる話でねでばなわなどばもじやしみねしたりなもねごと話したりしねぢあ。昔から蟹のしっぱと禿頭の毛だば抜けねべせだはでわさべるはなしだともねでおらけあ先祖の話だどもてきでけへぢあ。

まんづ東日流の話この前にこのくさどっから先祖のふどあきたべな。なでもふとあむしけだどごあせ山靼のぶるはんどおりんぽすのかおしどないるてーどごのらあどあめんてしかみさまどめそぽたみみやのるがるてしかむいだぢあ土ど水でこへだもんだど。そたとあるもだなてもるべわもそもてらねだばて昔の話こだはでまでねききへぢあ。

ふとあかむいば信じなくなればなもかももしれぐなねべかむいがあるはでおらきあ生ているともればかむいあいるしなもねどなればふとねまいだあできねべせだはでなどあわさ鳥あ親だな卵あ親だなてきでもわでもほじねぐなでばな。

そたごと聞く者あ親さ向ってわばもてけれて賴んだがと聞めんたもんだ。ふとでもなでもじっと昔ねお日さまど土ど水がらむしけだかひけらめんたものがら藻草だけねなてそれがら虫めんたものねなて魚だけにじよじよのながまがら手足あでだいもりだけねなて陸さあがてねずみかもぐらだめんたものになてがら猿めたものねなたどそのなががらふとあむしけだど。

さきたさべた神さまどあ生てるものみなさ男と女ばこへで男ば種女ば腹さその種こばおがらがし袋つけだどそれで男ど女どねぱればあづましくしたどなどあだんまのしよべしたあどだけね笑ばたてほとたべせだも男あ女ば好ぎだし女あ男ば好ぎてねぱるべかむいだちあいものつけでけだべ話ももしろぐねばあぎるはでさべるばてびっきあむしけでも男の種こでも女の腹さはてるづぎだばなも男だが女がわがらねべせこれやせ神さまこへるもだはでなぼがばても男ばれまれでくるじもあるしまだめんたこばれまいでくるじもあるだど大昔だば先ね男あまれで次ね女あまいれば大きくなていしょにしたもだどしたばて男ばれだの女ばれだのむしければどしごともなねでよめこねけだりもごねけだりしたもんだどまかずのなかね好連こしものもあってほがのあぱばひでねげるものもあたり男ばひでねげるじもあたど。

ながねあぱあるあやでも他のめらしどねげるじあたど。これもかむいだぢあふとの心ばたぶらがいてらでねなこたごとだばまねなけやぐのあぱばひでねげればののこあめじしまでぶたらがれだり殺されだりしたもんだど。そしてねげでもいばたてもじょよイのはびきどだでばだでもめぐせしあどさくる男でも女でも自分でもたわらしでねばめごくねしなんぼしんしゆい家でもいぱだになてまてかまどけしものあたどまかつくつどし話になたどごで昔話さもどるぢや。

むかしのふとあこたごとあるはでいぐねごとばたでふごくにおひだもんだよくおべでけろこれごとしみつていふもんだ。

まだまだあるども、こんだねして、次に諺こばしらひるはで、

右の四十八もある諺こみなおべでらななどあ親がらときたまきだごとあべせま語部も同じだどもおらだぢあ親がら語るごとばれおひらひで語るごとあでぎでも語てらごとなもやたごとねえはでわばさがしもんだどもねでけろ。七つ八つがらしこたまおひらいでもこごまでおべるねただでねふていなべさかぐれだりひんちさ糞けぱても泣いだもんだね。

おべねばみしかひねべかぐぢの瓜ごと喰たりたなげのじやこごとなまで喰たもんだ。むったと字書がひだりしても紙もねべ。あぐさ書がひでかげばけでまべおべるきあんても消でまればいつね前のごとわすれでよぐしぼどのきしねでひんかされだもんだ。おやじあ生ぎでるづぎだばはやぐくたばればいどもたばていまねなればおやじねかて毎日ひんかさいでも生きていればなあど夢にみだり思いだひば涙こあではてくるぢや。これがらおめだぢさ聞がひる話こあおやじがらわ聞でおやじあおやじの親がらわおやじねかてひんかさいだように傳へ覚いされだもんだ。とのちばれ。

