丑寅風土記 第全六ノ四

荒木流之事

秋田孝季は幼少の頃、荒木又右衛門を武藝者とて、陰流を能く学べり。荒木又右衛門を自から筆なし、仇討本懐を遂げたる段を今に遺したる自著なるは、人を皆集めて語り、旅費稼ぎとせり。亦、荒木流の手引・剣の極意・陰流の奥義を武家衆に教ふるも、都度にありて、旅に曲者からみても、怖れ知らざる剣客たり。

然るに五十歳を過ぎしより、何事の心攺りぞや、帶刀せるなく諸國を漫遊せり。安倍一族に縁れる史跡・文献・縁者の訪問に餘念なかりきも、事、荒木又右衛門の話の事になりては、能く語りたりと曰ふなり。秋田孝季の心中に荒木氏のあるべきは知る由もなき乍ら、遺著なる「荒木武藝帳」ありて、秋田氏の心中を悟るべし。此の遺著は自からなる史編のいとまに記せしも、その書初は安永乙未の年なり。史と異なるも、大事に保存すべくを茲に逑置きぬ。

文政五年八月二日   和田長三郎

陸羽之古代海運

大河の水戸口東日流(津軽)は岩木川(往来)と十三湊(戸狹)、糠部(奴干奴布)にては馬渕川(安日)と糠部湊(都母)、飽田(秋田)にては米代川(世祢志呂)と能代湊(怒志呂)、雄物川(高清川)と土崎湊(北浦)、八郎大泻(日積泻)と男鹿湊(漢山)、子吉川(鳥海)と本荘湊、出羽(羽前)前の最上川(新庄)と砂泻湊(酒田)、越州阿賀野川(豊宋)と信濃川(大越)新泻湊(双河)、陸後の閉伊川と宮古湊、北上川(日高見)と石巻湊(石神)、阿武隈川(梁津)と亘理湊(岩沼)、夏井川(那迦井)と磐城湊をして、丑寅日本國古代なる舟寄場なり。

もとより海川の漁をせし、古き世々の人住める豊けき處なり。東海を温寒潮、西海流、藻潮とて、古人はその海域を知れり。

東日流海界國記に、次の如く記逑遺りぬ。
東海千里彼方在鷹族人大國爲大森林大草原天然群野駒野牛轟蹄大地震駆巡稱住人鷹族加之大陸自北夜虹國至南夜虹國南北萬里我等人祖一系也、云々。

亦、西海にては、次の如く記あり。
西海近山靼大陸是支那韓天竺更紅毛人國續陸也、云々。
と記せり。

海は古代神をして渡海を試ませたるも、多くの人命を怒涛に殉呑せし水神の國なれば、怖れ敬ひたる古人信仰の的たり。その海を筏舟に渡り来たる者を海神の使とて、救ひたるは數千年前よりの事なり。紅毛鬼、黒肌鬼とてなる鬼神とは、この漂着民を曰ふなり。

彼の渡民は好みて毛皮を装い、織物は羊毛、ヤアク毛、ラクダ毛等を衣とし、シルクとて桑虫の吐糸を織なすもありぬ。草皮、木皮を槌にて打き紙を造り記をなせるも、文字、國々に異にせり。神々、亦然なり。長崎にて得たる蘭書にも要細審かならず。

紅毛人國は擴し、怪物なるを神とせるは、ポイニクスとて不死鳥あり。この鳥は乳香ゴム樹を食し、巢は樫や棕櫚樹の頂に造り、肉桂、甘松香、没藥らを集め焚屍推を造りて、その香気に最期なる息を吐きて死せる。アッシリア族はこの鳥肉を食して、五百年の生命を得たりと曰ふ。依て、不死鳥と號けたりとも曰ふなり。

次にはバジリスク、又の名をコツカトリスと曰ふ王蛇あり。此の大蛇に敵意ありては、吐息に殺さると曰ふ。次にはユニコン又はユニコオンと曰ふ一角獸ありて凶悪なる野獸なり、と曰ふ。如何なる百獸にても、この一角獸に敵ふはなく、神使者の猟師とてこれを狩るは難しと曰ふなり。

次にはサラマンドラと曰ふ火蛇ありて、敵なせるものを總て焼盡すと曰ふ。支那太古になる獸神・饕餮は、是らの神獸を修成して成れりとも曰ふ。然るに是ら一切の神獸らも、ブルハンの黒龍にぞ敵はずと曰ふ。黒龍は北を住地とし、白龍となりては、その吐息にて一切を凍らしむ神通力にありと曰ふ。

西北なる山靼紅毛人國にてはオーデン神ありて、善の神なるバルズイル神ありて、神々の國をばアスガルドと曰ふ。その神々にては予言の神アンゲルボオデ女神、その獸神フエンリス狼神、ヘラ死神、ミツドガルド大蛇神、ロキ父神、日輪フレイア神、生物一切神なるブァルハラ神、ニツフエレハイム神、ハイムダル軍神ありとて、ルウン文字にて記遺れる多し。

