丑寅風土記 第全六ノ六

戒言仕る

此の書は門外不出、他見無用と心ふべし。
右の誓、護りて讀べし。

寛政五年三月一日  秋田孝季

序言

此の書は、倭事の史を入れざる、丑寅日本國の實史なり。國家の成れる前史とて、吾が國は化外にあり。蝦夷として、永く倭の化に染はざる故以て、倭史の外道に伏せられきも、丑寅日本國は支那及び山靼にも、日本國たる國號にて證さる古書に載りてあり。國史も亦、倭史とは異なれり、故以て、倭史の入れざる記録と相成れり。

本書を構成せるは、東日流語部録、卑弥呼傳、鮮卑書、山靼廻遊記を以て證とせり。亦、紅毛人なる山靼諸資料を以て、諸事を記逑せり。右、如件。

寛政七年六月一日  秋田孝季

史觀心得之事

丑寅の史觀にて先づ心得べきは、故人の墓にして、大王たりとて人の後見に遺るはなし。王墓とて大築せず、わだつみに葬沈せるもあり。亦葬土せるあるも、埋むる儀過ぎては、その參道を閉ける。亦盛土を造らず平かにし、神樹を植はしめて了りぬなり。

是れ、山靼古葬の習ひにて、魂の却りたる遺骸は天地水に歸りて来たらざるものとて、拝墓するなく、故人の遺せし遺物を拝したり。それ代々に傳りて遺せるものに諸印をせし故に、史證とて遺り、代々の事を知りぬ。

葬生は生あるうちに語部に遺し置く語木に刻める印に觀るを得たり。葬儀にては語部必ず參じて、遺物に故人の一生にあるを刻みぬ。丑寅に日本國王の墓は、一處地底深き洞にありて、誰ぞ知る人もなかりける。亦、死者に副葬するなく、如何なるも子孫是を分つて保つなり。依て春夏秋冬になる祭りヌササン祭壇をして先祖の供養、生々するものの諸願をしてイタコ靈謀師ゴミソ祈禱師オシラ占師の靈媒や運勢・諸願に己々が祈りて後、夜を徹して舞歌を捧ぐなり。

即ち故人の靈と一體となりてイヨマンテは終りぬ。ヌササン祭壇カムイノミ神火は消え、捧げ供へたるイナウ木幣を神窓よりチセに入れ、次の祭までに神代とて崇むるは丑寅人の暮しなり。依てコタンヤントラには墓標とて無く、樹木の深寂たる森なり。

太古になる丑寅の是の如くあるを頭中に入れ申して于巻の史觀と考じべし。

文政五年七月十日  秋田孝季

丑寅日本國郡郷之事 原漢書

坂東
鹿島郷、行方郷、新治郷、筑波郷、豊田郷、結城郷、埼玉郷、邑樂郷、新田郷、佐波郷、那波郷、勢多郷、利根郷、梁田郷、安蘇郷、都賀郷、河内郷、塩谷郷、那須郷、芳賀郷、直礕郷、茨城郷、那珂郡、久慈郡、多賀郡なり。
越にては、
蒲原郡、魚沼郡、石船郷。
出羽に
玉置郡、村山郡、田川郡、最上郡、由移郷、飽海郷、雄勝郡、平鹿郡、河辺郡、仙北郷、火内郷、鹿角郡。
陸州にては
菊田郷、磐前郷、磐城郷、白川郷、白河郷、會津郡、大沼郷、河沼郷、耶麻郡、安積郷、岩瀬郷、石川郷、楢葉郷、田村郷、安達郡、信雄郡、伊達郷、行方郷、宇多郷、亘理郷、伊具郡、刈田郷、柴田郷、名取郡、宮城郡、黒川郷、牡鹿郷、桃生郷、本吉郷、気仙郡、磐井郡、登米郡、栗原郷、玉造郷、加美郷、志田郷、膽澤郡、江差郷、和賀郷、稗貫郷、紫波郷、閉伊郡、岩手郡、荷薩體郷、宇曽利郷、糠部郷、都女郷。
東日流にては
外濱郡、平川郷、稻架郡、鼻輪郷、奥法郡、有澗郡、璤瑠澗郡、上磯郡なり。

古代はこの郷郡を掌中にせし安倍安國の勢にありて、渡島の区界をもなせり。
渡島郡、檜山郡、後尻郡、膽振郡、石狩郡、日髙郡、十勝郡、空知郡、上川郡、留萌郡、宗谷郡、北見郡、網走郡、根室郡、釧路郡、千島、流鬼、神威茶塚、夜虹の國
たり。是を丑寅日本國と稱す。

長禄戊寅年二月四日  物部宗範

千島島號之事

萌尻島、秋勇利島、珸瑤琩島、貝殻島、勇利島、水晶島、志保津島、多樂島、色丹島、國尻島、択捉島、得撫島、新知島、計吐島、羅處輪島、松輪島、捨子古丹島、江加流澗島、恩祢古島、幌武志留島、荒伊戸島、朱武趣島、他小島三十二島を以て千島と曰ふなり。古くは神足國とも號したり。此の島に千島王を立たるは久安丙寅年なりと曰ふ。