文化壬申年十一月二日 語部語邑、三次談

東日流語部之事二、

わいさなね話だばてこんだわさ語ってけろてしはで、これがら安東様の話こ語しぢや。安東様の本當の話ひば目明しねかてひでいがいがいるどもひでいかいねていどにこれがきつけで語るども、口あしべってしまればしかだねでばな。

昔安東様は東日流の殿様で上磯から下磯まで藤崎と十三さ城こひで治めでいだどこさ。南部がきた守行だの義政どねかて、應永三十四年がら嘉吉三年まで十六年も戦して東日流あ荒れでまて、盛季様ど次の康季様と先ね渡島ど秋田さべだ城たでで移っただど。

だばてその孫様ねあだる義季様ど後泻の政季様てし若げ殿様どあ西ど東さ別れで新らし城こひで構いだど、西さ義季様が狼倉舘ど髙舘は築いで東さ政季様が鉢巻舘ど摺鉢舘ど築いで馬だの戦道具たのば集めで、まだろぐだね仕たぐしねうづね目安上ねかて南部さおべらいで余念も無いどこさ、両方一緒に攻めらへで義季様は秋田さ遁げだども、後泻の政季様だは捕はれでまたど。

そして糠部さ連れでいがれる途中の浅舎蟲じどこで宇曽利の殿様で蠣崎藏人様ね助けられで、宇曽利さお客様ねなったど。この両方の城あ落だじきの年あなんでも寛徳四年の八月のぬげいじぎであったど。

まこれで東日流さ安東様いねぐなてまたばて、人ばごっそらど秋田だのマツオマナイだのさつでいてまて南部のてらどあてっぺ寶物ごと取てまねかがたばて、どごもこごもぬげのからで、だもいねで荒果だ田畑さチョチョジ鳴いで、南部あ馬鹿だ馬鹿みんだど聞けだどまだあっけらどしてれば行丘の北畠様だの飯積の朝日様ねかて戦しかげられれば、どしごともなねで南部のてらどあ糠部さもどったど。

こた戦してらづぎでも安東康季様は若州小濱にある勅願道場羽賀寺ば建だど。この寺せ火事で焼げてまたばて天子様がらなんとか建でけろて賴まれで日本將軍なめこで今も遺てるど。とっちばれ。

文化壬申年十一月二日  語部語邑、傳介談
和田長三郎聞書

明治四十四年十一月二日   末吉再書す

東日流神語部之事

一、イタコ口説

さてもありがたや、神々の御力を世界四方八方に賴み奉り、東に東王父・西に西王母・南にシブア・北に北斗の大魁、その間に奉る丁方女媧・未方伏羲・坤方ブルハン・申方トウテツ・庚方ルガル・辛方ガイア・戌方カオス・乾方ポントス・亥方ネレウス・壬方オオデン・癸ポルキュスやケトの二神・丑方イシカ・艮方ホノリ・寅方アラハバキ・甲方ガコ・乙方ラア・辰方アメン・巽方ゼウス・己方クロノスやレア二神・丙方にイホバを拝み奉り、天に仰ぎホオライ時なる女神モイライなる運命の女神アデイケなる正義の女神ムウサイなる學文諸藝九人の女神カリテスなる美の神三女神を拝し、地に伏してヘラよレトよデイオネよマイアよデメテルよヤメレよテミスよムネモシュネよエウリュノメよアルクメネよ、是のゼウスなる女神の産なせる天創・地創・海創の神々に顯れいでたる宇宙の星神、地なる萬物海なる萬物の全能あらしむる神々の神道を以て、世に人の聖り教主とて顯生せる神の降し給へる世界の救世主ら御靈を、わが盲しい眼に顯し給へ、口に傳へて救へ求める凡衆の願ひを攝取なさしめたまえと、とこそかしこみにかしこまりて請願御奉逑仕る。