紅毛人なる古代人にては、ケルト族ドルイド族の神にて、フェニキアなるバアル神に似たるあり。ベルタアンと曰ふ神をクロムレックと曰ふ祭壇に焚く。かく神々ぞ、北西の紅毛人國にての古代神なり。

わが丑寅日本國に渡りしは、かかる神々とギリシア神の創神カオス、アラビアのアラア神、エジプトのラア、アメン神、メソポタミアのルガル神、アリヤン族なるシブア神、支那なる西王母神、韓なる大白山神を以て成れる神を混合して成神とせるは、荒覇吐神なりと曰ふ。依て、その神なるを北魁の星とて祭るは、古代丑寅日本國になる神への信仰原なり。

寛政六年八月廿日
秋田湊日和見山下之住 秋田孝季

古代ギリシア祭文

唱題不祥 一、

心清らかに、罪無く、科無く、人の世を渡るは幸なる哉。さる人の胸を刺す復讐はえふれじ、安らけく生命の道を行べし。さあれ、窃かになる虐殺をなせし者にこそ禍あれ。我等、夜の怖しき眷属は、その全身を掴まん。飛べばとて脱がれ得べきや。追ふにこそ、いよいよ速き我等なれ。蛇はその足にからみて地に倒すべし。追ふて疲れず、憐れみて止むるものなし。絶ず生命の果てまで泰平を休みをも得こそやらず、云々。

二、

天と空と地の主よ、おお王よ、おお父よ、我が卑しき祈祷を聽き給へ。この雲を散じて天なる光を返し給へ。物見るを得さしめ給はば、アイアスの願ひは足れり。とても滅ぶるべくギリシアならばや、それもよし。さあれ、天日の前にこそ滅ばしめ給へ。

三、

宇宙創造の神カオスよ、天空の神ウラノスよ、大地を創りし神ガイアよ、海を創りし神ポントスよ、人を造りしプロメテウスよ、生々萬物を造りしエピメテウスよ、救への女神アテナよ、神々の王ゼウスよ、正義の女神テミスよ、純潔の女神アストライアよ、水の神ポセイドンよ、水を拔けるパルナッソスの山神よ、貝の神トリトンよ、時の神デウカリオンよ、オリュンポス山なる十二神、願はくば我が唱へし祭文に聽きて、四衆の惡なすものを消滅なさしめ給へ。吾が願ひは、今に唱へし神より他あらず。茲に、請願申奉る。

右、ギリシア古老より拝聞せしものなり。

寛政六年八月廿日   秋田孝季

シュメイル神之事 追記

古代メソポタミア國にチグリス神、ユウフラテス神の神より生じたるルガル神ありて、此の國なる民に農耕を教へたり。

神は土版に押印せる語印にて、民の一切を聞き屆けたり。依て、人語らずして、神になる人、同志になる意趣を後世に傳へけると曰ふ。依て、ルガル神を吾等が祖は学の神、農耕神とて崇めり。

ラア、アメン神之事 追記

日光神ラア、聖水神アメン神を以て、古代エジプトナイルの民は崇むる神なり。この神よりイスシ神、ソカアル神、神獣スフィンクス、又はフラオ代々に成れる神々出づるなり。古代エジプトの王は、現世地位にして未来に甦える行爲とてピラミッド石墳、造像神殿を造りきも、久しからず滅べり。

丑寅日本國論 一、

坂東より丑寅を日本國と稱せるは、太古にしてゆるぎなく、耶靡堆王をして君主國となれるは後世なるも、人をして國を成せるは、十萬年乃至十五萬年に人跡ありとて古老は傳へぬ。

人祖は山靼より来たりて子孫を遺し、代々にして紅毛國人また渉りきたりて、諸智に拔きたり。倭國を拔きて稲作起り、海に沖漁を得たるは、倭國の史よりはるかなる古代なり。人の語辨、山靼語にして二十六種、紅毛人國語にして八種あり。多く用いきはアヤ族、クヤカン族、ギリヤアク族、オロッコ族、オロチョン族、クリル族、チングウス族ら西北海の彼國になる多きも、丑寅日本國になる言語に成れるは、是等に混合して定語となれり。然るに、その定語たるや一定ならず、陸羽にては、郷辨とて多辨たり。陸羽に訛多きは、是の故なり。亦、倭人の入りてより尚、多辨たり。

古より丑寅の民は、他渡の人間とて異にせざるに依りて、倭人の進駐を占らるに到る。依て原語に、倭辨多く混じたる多し。津軽にては、未だに倭語にあるもの多し。仮へば、汝は自分の他人を言ふ言葉にて我は己れを言ふを、ナ(汝)とワ(我)になれり。亦、津軽辨にて倭語にあるもの多けるも、特なる言葉の末にたもれ、たもな、と言ふあり。秋田の庄内民唄に、あねこもさ、と曰ふあり。その歌詩に曰く。