長禄戊寅年二月四日  物部宗範

神器五種之事

古来丑寅にありて國司の主に位せる者は、先主より神器五種を授くなり。勾玉は民を護る證にして、鏡は僞らざるを誓ふる證なり。剣は國土を犯す者を誅すべく武威の證にして、頭冠は神なる天地水にその法則に從ふる戒なり。玉は神なる代治を民に説く印にして、己れを戒しむる天授のものなればなり。是を即位に在りては東西南北の長老に誓って、奉持すべく神器五種也。

此の神誓儀を、四王の中央に設はる王座に並ぶる神器の、王冠を頭に戴きて王となれり。集むる東西南北の四王、その八方にある郡王・郷王に、王とて誓して了るなり。

國司に當る何れのものも、後継の式をなさではその司格は無く、亦己が獨断なる政令もまかりならざるなり。國治の大事は四王と謀りて、正王は事を郡主・郷主に賛否を議して事を成せり。是を荒覇吐五王の政事とて、能く民に渉れり。古くは安日彦王・長髄彦王の代より、民の貧さをいださず擴く産物を交したり。

長禄戊寅年六月四日  物部宗範

東日流古事録 原漢書

吾が國の末なる東日流の國は、上磯・下磯と大区し、郡をして六郡なり。三郡を内と外にして、鼻輪郡・平川郡・稻架郡の下磯内三郡と、奥法郡・有澗郡・璤瑠澗郡を上磯外三郡と稱し、東日流大里を安東浦とし、中山峰を東を合浦外濱と、その濱岸を潮方安方とて稱せり。西濱は舞涛濱吹浦とて國をなせり。更に、東には糠部・都母・宇曽利三郡を、玄武に並位に半島し、是を總稱し陸奥と曰ふ。

古きより、山靼より人祖の渡りて日本國の草分たり。古代の遺物多く土中より堀りいださる多く、古代王國の民に渉れるを覚つなり。晋の代に支那より大挙して東日流に漂着せる民あり。晋の群公子一族とて、此の地に稻作を布しぬ。

依て、その稻田なせる地を稻架郡とぞ地名に由来し、ホコネ・イガトウの稻種にて能く稔りたり。是ぞ三千年前を越ゆ古きにありて、拓田邑造り國造りとなれり。

先住の民にては、阿曽辺族は西に、津保化族は東の地に住分けせしも、稻作に民族を併せ、更に宇曽利族・糠部族も併合せり。王國たるの創めは、耶靡堆國より大挙して移り来たる安日彦王・長髄彦王らの進みたる國治に習へて成れるものにて、此の丑寅の國を日本國と國號せしは旧唐書に明白たり。民を併合し神の信仰を一統し、荒吐神を唯一の神とて信仰せる故に、荒吐族とぞ代々に稱されき。是ぞ、東日流より日本國は創國せる史原なるは、吾等が郷・東日流なり。

文政六年十一月一日  和田長三郎

陸羽戦乱世諸氏之事 原漢書

津輕に北畠氏、閉伊に南部守行を臺頭する進駐をして、津輕にありき安東氏は飽田檜山に移りきに、北畠氏、行丘に知行せり。

天正十五年に至るや、北方にその地領乱住せる南面北面の渡黨ら、相雌雄を爭いて次第に一統に決し、津輕にては大浦氏、糠部に南部氏、秋田に安東氏、和賀に和賀氏、仙北には戸澤氏・六郷氏、由利には由理十二頭、雄勝にては小野寺輝光、磐井には葛西晴信、玉造には大崎義隆、最上には野辺澤氏、田川には武藤義興氏、石船には本庄氏、村山には最上義光、黒川には黒川氏、宮城には伊達氏之留守政景氏、賜置には伊達正宗、蒲原には上杉景勝と金上氏、耶麻には穴澤氏、河沼には猪苗代盛國、二本松の畠山氏は安達に、亦髙玉氏はその領に在り。行方には相馬義胤氏、田村には大内定綱と田村清顯、山瀬には二階堂盛義、安積大沼にかけて芦名義廣氏、會津には山内氏、魚沼に河原田氏、蒲原に上杉景勝と金上氏にて、會津南に長沼氏、白河には白川義親、石川には石川昭光、磐城には岩城常隆なりき。後世にては亡ぶる多く、地に遺るる者今に少なし。

天正十年乃至十七年に至りての奥州はまさに戦國さながら、大坂方・坂東方に國運を賭けた各地領の攻防は、豊臣秀吉の思ふがままに國替をされ、國領も変革せり。以上なる國主にも印可は慶長年間になりければ、津輕にては大浦爲信が津輕一統して主坐を占め、南部信直はもとに変らず、和賀氏は消ゆ、秋田にては安東實季。由利十二頭は消え、仙北に戸澤政盛、六郷政乘がもとに保つ。雄勝の小野寺義道も是ありぬ。宮城にては伊達政宗の勢すこぶる諸領を拔きて、二本松氏、穴澤氏、大内氏、二階堂氏、髙玉氏、猪苗代氏、石川氏、白川氏、芦名氏、長沼氏、河原田氏、山内氏、金上氏らは消え、行方の相馬氏、磐城の岩城氏だけが残りたり。

出羽にては武藤氏、野辺澤氏が消え、石船の本庄氏も消えり。最上一帯にして最上義光が占め、飽海田川には仁賀保挙誠が占め、伊達政宗が戦略せしあとは上杉景勝に占められたり。また越後の上杉氏旧領には溝口秀勝、石船には村上義明が居主せり。