オロロシンバラ・紫黒赤白碧黄・フッタレチュイ・オホホウカムイノミ・ナウマンテジャラ・ヌササン・木火土金水・カムイオホホウイオ・オホホウイシャホウ、茲に神なる汝の諸行に御告を降し故、夢疑ふ勿れ。

さて申せよ、汝の願なる筋は世に去りし者の言葉ぞか、病の療法か、人の恨事か、恨復か、家貧の苦しきか、神なるわが身代に告給はけよ。オロロンシンダカワムレ・アラハバキ・イシカホノリ・ガコカムイ・玄武・朱鳥・白虎・青龍、天力・地力・空力に渉り来て傳へ挙れれかし。法に三法あり、願心違ふれば汝に罰あり。正願なれば救ひあり。祈なれば障除ありて加護あらん。

昌泰己未天星日   伊𨹔乎 津奈

二、ゴミソ口説

オオホホウ・アラハバキ・イシカホノリ・ガコカムイ・オロロシンバラ・ドカブリドダレ・ホオオホホ・ブルハンカムイ・オウホホオ・カムイイナウ・ジャラヌササン・マンテ・ソホロシンバラカムイ・春夏秋冬・寒暖風雪雨天風雲地生死水空力・動靈動神通力全能神、願はくば御力に我が身心を委ね奉り死して常世ジャンバラヤ生きて安らぎの生途を与へ給へ。願はくば生老病死なる時運なる間の生々に衣食住の安からんを祈り、勞々に諸害諸難の蒙らざるを心願仕る也。

わが神アラハバキイシカホノリガコカムイよ、山靼にあるべく神々、北天の重力になせる不動なる神魁よ、バビロンなるルガルの神々、ナイルのラア・アメンの神々よ、宇宙の創なる神カオスよ、地を造りなしたるガイアよ、海を造りなしたるポントスよ、時を造りしホオライの女神よ、萬物の運命の掌握せるモイライ女神よ、惡を滅し正義を護るアデイケの女神よ、總ての學藝をなし未来を預言せるムウサイ九人の女神よ、汚れを拔きて美をなせるカリテス三人の女神よ、わが心に湧せよ神なる告を。その告あらば吾衆に説きて除災除難を告げなんことをかしこまって代辨せんや。是れ叶はば御前に贄を捧げん。

御味蘇 津祢

三、オシラ口説

世にありてある神アラハバキイシカホノリガコカムイ、汝よこそ丑寅日本の國神なり。世々をして神通力をいだし、人の世を治めなさしめ給ふ神なる天地水のなかに萬物は生死を轉生し、今上に到らしむ神のあるべくは相に色に香に物に質に非ず。無より出づるを神と曰ふなれば宇宙もかくなればなり。世々神と崇む多けくも、人は死を怖るるが故に邪道魔神人の想定なせる偶像を奉りて神となし、人師論師是奇辨に惑はし聖教と説けるも崇みて何んの巧なく、自得の迷信に堕いなむ。

神はあるべくしてあるものなれば、人間の心に感得及ばざる彼方にありき。依て神を信仰せるは、その彼方にあるべくを信仰にて、離の近遠に非ず、神の救済を己れに得べく信仰の眞理をぞ、心にして救済にありける信仰と曰ふなり。死を怖る勿れ。人耳ならず萬物の生死は生死とて心得べからず。現世を、時あり死ありとて心に安憂を想ふべからず。本来物質に籠りたる魂の世に遇う時空に越えよ。神ありてあるものの如く、我ら相ありて本より相なきものに宇宙とて世にある總て無よりいでたるものにて、無なるなかにこそ不滅の生命魂ぞあるべきを知るべし。依て人にて造れき諸行は無の常なりと覚つべし。

昌泰己未天星日   於白 津岐

右、神語部之書は皆語印なれば、讀むを可能ならしむるが故に説きたるものにて、今になるイタコ・ゴミソ・オシラの以前なるものにて、いまは名稱耳なるべし。何れも今にては倭神佛教にてその教法神示ことごとく攺まりて昔影なしと申添ふなり。