〽恋しさにヤアエーイエ
 空飛ぶ鳥に文をやる 此の文をヤアエーイエ
 落してたもな賴みおく

と曰ふ一節ありけるなり。是ぞ、全詩に於て倭の語原なるを覚つなり。是を地民辨にて唄えば、

〽ゆつかふてヤアエーイエ
 てじょとぶばらに ことことかいだ
 このごとをヤアエーイエ
 なくしてけなぢや わの心もづ

是く説くしかなけれども、正解ならざるなり。是を古きになればなるほどに、古文健在にて成れり。丑寅辨とは極反にて言ふならば、次の如きありぬ。もぢやしみとは和語にしておもちゃなり。また、ちよしましはからかふといふ意なり。依って、理解に苦しむ多きなり。六十余州にして地訛あれども、丑寅の辨のみ倭語に馴まざるは、かくなればなりき。神をして、その信仰に異なれるも亦、然なり。神は造像に久しくならず、神殿亦然なり。

神を土に造りたるは五千年前にして、天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコを神とせるに、神殿・神像を要とせず、天然にありてあるものなれば、人の造れる至らざるなり。ただ天然の造型なる石塊の神たるに覚つ信仰ありけるも、是ぞ石神とて陸羽に未だ遺りき。神棚に置きける神賜の寶とて祀れる創なりと曰ふ。神像を作れるも山靼の像より成れる多し。

亦、紅石粉にて岩肌に画けるるありきも、丑寅は多雨・多雪にて消ゆ多し。亦、古代人骨も遺らざるも、土質の故にて溶骨やむなき滅遺なり。然らば、史證ぞなきや。左に非らず。古人の用いたる石具遺りぬ。是の石具にて古きの歴順證示せる多し。石具は溶けず、古層消滅せるなかりけり。

人祖の創めぞ、猿猴の如くなれば、先づ以て石を割して具とせるは具の創めなり。石にて物を切り、亦、獲物を得る狩獵をせり。山野に見當る石にて造れる諸器ぞ、その往古を物語る物證なり。古にして、物を煮炊せるは、獲物の皮にて鍋とせり。炊法は、石を焼きて皮に仕込めるに、入れなして煮るは易しき法なり。器は木葉・貝殻をして使い棄てなり。

是なる方法ぞ、未だに用ふるはマタギに見らるなり。亦、木皮・草葉に包みて焼灰中に煮せる食事法ありて、塩無くも灰水を味とて喰ふも古傳なり。吾が丑寅の國は、海辺に人住多くして、人跡ぞ各處に遺りぬ。海神を祀れるウンジャミのイチャルバ跡、山神を祀るイザイホオのイオマンテ跡ぞ、そのままなる遺跡ぞ多し。

神を天地水とせる故に、祭事は露天の聖地を老木ジャラに求めて定め、そこにヌササンを設し、カムイノミを焚きて祈れり。代々にして丑寅の日本國民は、古習をなほさりにせず護り傳ふる多し。

神をして、己が欲望を祈る勿れ。亦、神を崇むとも、當心にせざる事とて、神に祈る眞心ぞ、天命に安ぜるの一心こそ、神に通達せるものとて、信じられたるなり。

國神なる荒覇吐神の常住せるは、宇宙なる北魁星にイシカカムイあり。地なる北極の常凍國にホノリカムイあり。海底千尋の處にガコカムイの常世國ありと信じ、神に誠の信心ありて拔ける者をして、この三所を自在に往来せると曰ふなり。海より天に昇るは龍巻に乘じ、地にては虹橋を渉りイシカの夜光虹にたどりて、北魁星に至りては、再度地界に人とて甦る天命に頂ると曰ふなり。信仰にては必ず以て、カムイノミを焚くなり。

寛政六年九月十九日   秋田孝季

丑寅日本國論 二、

古来より、北方にありき國を忌む人は、南方にある人祖の類に生ずといふなり。人の生乍にして、身體八腑に潜在せる意識なり。古にして人の生處を渉りて落着せしもの亦、故地を護れるものの爭奪は、智の限りをして身命を賭にして闘ふ者の遺傳心理には、子孫のために千年・二千年に及ぶとも、欠くなく祖意は遺りぬといふ。依て、榮ゆものは久しからず、亡ぶる生死傳達に意識さるなり。

亦、人間耳ならず、萬物生々にありても生態を攺ふるあり。古にして、彼の巨鯨は陸獸にありきも、海にぞ歸生せり。草木とても種を多産にして遺すは、これ生くるものの天然・自然に備はる智惠、自から攺む耐性の進化なり。まして人は、人同志と睦むる爲に、神を崇拝し、智愚の土人に布せるありて、その地を戦はず掌握せる手段あり。戦となりては、神をも放棄せるありぬ。人は神をも都合にて造り、無要なりては棄つるの魂魄ありて、世に次續に盡きるとも、また世襲に望ましき神を造りて、人心を誘ふ。御説最もらしき巧辨にて、何事も靈験なきを、奇辨に人心を惑誘せる世襲の習ひに、權政相加ふれば、宗教とて本末を欠き、持續の執念に諸行無常なるを、有爲夢想に法典を衆に説きて、奉施をむさぼりぬ。人心は己々にして同じからず、かかる無爲架空の想定に惑入せる多し。