然るに大坂城が坂東方に落つるや、徳川氏の議に依りて奥州大名図は一変せり。寛文四年に定着せしを見るに、津輕に大浦氏、閉伊・岩手に南部氏、秋田に佐竹氏、河辺に岩城氏、由里に六郷氏、最上氏は消え、戸澤正誠氏入封せり。徳川氏己が三家の内より酒井氏、松平氏、土岐氏、本多氏、内藤氏、牧野氏、堀氏、井上氏、奥平氏、保科氏をたくみに配し、秋田城之介實季を系ずる子孫を、海なき田村の地に奉じ、辛じて大名の地位に残りたり。

徳川家にして南部氏・佐竹氏・伊達氏に縁るは國替地領も面目に保つたるも、古けき覇になせるを山間領に封じ、徳川三家に縁るをその近領に配したるは萬代の策たり。

寛政五年十月一日  秋田孝季

源氏之陸羽攻伐、心底之事 原漢書

前九年之役・後三年之役・平泉攻伐と、源氏が累代を賭けて陸羽攻伐に手段を百面に変えて執拗にも迫るる魂膽の底になるは、安倍一族の財なり。

然るにや果さず、藤原氏を討て茲にその億財を掠むとて、一挙に二十五萬騎を以て平泉を落したる前に策したるは、賴朝が父祖以来に欲したる安倍一族の永年に蓄積されたる萬貫の金塊なり。藤原氏の華麗になるは是の財を得たるものとて、義經を入れなして密に探ぐれども、その實態に触れず、金賣吉次をして探ぐれども果さず。かく挙兵の段となれり。

もとより義經は是を知りてなせる隱密行爲なれば、義經をようやくにして泰衡の知れる處となり、事露見を悟りて髙舘に火を放って、奥の十三湊より渡島に逐電し、更に満達へと渡りたるも、先に草入れたる家臣の手配りたり。髙舘の焼跡に地の民を誘し、己が鎧武具を着しめて殺したる屍を、各所の柱に縛りて焼き、武藏坊を装ふるに百箭を放つとも倒れざるはその故なり。

義經を討ったる證とて、泰衡がその焼けただれたる首級を屆けきも、事の次第を知るべく賴朝は、心中に在りてこそ泰衡を攻むる口實を造りて平泉は灰盡となれり。賴朝に椋奪されたる金塊は、年産になる藤原氏産金になるものにて、安倍氏になる金藏になるを一粒の砂金にも當らず、諦め得ざる賴朝は一族の者の親臣に拔きて、茲に奥羽・奥陸に家人進駐せしめて探索せしめたり。選拔されし御家人は畠山氏・熊谷氏・葛西氏・足利氏・千葉氏・小山氏・結城氏・三浦氏・二階堂氏・安達氏・大江氏・武藤氏らを配したるも、空果たり。

依て、産金に功たる伊澤氏を向けたるも尚當らず、彼の子孫は地住し、姓を攺めたり。大江氏は寒河江氏、亦は長井氏となり、千葉氏は亘理氏・東氏・相馬氏・大須賀氏となり、小山氏は菊田氏、三浦氏は芦名氏となり、安達氏は大曾禰氏を名乘りぬ。更には千葉氏より國分氏を名乘るもありける。

然るに、安東氏に縁れる地豪も藤原氏亦平氏、清原氏に縁れる地豪に中村氏・能野氏・芝田氏・佐藤氏・田村氏・石川氏等ありて、源家に縁るともその隱密役目を果さざれり。何より怖れたるは、東日流の安倍の直系たる安東一族の存在たりと曰ふなり。

寛政五年六月廿日  秋田孝季

安東水軍之事 原漢書

安東水軍とて諸國に海の覇をなしたる因は、前九年になる恨讐を心底に、藤崎なる平川に白鳥舘を築き、安倍一族を再興せし、日本將軍・安倍厨川太夫貞任の次男、東日流に落着し陸羽に散住せる旧臣を集め、姓を安東と攺め、東日流及び糠部や渡島に湊を築き、山靼及び韓・支那の船を入れて海交商易に財を益したり。

十三湊・マツオマナイ湊・ヌカンヌップ湊・糠部湊・吹浦湊・金井湊・舞涛湊・小泊湊・北浦湊を初として北海産物をして、諸國より来船を十三湊に益したれば、源氏を討つべく軍資・軍馬を平氏に頒したり。依て平氏は源氏を降したるも、常々と安東氏に貢獻を請ふる故に、會津に在りき芦名氏和田賴長を通じ、源賴朝伊豆に在りき頃の和田義盛に平氏討伐への資金・軍馬を援ぜり。

然るに、賴朝及び義盛をして石橋山衣笠城に敗れ、安房に脱し鏡ヶ浦、和田郷、勝浦へと居を移し、安東船五十七艘になる馬及び兵糧に援ぜられ勢をなし、鎌倉に本陣をかまえて平氏の軍を西に追詰めたるとき、木曽義仲起って六波羅探題を破竹の勢に破り、賴朝は更に平泉の義經に援じたる兵馬と軍資にて、流石の平氏勢も富士川に破勢してより、平氏の坂東にある畠山氏・江戸氏らの反忠相継ぎて、木曽義仲は京に在りて横暴に自滅せる後、賴朝は平氏赤間浦に崩滅せる後、被恩もなく、奥州討伐に藤原氏を降すも、東日流安東氏を攻めざるは水軍の技、源氏幕下に非ざる故なり。