文政己丑年八月三日   語部録㝍
和田長三郎權七

在無時空我等

水は固くして凍氷となり、解けては水となり、無機・有機の物質と、湯の如く相混じ易く、萬物の生命體を造れり。水は冷に凍り、熱に沸き、冷に保つ、熱に保つ。沸騰せば宇に昇り、空に浮きて雲となる。空に寒暖を爲しては、風・雨・嵐・雪・霧・霜・露・霞をと変化す。その動化して物質なる有機・無機を相混成せる生命體を進化せしめ萬物を造れり。

是れ即ちアラハバキガコのカムイなりとて、古代より神とて拝むは丑寅日本の國人なり。大地に水ありてこそ、萬物は成れり。人の體をして七割を占むるは、水の化合物質なり。水の生命體に含まる異水はなけれども、生類雨質にて異にせるなり。水をして地底一萬尺も拔きて地底を流動し、如何なる處にても掘りては湧くるなり。生命あるもの、一日とて水を體中に保たずして生々のあるべくもなし。

大海・太湖・沼・泉・湲や川みな乍ら天なる日輪・月星界の光熱と冷光にて世界に菌・苔・藻・草・木・貝・魚・鳥・獣の生命體を作りきは、天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコのカムイにて成れるものなり。その以前に無のなかに起るべくして越重力にて光熱起り宇宙は成れりと曰ふ。

抑々かかるを神とせる、丑寅日本國の神格とせるは、今世に優るる迷信なき信仰なり。依てかかる神なるを、是の如きに念を以て信仰に入りてこそ無上也。

明治廿年十月七日   和田權七ママ

行丘舘禄

應永壬午年七月卅日。北畠朝臣萬小路顯成中納言卿、飽田川辺郡自岩見澤舘主和田氏舘食客。後土崎湊安東氏、之依赴東日流藤崎城。時之舘主安東京役管領自安東太郎貞季仰迎、与領奥法郡行丘舘住顯成、召岩見澤和田氏任家老。茲行丘城初代宣布依朝廷南朝方拝大納言東日流検非違使別當。

二代親成之代起南部守行應永庚寅年十月任足利將軍之推挙任陸奥守、得宗領櫻庭駐留。時之藤崎城主安東教季迫内三郡幕府領引渡、是制權理北畠朝臣親成也。然應永丁未出来秋正長戊申年汗石川水騒動發端。茲南部對安東両氏起兵挙。永享庚戌年八月廿七日落藤崎城。依朝庭北畠親成爲無官。

天文丁未年五月廿日  吉町出羽

行丘北畠系抄

陸奥國奥法郡行丘城は永享丁巳年八月、本舘を天狗平より中野原に移せり。引水濠を爲し出城を髙舘に築きて、黒石になる工藤勢の虎視に構えたり。時に、南部氏利暁を入れて十三湊の攻めを留むれるは、北畠忠具の宰領たり。然るに南部義政、十三湊攻めを放棄せず遂にして、外濱に巡視せる南部義政の仮陣に狙矢を放つ潮方重季の家臣の不覚を口實に、永享庚申年五月二日遂にして十三湊なる安東盛季を奇襲し、屍を越えて外三郡の上磯に、一萬の兵を二手に分なして、西は盛田大舘及び權現舘を落し、十三湊中島柵までを焼灰とせり。

東は、下切道の要所中里舘を落し、乙部地砦を拔きて、今泉なる太郎山の青山砦を落し、一挙に西攻めの軍を併せ、羽黒砦を抜き、山林に火を放って福島城を難無く落しけるも、鏡舘丘新城の安東勢に大敗し、嘉吉辛酉年までに攻伐なけるも、同癸亥年五月、糠部より新手五千騎を寄せて唐川城を圍むも、攻て難攻不落なれば圍みて同年十二月、不知に安東勢ことごとく領民とも東日流を放棄し、遂には秋田・渡島へと移りきに、北畠氏是を哀みて今になる重腰を挙兵せんとせば、南部氏兵を一兵遺さず外三郡より引退せり。