國に依りては、民を無智識に制ふるが故に、故地を欠ふ民ありぬ。神はその中に聖者をいだすと曰ふも、人辨なり。神たるものは、人に非らず、相あるべきもなし。依て、丑寅なる日本國にては、神を相に造らざる古代を重んぜり。世にある萬物、死しては何事も相遺らざるなり。肉は水に、骨は土となりて、生魂は空に歸するなり。かかる無常のなかに丑寅の古人は、全能なる神の相を宇宙に悟り、大地に悟り、生命の根限を水の一切に覚れり。アラハバキイシカホノリガコカムイと聲に唱へ、己が心中に念じて、實相見つる神なる相こそ、天地水の一切なり。己なるは、心にて身體八腑とて、神なる賜授のものとて疑はざる悟信仰に達せり。人の世に生々あるは、遇い難き一生なり。生々に神罪ありては、生々後生の相は萬物何をかに轉ぜらるなり。神罪なる罰は、人の造れる法ならず、神の法則なる天秤に測されて定まるなり。人知れずとて、己が心に消なき造惡・隱罪は、神をして見通し、如何に自好の神を崇むとも、我昔の科は免れるなきなり。

丑寅日本國なる神は、かくして人を造りき。心の標目たらしむに、一統の信仰とせり。民は是れに從へて、國土に馴み、人と睦み来たりぬ。人の生々にして人の命脈ぞ大事とし、私にして人を謀らず、惑はさず、互に喜悲を倶する和を以て、無上の暮とせり。依て信仰とは、無實を有實とせず、運命は總て神の爲せるに勝れず、己れを天命に安ぜるを一義とし常に安心立命せり。神をして殿堂造らず、靈異・顯遇の奇由を説かず、生くる贄を捧ぐなし。代々をして山靼の神々を求明せども、丑寅日本國土に馴まざる神の意趣を選拔し、吾國神の天地水に叶ふる耳を攝取せるは、荒覇吐神なり。依て、末代に荒覇吐神の神稱絶ゆれども、世は荒覇吐神の掌中にありて、不滅なりと説く。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

丑寅日本國論 三、

吾が丑寅日本の國論とて論は素にあれ、易にあれ、賢愚何れに解せど、古代なるより受継ぎたる大志に不屈なり。代々をして大義になる國運は、人命尊重にして、人の和を以て衆に睦み、國に侵害ありては國土皆兵にして護り来たるも、世襲は惡謀巧にて、吾等が民心を反忠にして限り無く、康平五年を一期に十二年の戦に敗れたるも、心に敗れず。丑寅日本國の永代に、往古の人魂は不滅なり。

かかる潜在にありきを、歴史に以て未だ蝦夷とぞ倭史に制ふらるとも、荒覇吐神の示現、全能神通力ぞ、かく僞装の史を粉砕せん時ぞ、近く到るなりと断言して餘言非らざるなり。

丑寅の日本國を蝦夷とし、山靼を赤蝦夷とて曰ふ、朝幕の人の復讐をそそる日も到るらんは、陸羽に住むる潜在の暴發起りては、倭史諸傳も水泡なり。地殻に戦無くば、權謀慾々たる惡政は今にして陸羽の民を獸物の如く、生さず、死なさざる貢税に、無智の徒衆にせるは、未だになる蝦夷征伐なる續行なり。

丑寅なる民よ、貧しきも、心に古代なる傳統の大志を失ふ勿れと喝言す。子孫に傳へよ、丑寅は日本國なりと誇りにせよ。諸國に一族の命は遺りきも、海の外なる大界を閉ぐる朝幕の權政も影さしぬ。世界におくるるは亡国を兆すなり、かかる封建を破り、人の自由有權の世に丑寅日本を復さんや。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

丑寅日本國誌

吾が拝は日本國なり。倭國と異なるは、國の創なる神話と實傳の相違なり。倭國史は國の創を神話に基けるこそ古要作説なり。神話とは話にありて實に非らざるもの也。神話をして國の創とせるは荒唐無益に存す。丑寅日本史は神を先とせるも、史の先とせざるなり。神とは人の先の先にて、神たるの意趣とは人史耳ならず、人史の先になる萬物進化の過程なり。即ち、神とは進化の源起の他あらず、如何なる学説・哲理に叶はざる宇宙の創を曰ふ。一点の起挙を曰ふ言葉にて、神たるの存在にあるべくなきを曰ふなり。倭史に曰ふ神代とは、古代とて世に非らざるを作説せる事なり。世の創より神代は非らず。倭史に曰ふ八百萬神のあるべくはなし。