亦、安東氏に兆戦せば松浦黨起り、更には内海水軍も起きる可能濃くして到ざるなり。亦、安東船が諸湊に廻船せるとも自在たり。

時の安東水軍とは松浦水軍と古祖、貞任・宗任なる子孫にありせば、源氏の刃も立たざるものにて、只黙認の他術、非ざるなりと曰ふなり。

寛政五年三月廿日  松前屋惣兵衛

陸州伊達氏之事 原漢書

伊達氏の旧姓にては、先に伊佐氏、亦は中村氏、亦は余目氏と姓稱せり。更には常陸介藤氏亦は藤時長を祖とし、更には常陸入道念西とも遺りぬ。以上になる詳しきは、寛政重修諸家譜及び余目旧日記、亦は東鑑、更に正統次考・尊卑分脈らを證たるものとす。

伊達正統世次考に依りては、
大織冠十八代之苗裔、我が伊達氏之始祖陸奥介宗村、
とありき。その故地にては常陸國伊佐荘、一説には上野國中村荘とも曰ふなり。

先づ以て宗家系譜にたどりては、
伊達氏祖・朝宗
─(二代)宗村
─(三代)義廣
─(四代)政依
─(五代)宗綱
─(六代)基宗
─(七代)行朝
─(八代)宗遠
─(九代)政宗
─(十代)氏宗
─(十一代)持宗
─(十二代)成宗
─(十三代)尚宗
─(十四代)稙宗
─(十五代)晴宗
─(十六代)輝宗
─(十七代)政宗
─(十八代)忠宗
─(十九代)綱宗
─(二十代)綱村
と系ずるなり。

七代行朝が元弘四年、義良親王・北畠顯家ら倶に陸奥國府評定衆と相成りたるは、結城宗廣ら陸奥になる北條氏残黨の誅滅に依る特格なり。

建武元年七月、行朝、糠部に蜂起せる北條氏残黨を討平げ、その首領工藤右近監を討取りし領を賜はられたり。翌二年七月、北條時行が石川郡長倉に起したる中先代の乱にその黨が蜂起し、行朝は庶家の爲顯らと共に是を討ちて、八月十三日功に依り、時行欠所地髙野郡北方を賜はられたり。建武二年(※月欠落)十五日足利尊氏、鎌倉に據りて叛旗をひるがえしたるに付き、十二月北畠顯家が南部氏・伊達氏・安東水軍をして鎌倉を攻め、崩れる足利勢を追討し、尊氏は鎭西に逐電したるも、安東水軍は此の戦にては船上に在りて功なしと叱責蒙むり、安東水軍は怒り余りて難波内海・豊後水道を越えて、肥前松浦水軍に足利氏を討たざるを進言せり。義良親王の叱責の一言にて是く仇となりきは、知る由もなく、北畠氏は翌年三月卅日奥州に引揚たり。

九州鎭西の諸豪氏は、かねての元寇にも何事の賞も知行もなき鎭西の武家衆は、挙げて尊氏に從へて京師を攻め、天皇は吉野に遁がれたり。勅令下りて、北畠氏は奥州より足利勢を攻めたるも、和泉にかまえたる内海の海兵らに不意を突かれ顯家は討死し、奥州勢は敗北し國府多賀城も、がら空きとなれり。

依て吉野にて、天皇は北畠顯信を陸奥介兼鎭守府將軍と任じ、陸奥大守義良親王の補佐とせり。是に倶のふて北畠親房・伊達氏・南部氏ら閏七月廿六日の詔を奉じて、九月十二日伊勢大湊より地の船頭を賴みて出帆せしも、遠州灘を乘りきれず、潮に漂ふまま親房・朝行らは常陸に漂着し、義良親王・北畠顯信らは鹿島灘を漂流せるを、漁民に救はれたりと曰ふ。依て、吉野朝庭は後興に及ばず崩壊をたどりぬ。

その頃、奥州にては興國元年の大津浪起り、安東水軍の根據地十三湊は壊滅し、安東水軍は諸國の湊津に四散し、時の領主盛季も困惑せり。死者十萬と曰ふ大惨事にて、東日流の民は渡島及び秋田に移り、北秋田未開地を拓田移住し、時に安東盛季は祖来の秘洞に金塊を一萬兩いだして移民衆に与へたと曰ふ。

興國四年二月七日、伊達行朝は伊佐荘に死去せり。行朝は、天皇親政は武家衆に染はずとて、生前にして安東宗秦の船にて京に足利尊氏と和睦し、征討の災を陸羽に及ばざるを請願し、南西賜領を還獻せりと曰ふ。依て、足利氏は陸奥に於る戦没者一切供養の爲に、東唱山安國寺を奉寄せりと曰ふなり。亦、南部氏の地領に朽たる淨法寺及び西法寺等の再建にも奉寄なし、東日流には平等教院を再興せしめたり。今に遺れる天台寺、東日流の萬藏寺は是の如しで遺れり。

弘化甲辰八月六日  僧瑞乘阿闍梨

出羽最上氏之事 原漢書

最上氏の遠祖は斯波氏なり。奥州探題・斯波家兼の子息、兼賴は延文元年に羽州探題に任ぜられ、最上山形に城築して地領す。兼賴は最上と姓を攺め、直家─満直─満春─義秋と代を次ぐ。