若し行丘起っては、内三郡になる南朝の落武者ら、北畠氏がもとに集せんは必如にて、是を察したる義政の判断ぞあやまらず、津輕の大乱ぞまぬがれたり。

爾来行丘にては、三代忠具・四代具家・五代俊具・六代具永・七代具定・八代具運・九代三郎兵衛尉にて、天正六年七月二十一日、大浦爲信に北畠家は遂にして戦灰となりにける。

寛永壬申年八月一日  山崎基顯

北畠家諸史逑抄

文明庚子年、奥州奥法郡行丘主・四代具家の時、京師より天眞名井宮、東日流に来臨し、江留澗・吉野に仮陣し、菊川を降りて中里宮野澤に古川傳兵衛に御留宿せり。宮は一束の稲種を賜りければ、古川氏是を悦びて、即興にて唄踊を御奉上せり。その唄に曰く、

〽天の宮奉拝奉拝奉拝じゃな
  奉拝奉拝稲や良く稔る
 右は今に献るホーハイ節の創り

時に、御酒良く好まれし宮は大悦し、十月六日飯積髙舘城に朝日三郎左衛尉に會し、足利討伐の御宣を御謀れども、主城北畠氏の御決断に委ねたれば、十日に行丘に御成あそばしたり。萬小路具家、宮を迎へ申し世襲の戦國を憂い給ひける。

然るに宮の仰せける挙兵たるは、興國の津浪を以来、安東一族の京役の地も今にして南部との戦とて元の木阿弥たる葦原となりける。大里、亦興國の津浪以来の住民の移出のなる、津輕の内外郡の住人も安東の主筋に離れず去りにける跡なれば、今に訊ねて藁しべも残るなしと奏上され、宮は詮なく俗人に成ませて行丘の城邸に御定着あそばしぬ。

北畠氏は、宮と城をして同居にあるべくを怖れ多しとて、葛野に御所を築きて住はせたり。時に藤崎落城来、行丘北中野に穏住し藤崎再興を祈りき安東義季の遺児義景、その妹白取姫、盛り盡して北畠氏の室と相成り、俊具と兄妹たるソデを宮は御室とし、三男二女を遺したり。子孫にして天内氏・天坂氏・天藤氏を姓とせりと曰ふ。

宮は安東氏を藤崎に起したるも振はず、宮御自身も天内とて俗人に相成り葛野に生涯を了し、永正乙丑年六月二日入滅され天狗平に葬むられたりと曰ふ。

寛永丁丑年十二月一日 髙野邑天内賴仁

行丘炎上史談

萬小路朝從五位下式部少輔北畠具運の代にて、行丘次繼をめぐりて騒動起りぬ。具運五十にして實子無く、庶家なる具信、後目相續をなさむに定まりたるに、永禄壬戌正月二日具運に實子惠まれたり。依て具信後目相續を廢されしに、具信その息子共に是幼君顯村を暗殺せんとて穏謀せしも、事あらはれんに主君具運を殺生に及びて、速日にして瀧井左衛介顯範・和田五郎佐馬之介ら、具信を行丘川原舘を攻めて誅滅せり。

かくありてより、顯村こと幼名八幡丸、六歳にして九代を継君ならしめたり。依て領治一切は、叔父顯範が補佐せり。時に顯範、常にして飯積下磯下切權驛主たる萬里小路朝臣朝日左衛門藤原行安及びその舎弟たる上磯十三湊總督樺澤團右衛門朝臣藤原行貞と對面なし、行丘御所萬代ならしむために是を企画せしに、先づ以て顯村を奉りて家系を威せんと、秋田の檜山城主安東愛季の女子を室として顯村に腰入なしたり。愛季息女、愛子と稱し、長男安東秋田城之介實季と同腹正室の息女也。

然るに是を良しとせざるは、大浦城に勢をなせる養子とて迎へられし久慈平藏攺め大浦右京爲信にして、天正六年七月二十一日三千の馬兵を挙し、藤崎舘の安東顯季を血祭りに落し、一挙總行丘城を囲みて、先に隱密を入れたる長谷川甚左衛門ら城中に灾り城門を開けるに、應戦長時のなきまま行丘城は炎上せり。