宇宙の創は一点に起りたる雲と雲とに摺發せる電の如く、宇宙の創とは、重力と重力の摺度にて發せる雷稲妻の如くより宇宙は創まれり。即ち、宇宙の創は無の時空に起りし、高密度の起化に創りぬとは、紅毛人博士の曰ふ言葉也。その起化とは、神に非らず、宇宙創生の原理なり。宇宙は今にても測り難き、無限の空間にて、重力に摺發したる起化にて成れるは宇宙の星界にて、我等が日界・地界、億萬の一片になる一星なり、と覚つべし。

神は元素なり、素粒なり、眼に見えざる何かなり、物質に非らざる何かなり。その何かなる、人のおもわくに想はざる何をかの起原を神と曰ふは、丑寅に曰ふ神にて、號けて荒覇吐神と曰ふなり。吾が丑寅日本國なる神にて、神を人型に造るなきは、諸事にて記行に盡くせるも、荒覇吐神なるは、その原にありけるを神とせるこそ、倭史頭にありける神代より神なるるに、想いいづらむなり。

人の型をせる神は、人の造れる神にて、人型ならざるは、神に想へて障りなし。神皇とは、人を神とせる神への冒瀆なり。民を奴隷になせる獨權持續なりて、民を人と想はざる、神への怖れなき造史なり。世界に創む國造りにて、エジプトのフラオとて、世に石の權遺をなせど、活神たる築建の遺跡も、代々を經て砂と崩るばかりなり。神は神にして、人の及ばざる至高のものなりてこそ靈験をますなり。

丑寅日本國は神をして是の如くせず、久遠にして尊び、荒覇吐神とて、心の委ね給へける近遠に非らざる力威にますませる神とて、崇むる至心なる神格なり。依て、迷信に堕ゆなく久遠にして、代々の信仰に即せる神なりて、いささかも神とて他疑のあるべからざるなり。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

丑寅日本國之王則

太古より丑寅にありき王家の即位にありては、陸羽・渡島のエカシらに選抜されずしてならざるなり。國を司どる王にありきは、生死喜憂に遭遇ありても、民心を欠かざる王にして名君とせり。聖王を中央に、領の東西南北に四王を配して補佐ならしめ、更に間に驛傳せる縣主・郡主を配したり。その本に河司・海司・山司の部の民をして地方を治司せしめ、丑寅何處とて異変非常時ありては、民皆兵となりて起つぬるなり。

倭國の起りけるは、此の國の起れるより萬年に降るなる史經にありぬ。大祖・阿蘇辺王より中祖・津保化王を經て、茲に耶靡堆王なる系なる安日彦・長髄彦王の新王を得たり。國、農漁をして民営み、部の民は山靼に渡りて、智者を此の國に歸化せしめて諸事を習へて修むる。産金と収馬を以て、丑寅日本國は馬産國と相成れり。

古祖は東日流に起りてより、十五萬年乃至三十萬年とぞ傳稱に遺りきは、石神の信仰に遺證あり。治領に擴め、この國を日本國と稱し、国司を日本將軍又は安東大將軍とて山靼に聞こゆこと、鮮卑書・旧唐書に記逑遺りぬ。北海・東海・西海の幸をして國豊かなれば、西南に倭國起りて日本國を侵したるいさかふこと暫々なれど、君民固くして國護れり。代々にして丑寅に國土の未開を擴め、渡島・千島・流鬼島の領有に至りぬ。更にして神威津耶塚國・夜虹國を領有して國標を建つるも、倭侵甚々しく、遂に康平五年にして主系地に没せるぞ、今にして忿怒やるかたなきなり。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

丑寅日本國之古稱

吾が國は古代にして地稱攺む多くして、代々の證とす。流鬼島・日高島・千島・日本國とは全領をして坂東の安倍川、越の糸魚川に分水を東西にして倭國との堺たりしも、代々に倭人の北押領ありて、終にして白河・勿来・米山に堺をなせり。陸羽越をして日本國たるも、越王起りて倭王となりけるより、越を去りて、更に朝日山地の連峰を分水嶺とて、丑寅を日本國とせり。

古代にして陸羽を安東國とせるあり。日高見大河を流堺にして東を麁國、西を熟國、北を津刈と稱したり。亦、地辨にしては岩代を志呂内、磐城を隈内、羽前を庄内、羽後を日發内、陸前を迫内、陸中を幌志利、陸後を津湯武加流と稱したり。是を日本國とせしより、五十六郡とて区し、各郡に郡代主を置きたりと曰ふ。

太古より山靼船を航し、東船場・西船場をなせるは、東日流十三湊・淳代湊・勿来湊・渡波湊・船渡湊・糠部湊・宇曽利湊を以て渡島末尾澗内湊に到り、更に流鬼の黒龍迎湊に達し、山靼黒龍湊より流登し、満達、蒙古に通航せりといふなり。トナリ舟とは皮舟にて、水氷を航せる双方可能なれば、よく用いられたりと曰ふ。