天童氏・黒川氏は庶家にして、最上家は隣接たる伊達家との抗爭にくりかえしたり。最上義定のとき伊達稙宗と山形長谷堂の戦に敗れ、一挙三千七百五十二騎を失ふより、その勢を失ふままに永正十七年に義定は死去せり。義定のあと中野義淸の子・義守が継ぎ、まったく伊達氏の傀儡となりて、最上家になる内紛絶えず、天文ノ乱に伊達氏の軍に二分なして爭ふさまなり。

義守に三男一女あり。義光は男子長男たるも、父義守は何故にか次男の義時を後継にせんとすときに、家老の氏家伊予守定直は主君をさとし、義光を家督として義守を隱居とし、義時を中野家に、三男を楯岡家に相續せしめ、長女義姫を伊達輝宗の室とせり。依て四方圓満と相成り、義光は己れに忠實なき者を誅し、不忠實たる者への報復を加へたり。

義光四辺にある大物には、鮭延城の鮭延秀綱、沼田城の日野京享、谷地城には白鳥長久、寒河江城には大江尭元、中野城には中野義時、鮎貝城には鮎貝宗槍、上山城には里見民部、そして米澤には伊達政宗が控へ、山形城にある最上義光はその中央に在り。

此の他にそれぞれの持城と曰ふべく各處の支城は、新田目城、東禪寺城、狩川城、藤具城、尾浦城、大寶寺城には武藤義氏、松根城、丸岡城、小國城、延澤城、鬼田城、楯岡城、東根城、髙𢰤城、白岩城、左澤城、鳥ヶ森城、山辺城、上家城、二邑城、荒砥城、小櫻城、鳥ヶ森城ら多くも遂には義光を窮地に落むる。

天正十九年に豊臣秀吉の奥州仕置にて、五十七万石の大名となるも、十三代の義俊のとき元和八年に攺易さる。

文政五年八月二日  竹島常郷

後羽佐竹氏之事 原漢書

秋田城之介安東實季が居領になる秋田の地に君臨せるは佐竹義重なり。佐竹氏は新羅三郎義光を祖とし、義業─昌義を以て佐竹氏と攺姓す。然るに佐竹家は代々振はず、十五代義舜まで一族の内紛に空轉せるも、十六代佐竹義篤が陸奥南部・常陸七郡に進討して佐竹再興を築きたり。

天文十九年義篤が没し、子息義昭が継ぎ、陸奥進攻を始む。白河結城氏領を掌中にし、更に府中の大掾氏・小田氏・眞壁氏を降して、その領を掌握せり。

永禄八年、義昭の子息義重が上杉氏と和睦し、北條氏の北侵を抗戦を進攻して、茲に常陸の江戸崎土浦を統一せり。亦、奥陸への進攻を、天正五年春に白河城を攻め落し、伊達政宗の圏に突せり。人取の合戦は上杉氏との策謀にして、佐竹氏は豊臣・徳川氏への両刃に交を盡し、天正十五年三月子息義廣を芦名氏に養子とて入れ、佐竹・芦名の合勢を以て伊達氏との抗戦にあり。

慶長十七年、佐竹義重は轉封の秋田の久保田城にて死去せり。時に、義重六十八歳たり。秋田轉封は最上氏・松平氏等と謀り、秋田實季を評定所にて、佐竹氏はゆさぶり、實季を遂に伊勢朝熊に蟄居せしむに謀りて是れを果したり。

秋田に入るは、是も例に依るべく安倍一族の穏金山が狙ひたり。義重のあとになるは義宣─義隆と継げたり。

文政五年八月二日  竹島常郷

會津芦名氏之事 原漢書

芦名氏は相模國の豪族三浦氏の流れにて、坂東の八平氏・平將門らと一族に當る三浦義明の次になる義連を以て芦名に姓を攺む。その子息盛連の子・經連は猪苗代氏を姓とし、次男・光盛は芦名氏を継ぐ。

十三代盛髙は伊達持宗の息女を室とし、その間になる次男盛舜を後目相續なさしめ、長女を伊達植宗の室とし、盛舜の子息盛氏は伊達植宗に息女を嫁がせ、盛氏の長男・盛興に伊達晴宗の息女を室とせる、四代に渉る血縁にありける。

芦名十六代・盛氏は、安達・安積・岩瀬・田村・白河の諸郡を一統したるは、まず天文十一年に山内氏を討伐。天文十九年安積の田村隆顯を降し、永禄三年には田村・佐竹の軍と戦い、永禄四年に長沼氏を討つ。天正元年に佐竹義重と戦い、天正二年に田村氏・二階堂氏らと戦ふなど、天正八年に黒川城にて入寂す。