爲信が行丘攻めを決したるは、顯村に依りて破門されし和田佐馬之介の追放と、補佐役の顯範が急逝に意を決せりと曰ふ。時に、顯村・愛子倶に下切道を十三湊に抜け、樺澤團右衛門がこれを援け、能代湊にその從卆各百八十七人ことごとく檜山城主安東愛季のもとに安着せしめたり。愛季は顯村を茶臼舘に迎へて、その一族郎黨とも安住せしめたりとは實史なり。

正保甲申年五月三日   秋田屋儀介

北畠家後史諸説

行丘城之落城以来、霧幽の史談もっともらしく諸書にあれども、何事の證なきもの也。津輕記・浪岡系図・永禄日記・靈山記・浪岡氏系図・應仁武鑑・奥南落穗集・長山家記・南部世譜附録・伊達行朝勤・王事歴・順守録追加・南部文書・南朝公卿補佐・細々要記・南方記傳・大日本史・氏族志・津輕・郡中名字・津輕一統志・永慶軍記・津輕藩史・南部系譜・三春浪岡系譜ら、主要を以て書替、亦は加筆の文記ありて、眞を曲折したる多し。

依て茲に、右なる要史にいでざる史實にては、飯積髙楯城傳記・萬里小路北落記・天眞名井記・十三後記らの記行、一切無視又除外に伏したるを以て、今になる浪岡史なり。是ぞ藩圧あるものとて、故意の抹消也。

文政己丑年十一月一日  川越忠継

行丘下・切遣道

下磯石川より平賀・黒石・行丘・髙野・蒙古澤・原子・俵元・野里・神山・松野木・若山・戸澤・石田坂・金山・天神・川代田・飯積・岩村・柏木・嘉瀬・忌来・夷地・加奈岐・藤枝・大澤内・中里・尾別・移夷地・今泉・鮎内・十三湊・磯松・下舞・小泊・上磯・龍飛、東日流の上磯・下磯から果に到る此の道を下ノ切遣と稱し、是れに中山切通し・阿闍羅切道し・岩木山西廻り・東廻りは舞戸に到らしめ、舞戸より七里長濱道・行来川水路を以て十三湊に到しむは古来道なり。川湊は藤崎舟場・板野木舟場・大原舟場・御所湊舟場・赤堀舟場・藻川舟場・鳴戸舟場・神原舟場・田茂木舟場・砂力舟場・若宮・水戸口・戸狹水戸口なり。

寛永壬午年五月一日   川舟頭与衛門

起不語丑寅之大誌實相

古今にして人の歩む諸行の、歴史權政を欲しいままに民族の智能を制ふるこそ、成らしめたり。世界の窓を閉ぎ、百年にも遅智の民として、倭政は二千年の故事を今になしけるは、いつしかに國運の崩壊を招くは必定なり。

民を大事とせざる國治のありかたぞ、民心に潜在せる歴裏の眞實を閉ぎ制え得る事の、べからざる蜂起を必ず招くなり。民ありてこそ、國あり。民富みて國榮ゆるも、政權にある獨裁の者を誅せずば、萬民の命脈は自由なき奴隷なり。何故以て、天地は國主のものなりや。何故ありて、天命をも捧ぐべきの從生を蒙らざらしむや。

神は萬物のものなれば、人をして人を制ふるの權、何事あっての獨断ぞ。國治は萬民の一致に進路ありて、人の道は世界に通ず、開化は成れるものなり。自由民權は、丑寅の民にこそ不可欠のものなればなり。一統とは制にして、自由は發展なり。發展即ち國力なり、英智なり。

自由ありて、人自から善惡の法を自由民權護持しべく、立憲は萬民救済のものぞ、無幻想幽のものなればなり。眞の神は、もとより相無き靈力にして、世にあるみなながら神なる神通力にてなれるものなればなり。