山靼國は擴きが故に、黒龍江なる要所に河湊を設したるは、五十二舟場を經てチタに至れり。更にヒロクに至れりと曰ふなり。安倍安國が主たる代に、陸路を天山北路を經て紅毛人國に至り、彼の國なるアラビア・ギリシア・メソポタミヤ・エジプトに達したる十年の歳月を經て歸りける亘理四郎永信、他三十人の異國巡察者ありて、紅毛人國なるニンニクを産物とせり。陸羽にては、是を鬼神に年産毎に奉納せしは、今になる鬼神社の供物なり。

奥州に鬼を祀れる社の多きは、是の故なり。亦、神行事とて鬼をして多く家寵に鬼面を祀りけるも然なり。鬼とは紅毛人を曰ふ。鬼神とはその國なる神を曰ふ意なり。山靼の西奥を鬼神國と稱したるも、安倍國東の代に禁じて、西奥の山靼とぞ稱したり。國東の代にては、紅毛人の歸化を認め、鑛産に奥州を湧しめたり。

驚くべくは、東海波涛千里の彼方より鷹羽族、陸州沿浜に大筏をして漂着し、名馬二十八頭を積来して以来、奥州駒は種を名馬とせり。鷹羽族とは、頭髪に鷹羽根を飾りとせる故に名付けたるものなり。彼の東國は山靼に優る如き大國なりと曰ふは、その頭なる長老リヒキカと曰ふ者の語れる處なり。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

丑寅日本國奇談

康平五年に敗れし安倍一族の大祖をたどれば、加賀犀川郷の地主耶靡堆彦にて、族姓は阿毎氏なり。降世にして耶馬臺三輪の蘇我箸香郷に君臨せし安日彦王、北膽駒富雄の白谷に君臨せし長髄彦王の系にて、孝元天皇・開化天皇の系図にあるべくは安倍系なり。

安倍安國の代にて坂東・北越州を領有せるも、継體天皇に國替て、出雲荒神谷を飛地領とせり。國東の代に築紫・豊後の水道に國替し、安東邑を起し、この國を國東と號けたりと曰ふ。依て此の地に安東姓ありぬ。

安倍一族をして筑紫磐井一族と親交にあり。磐井一族敗れしときにては、その郎黨一族を奥州に招きて住はせしは、陸州磐井郷なり。安倍致東の代に國東を放棄し、丑寅の日本國の倭侵に備はしめたり。國東に遺りし大元神社は、安倍氏の奉寄に依れると曰ふ。此の地に遺れる東日流語部文字の石片多きも、奥州との史に連らねたる故なり。

吾が國は倭史に何事に記逑あらふとも、日本國は丑寅にて、他にありまづや。倭國を日本とせしは稗田阿禮・大野安麻呂らなる國族盗書に依れるものなり。

吾が丑寅日本國の古史實記は、神をも人祖も、山靼にありて渡れるものなれば、神格をして僞ならず、人祖をして僞ならざるものにて、祖来の古事は實記なり。亦、國主とてその出自を僞はらず、語部にて記録ぞ遺したり。依て神は神なりに、人祖及び國主をして造話作説なきは秀たり。𥘽しきは倭史なり。世にありまじき神を皇神とし、皇祖として一系に仕立て、神代たる夢幻の神話架空の國造りを歴の筆頭とせるは、史事に非ず、諸事神話の継木竹に継ぐる如し。

歴史ならばや崇神天皇記より信じるに足るるも、その上は荒唐信じるに足らんや。世々二百餘十年生存せし竹内宿祢傳も亦然なり。只勝者讃美の餘り、分寸尺大に記せるも、實史に遠く惑ふなり。吾が丑寅の日本國史にして何事の惑いなきは、記逑に黒鴉を白鴉と記せざる旨とせるに忠實たり。茲に断言す、倭史の曰ふ神武天皇より在位百年に越ゆはなかりきなり。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

紅毛人付稱地名

宇曽利をiapysとてクレタ語にて斧の意なり。東日流をpantneonとて神の贈り物と曰ふなると意に通ず。亦、丑寅日本國をctonosとて、時の神たる意にてギリシア語なり。岩木山をvolcanoとて火山を意趣せると曰ふ。北上川をneptuneとて、海なる神と稱したり。

寛政六年九月十九日  秋田孝季

解體新書之編纂

高山彦九郎が前野良澤と、ターヘル・アナトミアなる解體新書を綴るに當り、秋田孝季及び菅江眞澄に密会を謀りて、はるか尋ねきたり。ときに孝季は眞澄と倶に外浜なる宇鉄に史跡を調ぶると聞きて、宇濤に待てども會はれず、遂にして宇鉄に尋ねて會たり。

菅江氏は草藥の心得あり。孝季は長崎にありし頃、蘭人レオポルド・ボナパルト氏よりターヘル・アナトミアなる蘭書を持得ければ、討幕戦に外科手術に要せる得難き書物とて、前野氏に依賴されたる段を口説けり。時に孝季、戦に用ゆべく要意なるに貸付を断ったれば、彦九郎、低頭、三日間を貸付たり。依て彦九郎、夜な寝もやらで㝍しめたりきも、半冊にも達記せず、孝季是をあわれみて貸与へたり。また菅江氏も、己が百藥草学書三巻を貸付せり。