盛氏の滅後は、芦名家に内紛常に起りて、十八代盛隆は寵臣の大庭三左衛門に斬られ慘死せり。

文政五年八月二日  竹島常郷

伊達政宗之事 原漢書

天正十五年、世は戦國にして置賜・信夫・伊達三郡に君臨せし伊達政宗は秀なりき。家臣に推され奥州に覇をなせり。政宗によりて討たれ亦は交戦にある鎌倉御家人や地豪の衆は、大崎義隆・最上義光・相馬義胤・大内定綱・二本松畠山氏・穴澤氏・金上氏・猪苗代盛國・髙玉氏・芦名義廣・二階堂盛義・岩城常隆・佐竹義重・石川昭光・白川義親・山内氏・長沼氏・河原田氏ら覇勢の當時にして、政宗に從ふは葛西晴信・黒川氏・留守政景・田村淸顯らにして、政宗に卆近の家臣には沼辺重伸・古田重直・柴田宗朝・大内重綱・伊達宗利・泉田重時・伊達宗綱・石母田宗賴・白石宗直・津田景康・遠藤玄信・亘理宗根・伊達宗泰・片平親綱・鈴木元信・茂庭良元・伊達定宗・奥山兼淸・髙野光兼・片倉景綱・石川義宗・伊達成實・黒木宗元・佐藤勝信・大條實賴・中島宗求らにして、身近には石川昭光・泉田重光・片倉影綱・片倉重長・白石宗實・鈴木元信・伊達成實・津田景康・支倉常長・原田宗時・茂庭延元・茂庭良直・屋代景賴・留守政景・亘理元宗らの勇猛果断に渉る處に政宗ありけるなり。

然るに、秀吉の發布せる關東奥羽両國惣無事令は、政宗が芦名氏を會津摺上原に義廣を討取しは天正十七年六月五日にて、私戦を禁ぜし惣無事令發布は天正十五年の事也。依て、秀吉は奥州日本までも討平らげんとて、小田原攻めに口實に、心底は正宗を討つべく心算にありけるを、正宗はこれを逆手に取り小田原攻めに出陣せんとせる前夜、實母に毒殺を謀られ、母の溺愛せる己が弟小次郎を自からの手にて誅したり。狂気の如く悲む母を蟄居にして、白麻の陣羽織・死出装束にて秀吉と對面し、その度量に進參の代償とて、會津・岩瀬・安積の領没収せる耳にて、正宗本領は安堵さる。

小田原攻め了して後になる奥羽仕置、亦刀狩などを以て、太閤検地と相成りてより、その賦貢の不平が陸羽の一撥と相成り、南部にては九戸政實の乱、和賀稗貫の一撥、仙北の一撥、庄内一撥、葛西大崎一撥、南山一撥に擴大せるに、是れ政宗の扇動せるものとて、秀吉は上洛せよとの令を天正十九年正月十九日に屆くるに、晦日に米澤を發って二月四日に京師に入り、正宗行列三百騎、先頭には金箔になる磔柱が人目に触れて、政宗が二度目の死装束にて秀吉に對面せり。

時に秀吉は、政宗が蒲生氏に當てた一撥扇動とおぼしき文面になる政宗の書状に鶺鴒の華押を示され、動かざる證とせるを、政宗うち笑って曰く、是れ僞書也とて、花押鶺鴒の目に針穴なきを異議せり。依て、古きよりの政宗書状を證審せるに針穴無きものなきに依りて、赦されたり。

天正十九年に朝鮮征伐を挙行したる秀吉は、伊達に令して文禄元年に三千の兵を以て出兵させたるも、事ならず朝鮮を引揚たりと曰ふ。かくして秀吉の清國討伐は果さず、代は東國政權に濃厚と相成りぬ世襲たり。

文政五年八月二日  竹島常郷

安東史秘讀政宗之事 原漢書

伊達政宗が秋田實季に對面を果したるは、慶長丁酉二年五月二十二日。政宗は先度に次ぐ朝鮮征伐の挙兵を秀吉に令ぜらる時に、先度の敗因なるは海兵の弱にありとて、正宗は秋田城之介實季に再參にして書状を以て、安東船の古期になる、山靼船・韓船・唐船より潮速たりし、安東船の造図を請れども、無きとて果されず。

支倉与市・山口之常長を遣したるも果さず、此の年三度に渉りて秋田氏に請願しければ、實季自から江刺邑にて政宗と對面せり。ときに秋田にて地豪の者、秋田氏に反旗しその攻防に余念なきも、實季萬急を拔けて會せり。江刺の地は古田重直の代官せし地にて伊達領たるも、古き世に安倍日本將軍衣川太夫賴良が、宇曽利の安倍富忠に討死せし處なりせば、實季と正宗、徹夜をして世襲を語りて宴げむ。

實季が政宗に与へたる古書にては、支那揚州なる知事イタリアのベニスなる商人マルコポーロになる海航図及び南洋渡図及びローマ船なる船造図なり。亦、付して安東船二柱斜柱帆の船図たり。更に、鮮卑書・山靼書を一巻にせる傳方書にて、政宗是を日夜に秘讀せり。

政宗の心を躍らせたるは、山靼書になる紅毛國図解なり。正宗は常にして先進たる西洋の諸化科學を、悦びに燃ゆ如く讀得し、即坐に是を實科に究せり。是れに當りたるは、支倉常長を通し秋田氏の推挙に招かる徳川家康六男・松平忠輝ら倶にして、西洋の人々に接したり。