國王たりとて、人の生々を異に生々なく、神なる授身に非ざるなり。依て、民心を併せて國造るべきの世を挙く可。

明治十五年一月一日  三春自由民權黨

安倍歴抄系姓

一、安達氏
安倍安國次男昭安系。宮城郡住陸前一帯子孫庶家多。坂東諸国攺安藤氏・安井氏等姓在。
二、金氏
韓国金暁雲系。舞草刀鍛冶之元祖。子孫安倍多臣下出羽・坂東・越州、亦攺金丸氏・金井氏・金田一氏・金田氏等姓在。
三、安保氏
安倍致東次男系。以安保陽善爲祖。陸羽一帯子孫分布。攺平氏・久保氏・大久保氏・大田氏・久保田氏等姓在。
四、安部氏
安倍長國系。次男長賴以爲祖先。諸国子孫分布。攺矢部氏・田名部氏・刑部氏・大部氏等姓在、更川安氏・安川氏姓在是。
五、安東氏
安倍髙丸系、安倍髙星系在、多累日本六十餘州。攺坂東氏・東氏・伊東氏・東條氏・東藤等姓在。
六、安藤氏
安倍之庶家系、安倍宗家分家衆也。庶家日本六十餘州分布。攺安西氏・藤田氏・藤井氏・藤原氏、他姓在。
七、安田氏
安倍継人系也。陸羽・越州・坂東、多分布。攺安川氏・田代氏・田口氏・小野寺氏・浅利氏・小野氏・由利氏等姓在。
八、安積氏
安倍安尭次男系也。陸羽・坂東・京師・畿内分布、多子孫。攺穂積氏・阿久津氏・日原山氏等姓在、更積石氏・石川氏・石田氏在是。
九、安代氏
安倍國東次男系也。多子孫山陽・山陰及築紫。攺安東氏・安藤氏・代田氏・千代田氏・松浦氏等姓在。更松田氏・髙橋氏・葛西氏等是也。
十、阿部氏
孝元天皇之累也。一族興越、代々船師司、後世継體天皇入倭國、子孫多畿内諸郷爲入宮。自日本國糸魚川安倍川東西境。陸羽海攻比羅夫在史談。
十一、清原氏
安倍國東三男阿倍清人之系也。住出羽及秋田。子孫攺姓稱清原氏爲宗家、仕安倍家臣下、逆康平之戦。後三年一族滅亡。
十二、秋田氏
東日流藤崎城主安東髙星丸之一系也。永年東日流上磯下磯支配後秋田檜山移領、前主土崎併茲攺姓秋田氏、主流三春藩大名也。
十三、中畑氏
祖安倍致東之流胤也。子孫奥羽前九年役召安倍氏、陸奥衣川關守。康平五年厨川大夫貞任次男髙星丸守護、東日流藤崎居住。
十五、菅野氏
安倍國東之胤也。築紫國東大元神社之祖累磐井氏倶陸奥来着、稱住地磐井。更白川伊東磐城氏・岩代氏等。子孫攺姓多地住甚。
十四、藤原氏
祖安倍天皇之橘氏之流也。丸子氏入倭、一族皆稱藤原、依丸子氏・橘氏以子孫也。安倍氏之大祖系平泉將軍然也。
十六、前澤氏
安倍安國之系也。稱姓地稱以、元姓安倍氏。子孫代在日本將軍臣下。庶家前田氏・前川氏・澤田氏・阿倍氏・阿部氏等、在坂東・陸羽。
十七、柴田氏
安倍頻春之系也、在宮城。子孫其系田川氏・紫倉氏・田辺氏・櫻井氏・本田氏・木田氏・夏川氏・福島氏在諸家。
十八、黒川氏
安倍晴明之系也。住子孫山城・大和・坂東。攺姓者阿河氏・阿蘇氏・物部氏・笹川氏・伊沼氏・戸田氏他。安藤・安東・安保稱在。
十九、村山氏