彦九郎、悦びて仙台に赴き、林子平と會し、丑寅日本海兵談を論じたりと曰ふ。後日にして、高山氏と會したる者は、林子平は蟄居され、菅江眞澄もまた津軽藩を秋田なる大舘に脱藩せり。孝季耳は、何事なけんとて土崎にありきを、寛政七年八月二十五日、何者かに放火され、収集史書ことごとく灰とされたり。彦九郎の便りは屆かず、寛政五年六月二十七日に自刃して果てたりと曰ふ。三春藩へ差しいだすべく史書さながらに灰となりしは、高山彦九郎との出會にて失せにしに無念たり。

文政二年五月一日  和田長三郎

五氏遺歌

〽親も無く 妻無く子無く 板木無し
  金も無けれど 死にたくも無し

林子平

〽うとう啼く 外の浜風 汗着干し
  菅江秋田の 友と宴げむ

高山彦九郎

〽立寄りて 京幕世事 語りなん
  外の潮騒 耳に断ちたし

菅江眞澄

〽醫の道は 人を救ふも 赦さざる
  閉ざせし國の 夜明けぞはるか

前野良澤

〽蟬しぐれ 中山峯に 目を閉ざし
  外の浦々 夜明けまたるる

和田長三郎吉次

右は寄書なりける歌五首にして、遺歌とぞなりぬ。

明治四十年二月廿日  和田末吉

山参日誌

中山の草いきれ鼻を突き、八月の日輪は猛暑にて、血吸の虻ぞしきりに汗肌に、拂へても寄着くに、澤を上りて峯路遠けれど、虻を除くるに詮もなし。

尋ぬる古傳になる耶靡堆舘跡にて、羅漢柏の大森林を峯渡りければ、程開けし頂に至りぬ。岩木山を西の遠方に、八甲田山を東に、南は中山・梵珠山連峯、北に大倉山・權現崎の彼方、海峽の青さを望む。丑寅に宇曽利、陸景を眼下の外浜沖に見ゆ方向、合浦なる飛鳥山に望む東斜面に降り、目差せる耶靡堆舘跡、又の名稱、星平澤なる耶馬臺城跡にたどりぬ。

虻をさくるに岩胴に入りて、一夜の野宿を決めて、酒をくむるに美味たり。舘跡七十坪、星型になる丘ぞ、史跡なり。古図に測りて白井氏と調ぶるに、何もかも當りて嬉しきにも、埋藏を掘るは重勞なれば、秋期に決めて歸りける。

寛政二年八月一日  和田長三郎

倭史異聞抄

耶靡堆三輪之蘇我郷箸香より王居を去って、丑寅日本國を創國せし安日王のあと、崇神王の代に至れるも、耶靡堆は河内王和珥氏に滅亡されたり。同じ頃になる膽駒山にありき富雄白谷郷の地を、安日彦王と去りにしあとは、葛城王是を領有せり。葛城王とは崇神王と共に、日向王より先にして此の地に根張れり。

然るに、丑寅より故地奪回に赴いたる阿毎氏根子は、蘇我氏・葛城氏・巨勢氏・平群氏・紀氏を降伏しせしめ、倭國王と相成り、神攺をなして旧来の神器を葬むりぬ。神攺の儀は、筑紫を除き、出雲・越・紀州・山陰・陽山陰に相渉りて、ことごとく土に器を埋めたりと曰ふ。

孝元天皇とて覇をなせる開化天皇二代にて築きしは、倭國の創めたり。この利とは丑寅日本國の防人達なりて、騎馬を乘じて戦場を駈くる創たり。即ち根子彦王は、東日流稲架の阿毎氏大根子王の子にして、一挙に無敵なる騎馬を鞭打って、五畿を掌中に奪せるも、その遠征になる丑寅日本國の兵等は、此の地に駐るを嫌ひて歸途せり。

依て根子彦は、一度は誅に伏したる和珥氏・蘇我氏・紀氏・平群氏・葛城氏・巨勢氏を招へて國を創むるに到りぬ。依て、筑紫よりも磐井氏・猿田氏らこぞりて畿内を起し、倭國は爲れり。

然るに蘇我氏大勢となりて、物部氏ら倶に天皇を自在せる權威に達し、倭國の氏族を制へたり。然るに蘇我氏は韓人系なりて、物部氏との勢を爭ふるに、河内の石川に起りし建内氏、物部氏と組ければ、蘇我氏は四國・瀬戸内の嶋氏を入れて對せるも、物部氏は越州より継體王を入れて天皇に奉り、蘇我氏を制へたり。

爾来、物部氏との犬猿の仲と相成りて、事ある毎に國事の否決起りぬ。依て天皇は空にあり、物部氏・蘇我氏の相入れざる世襲となれり。神佛崇拝をして双方の對立いよいよ激したるも、物部氏失脚し蘇我氏は起つるも、馬子・入鹿・蝦夷・石川麻呂・赤兄をして亡べり。