朝鮮討伐船建造に端をなせる安東史書より、政宗は世界に交路を海に望みたり。地領を海濱にある政宗は、藩を挙してその築湊、運河を築き、天然湊に惠まれたる月浦湊・月濱湊・石巻湊らを築湊せり。政宗が西洋に向はむ造船に、秋田氏より土崎湊・船大工二十七人を寄せしめて、安東史書になる二柱斜柱三本になれるサン・ウアン・パプチスタ號の造船に、秋田杉・東日流羅漢柏らの材を寄せて、支倉常長以下百四十人・南藩人四十人を乘じて、月浦より出帆せるは慶長十八年六月七日なりと曰ふ。

然るにや、その翌年にては大坂冬の陣、元和元年大坂夏の陣とに東軍の勝利となりけるとき、支倉常長ローマ法王に政宗書論を呈上せり。かかる大事にありきを、家康は知る由もなく死去せしあと、かかる紅毛人との交易を内許せる松平忠輝を攺易せるは元和二年にして、寛永八年に秋田實季もまた攺易され、ともに伊勢朝熊の地に蟄居の身となれり。倶に罪科は関ヶ原の合戦に不參戦との理由にて、両者納得ならざる徳川秀忠を恨めりと曰ふなり。

文政五年八月二日  竹島常郷

快航サン・ファン・パプチスタ號之事

一、

宇曽利阿毎城之鉄、秋田大葛之金、阿仁之金、荒川之銀、増田之金、院内之金、陸奥半田之銀、津谷之金、世田米之金、釜石之鉄、奥陸中山之羅漢柏、秋田之杉、舞草鍛冶師三十人、木挽百六十人、土崎船大工二十七人、宮古船大工十七人、小名濱大工七人、石巻大工五十人、栗原麻綱・遠田織等材料人夫七百日、雄勝濱造遣歐船也。

寛永元年二月一日  留守春光

二、覚之事

遣歐船、横五間四尺、長十八間五尺、髙十四間一尺五寸。帆柱、直柱二本十六間三尺、斜柱前方一本、差又二本十間。潮當板張、松四寸・一尺五寸厚幅。仕切壁板、一寸一尺厚幅。洗板、一寸五分・一尺五寸厚幅。舵屋形、二間四面綱八千尋。非常舟六艘。水槽、三尺角槽深六尺二十四槽。火處炭倉庫・糧倉庫等。舶底中舶室、大小四十室。雪沈、舶上在左右。積他船修理材。備鉄砲六十丁・大銃左右十門。弓刀、客位持。予備帆及綱・油灯・狼火。左右艣二十本。非常糧、焼米・焼豆若干。

右通大略、説歐遣船也。

寛永元年二月一日  留守春光

歐遣舶之事 原漢書

船號を燦赴安波扶持巣多さんふあんばぷちすた號と稱す。船長山口与市、イスパニア遣日大使セパスチャン・ビスカイノ、江戸修道院ベアト・ルイス・ソテロ等以下百八十餘人を乘じて慶長十八年九月十五日、陸奥月の輪のかかれる満月、西山に沈む早朝にして、月浦を出湊せり。

同年十二月十九日、イスパニアなるアカプルコに湾着せり。サン・ファン・バブチスタ號に秋田實季が特になる者を乘船せしは、政宗獨りの知る處なりて、彦次郎とて乘船せしあり。彼ぞ實季をして湊方を鎭めたる火内彦次郎なり。古き阿毎氏より安倍氏・安東氏そして現君・實季をして右腕たる重臣にして、山靼にまかる事五再度になる人物なり。彼をしてローマ語・ローマ文字を解く仁なるも、慶長十九年五月三日に山口与市と同道せずアカプロコに残りしは、パナマ地峽の古跡を實視せる實季の密命に依れるものなりと曰ふ。

伊達の山口与市は三十人を選びて、天正十九年の五月三日にサン・ファン・デ・ウルフ港を、次なる大海をソテロの故國セビリアに到着したは九月十八日にて、ソテロは十五年を經て故土を踏みたり。二十四日に山口与市はセビリア主長に伊達正宗の書簡を贈りて、十二月二十日雪のマドリードを見る。

その頃、火内彦次郎はパナマ地境の土民古跡を巡脚し、テオテワカンやテノチテイトラン更に南東のパレンケ及びコバンやテイカル、更に大密林になるチチエン・イツアー、擴巨なる石築の古代神殿の跡々を地の民に聞きて書留たり。その故は、山口与市に從卆せる者三十人と限られ、サン・ファン・デ・ウルフ湊にて別れ、彼等の歸るべく長日の留舶となるべく間なる、火内彦次郎の主君秋田城之介實季殿の内令に依る視察なり。

一方、山口与市ら三十名は慶長二十年一月二日、スペイン國王フエリッペ三世に拝謁仕り、政宗親書を奉呈せり。更に、スペイン艦に乘りてパルセロナよりローマに到り、教皇の謁見を許され、正宗の書状を奉呈仕れり。

かくして歸る山口与一は、アカプルコよりルソンに到り、長崎に寄りて千臺に到るまでの間、七年の歳月。元和六年に至る遣歐の大航路たり。

寛永元年二月一日  留守春光

火内彦次郎アカプルコ報告書

秋田城之介家臣・火内彦次郎、古代マヤ王史觀書十二巻になるを實季に獻上せども、是書は三春大火にて天明の年焼失せり。依て今に遺るは書写になるのみ、石塔山荒覇吐神社に遺るも、是亦虫喰にて讀難し。知られざる東海の大國マヤ王國の信じ難き大遺跡をなせるは、紅毛人に非らず、山靼に血累せる民族たりと曰ふ。