安倍國東之流也。初代國尭姓攺村山出羽八郡總領主也。子孫、村井・村口・木村・田村・光村・川村・今村他在多。
二十、北浦氏
安倍六郎之系也。飽田男鹿大泻以地稱爲氏。子孫、櫻田氏・相川氏・土岐氏・森氏・飯田氏・北村氏・大河氏・鬼川氏等陸羽越在。
廿一、糠部氏
安倍富忠之系也。子孫各攺姓宇曽利・閉伊・渡島・外濱多在。主筋攺姓糠部氏・糠塚氏・飯塚氏也。
廿二、火内氏
安安東之系也。在奥羽、代々産金爲営。子孫、物部氏・大伴氏・近藤氏・今氏・神氏・巴氏・金氏等一字姓多也。
廿四、伊達氏
安倍安國之系也。陸羽・磐城・岩代累孫多住。初代出羽以勢入安倍臣下。子孫攺姓在伊具氏・亘理氏・蒲生。
廿三、會津氏
大祖安倍國東之流胤也。初代稱會津氏。子孫攺姓、下坂氏・曽我氏・飯山氏・伊倉氏・東郷氏・帯刀氏等。庶家多磐城・岩代・出羽・越干。
廿五、白川氏
安倍致東之累也。一族在坂東、子孫地稱以爲姓。熊谷氏・武藏氏・利根氏・鹿嶋氏・江戸氏・豊島氏・秩父氏・大宮氏等、多庶家。
廿六、田澤氏
安倍北浦六郎之累也。生保内築城柵、厨川柵之隱城爲、役目兵糧十二年安倍氏之戦、満仁田澤藤七郎也。子孫攺在角田氏・太田氏。
廿七、和田氏
旧姓三浦氏。平小太郎義盛之系也。建保三年攻北條氏一族、崩滅。朝夷三郎義秀、秋田川辺郡岩見澤落着、遺子孫。
廿八、伊藤氏
丸子嶋足、安倍智任之累代也。子孫大和奥州二處離住、即丸子系大和住也、安倍系奥州也。故丸子氏移大和、橘氏縁住遣安倍天皇。
廿九、相川氏
安倍國東之累也。火内鹿角領主相成、攺姓相川氏。子孫攺姓者相馬氏・加川氏・古田氏・古舘氏・古川氏・古寺氏・古泉氏・古沼氏、多姓在是。
卅、佐藤氏
源氏之胤也。源氏滅亡之後、攺佐藤姓、仕安東髙垣、山靼交船之主將相成。子孫攺姓、藤林氏・藤枝氏・藤山氏・藤田氏・藤村氏等在是。
卅一、秋月氏
安藤季久之累也。在十三湊安東船回船之長代々。庶家攺姓、秋元氏・秋野氏・秋盛氏・盛田氏・秋村氏等在是。
卅二、川辺氏
祖安倍致東之胤也。飽田川辺在住以爲姓。子孫攺姓、川中・田辺・和嶋・和賀・和河・黒澤氏等代々在陸羽、生々一族安倍氏仕候也。
卅四、斉藤氏
安倍導照之累也。導照即良照之事也。前九年役後二股邑仙岩峠麓在方丈入佛道。若生存遺兒攺姓斉藤、陸羽子孫遺今。
卅三、名川氏
安藤頻良之累也。在陸羽于子孫攺名川氏、其累代渡島之名寄氏、流鬼之豊原氏、山靼之在李山氏遺子孫異土。
卅五、鈴木氏
安倍賴良叔父安倍髙良子孫也。在陸羽一族攺姓鈴木、亦庶家鈴本氏・五十鈴氏・名久井氏在郷氏族。
卅六、東條氏
安倍國東之累也。在陸羽姓攺東條氏、一族出坂東、故以攺東條氏。子孫、北條氏・南條氏・西條氏、遺諸國都々浦々。
卅七、福田氏
安倍長國之系也。子孫攺姓中曽根・大利根・小枝等之宗家也、代々地豪也。坂東居住多、亦筑紫在子孫。
卅八、新戸部氏
安倍富忠之系累也。在糠部爲地豪。庶家攺姓、南部氏・苫部地氏・向氏在三氏、是糠三豪士曰也。