茲に倭史にては貴重なる天皇記・國記なる倭史は焼失さるるも、國記の一部分を船史惠尺なる者、中大兄皇子に焼却を免れたるを奉ぜりと曰ふ。依て往古の事は乙巳の乱・赤兄の反乱に、倭史の全焼たらんに、古事記・日本紀の後作は眞疑審かならざる古傳なりと曰ふ。

亦物部氏とて丑寅の日本國に落たるも、古事にありきは何物も無く、蘇我氏の如きは先代埋墳までも掘出されきも、古事にありきはなかりけり。是ぞ倭史の探るべくもいでぬ古證なりと曰ふ。抑々、天皇記・國記を蘇我の手にありきは諸國にある氏族豪族に冠十二階を与ふる權にありき蘇我氏なればこそ奉持得たるものなり。

右の事記しきは、東日流語部録に明細たり。

寛政六年十月一日  秋田孝季

古代に天皇無かりき

世に神武天皇をして豊葦原中津國を討平らげ、といふ日本書紀・古事記をして人を修成せる神道、亦は、蝦夷は皇道に弓引く凶賊たりとて曰ふ倭史の傳稱ぞ、思い知る時ぞ今に至らんや。倭人とは、何故あって、何事ありて丑寅を敵とせるや。茲に心して答を請ふるものなり。

何をか以て倭人の敵なるや。古今に通じて、覚い悟る事能はざるなり。倭人に申すは、汝らと汝らの曰ふ蝦夷とは何者ぞや、同じ種にありて蝦夷とぞ、化外の民とせるは、神をも我慾にせる汝らの侵領の策、奴隷の策なり。丑寅の地に進駐し、蝦夷とて人と想はざるは、何者の裁きぞや。凶悪にして化度のならざるは、常にして倭人なり。

泰平なる丑寅日本國、倭に政を蒙らざるとて、もとよりの自國なり。人は平等にして何人にも犯せられざる國土なり。林子平は曰く、北國は海國にして古代にして安東水軍あり。その以前にして山靼交易船團のありきなり、と。

寛政六年十月一日  秋田孝季

耶靡堆諸氏と古史書

古にして阿毎氏は耶靡堆に在りて、磯城氏・珥岐速氏・戸畔氏・猾氏・八十泉氏・咫烏氏を從へて國治むる處なりきに、筑紫に起りし日向の軍に敗れし時の耶靡堆王、安日彦・長髄彦、故地放棄し丑寅に退きて後、此の国は倭國とて國分す。

和珥氏・春日氏・葛城氏にて日向氏は却りて、奴氏と成り筑紫に在り、熊襲氏・隼人氏・薩陽氏を追討せり。

然るに倭國にては大伴氏、韓人の蘇我氏、山陽の物部氏・建内氏ら、倭國に一統の君主を奉り、敏達天皇を即位せしめ、茲に天皇記及び國記を倭國史と編書せり。天皇記六十一巻・國記八十六巻をして倭國一統史とせり。序に曰く、夫天子在世々代々累継奉天神地神大王也、云々。

然るに是巻、常にして蘇我氏宗家に在り。諸氏は是を天子に奉還せしむを催促しけるも不從し、甘橿丘の乙巳の乱となりて、蘇我蝦夷は自刃せる時に蘇我の舘に灾けりて天皇記及び國記の焼失とせるも、船史惠尺ら火粉を潜りて書倉を破りたるに、六枚の片巻耳と曰ふ。されば事前にして蘇我氏は是を既築の己墓玄室に穏書せしものとて、ことごとく堀崩すとも見付るなく、中大兄皇子はその旨を御門に奏じたり。

されば天皇記・國記の行方は如何に。是の書は、推古天皇二十八年に皇太子・嶋大臣議りて、天皇記及び國記を編集せし者にして、記逑者は百済の契民及び張榮、更に支那揚州の人竹林及び宗明・泰繁らに記させし者也と曰ふ。

天神之巻二十七巻・地神之巻三十三巻・神皇之巻八巻を以て天皇記とし、䅗國之巻三十六巻・越國十巻・出雲國十巻・内海國十巻・奈古國十巻・筑紫國十巻になるは國記なりと曰ふ。蘇我氏は是の史書いださぬに誅伐を免がれ、壬申の乱に到るまで朝權に在りきも、果たして天皇記・國記を何處にか封ぜしかは、天永辛卯年七月廿六日はからじも武藏國釜𦰫の和銅山荒脛巾神社に蝦夷箱とてあり。藤原秀郷の奉寄とあるより秘封、天慶庚子年なる封錠破りていできたるものなり。是れを藤原秀衡が、藤崎平川城主・安東髙星丸に荒羽吐神社御物とて、中々審さず奉寄せるも、髙星丸も亦これを調せじ石塔山荒覇吐神社に神物とて奉寄し、今に遺りきものなりと相傳ふ。

元禄十年二月一日  藤井伊予
明治四十二年三月筆了 書写、和田末吉