火内彦次郎の記になるは、古代マヤ族王の史は、怪奇たる大積石塔に代々の史傳を刻み、天運を測り、古代日輪の生滅と生誕をなせる予言なりと曰ふも、信仰に以て尋常ならず、妖気・迷信になる多し。人を贄とし、生ける娘の心の臓を供物とて捧ぐるとは、邪道なり。民は古来より、かかる迷信に責勞なし、大積石殿を造りたるも、人の生命を輕んずるは如何なる快美たる遺跡とて民の背信となり、大密林に殘骸の空しきに絶ゆなり、云々とありきなり。

伊達家臣・留守春光の聞書

彦次郎より、寛永元年二月一日、伊達家臣留守春光の聞書に依りては、次の如く記行ありける。

火内彦次郎、藩外臣たる故にローマ訪歐に外れ、アカプルコに残るる間、パナマなる地峽東西にマヤ遺跡に巡脚せり、と曰ふ。湖島になるテオテワカン、東方のチチェン・エツアと稱す日輪神の石塔に登りて、マヤ王即ちアステカ王との二大王遺跡に見ゆは、信仰に以て心理尋常ならず。信仰に以て尚妖慘にして、人の生贄、生ける心の臓捧ぐは、他人の皮をはぎて神石像に着奉せる信仰のありかたや、覚ゆたくもなしと、等を絶筆なし居れり。

文政五年六月一日  和田長三郎

丑寅日本国王不爲

〽曇りなき心の月を先だてて
  浮世の闇を照らしてぞ逝く

伊達正宗

〽この世をば逢ふも別れの衣川
  岩手お山の片景ぞかし

安倍賴時

陸羽に覇をなせし両者の辭世なり。安倍賴時をして日本將軍たるに在り乍ら、一族の反忠の狙箭に、想い餘程なる丑寅日本國の泰平を果さぬまま、一族滅亡の兆を残して逝くを岩手山の景に己が心を残したる辭世なり。

正宗もまた陸羽一の大名座にあり乍ら、心に世界との智識を求め乍ら逝く辭世にありき。

両者の心底にありきは、日本王たるの爲らざる世の運勢を次世にかけなして、諦々の感になる遺歌とも覚かしむなり。

秋田實季とて攺易なくば、陸羽は世界に通じ、北方の領權に夢の實成叶いたるも知れず、と曰ふ。家康をして天下人となれしきは、その代々して鎖国をなし、民を下敷きになる武農工商の民階級に島國魂性を永代せるに到りきは、丑寅の夜明くるぞはるかなり。

代々末代に久しければ、此の國は世界に、しこぶるおくるるの憂あり。己々陸羽人はかかるを安東船外交の睦き世ありきに學ぶべし。

文政五年六月一日  和田長三郎

相馬氏之事

相馬氏は、下總の千葉常胤より發す。以来、小髙城主とて十四代をなし、芦名・伊達・田村・長江・亘理らの緣をなせり。

然るに、伊達稙宗の息女を室とせし相馬顯胤は、稙宗と睦ましきに、晴宗は顯胤を敵とて妬まれる敵對を展ぜり。天正八年伊達正宗が初陣に至るまで、五十年間に於ける抗爭たり。永禄七年、名取郡座流川の合戦にては、流石の伊達軍も敗北し、相馬軍は伊具郡丸森城に據りて伊具全領を掌中にせり。

盛胤、妹は田村淸顯の室にして、息女を亘理美濃守に室として与へ、己が室は伊達義宗の息女を得てあり。嫡男義胤は剛勇にて天正四年七月、矢ノ目・妙賀山にて伊達輝宗との合戦。金山・新地・塩松・常葉などなどに戦い、大軍なる正宗さえ是を降し得られざる、相馬の騎馬兵なる強さありけるなり。その嫡男・利胤は中村城、六萬石大名たりて永代す。

是も初代・相馬師常が騎馬兵術を、遠野に於て豊間根義任即ち安倍正任の子孫に傳授されしものを、子孫に傳へしものと曰ふなり。此の馬術にては、蒙古なるチャバンドウというより安東一族が授傳せるものに、師常が是ぞ安倍の戦法秀なりとて、子孫に傳へきものなり。

文政五年六月一日  和田長三郎

安東船造法不朽

幕府令に依て慶長十四年大船建造を禁ぜしも、その造法に南藩船如き技に到らざる故なり。家康、内意にて訪歐船を造らしめ、その吟味役とて御用船手頭・向井將監を造船に立合せしも、何事の指揮に叶はざりけり。

正宗がその頭領とて選ぶる秋田實季家臣・火内彦次郎貞盛は、もともと先代より安東船の京役管領船奉行たる檜山城能代湊船検審たるにて、彼の船造図を以て造作ぞ進められたる故なり。

安東船は、ときにして幻船たりとも、その造法は釘一本あやまらず図面に詳しければ、立所に骨格なし、揚州に交航せし荒覇吐丸をなせる建造船図に、アラビア船型を用ひて建造さる。

正宗は是を満足として、向井將監をも訪歐に加へたり。船方衆は土崎衆・能代衆・気仙衆・松島衆を以て餘人を入れざる也。

文政五年六月一日  和田長三郎

伊勢朝熊の蟄月

松平忠輝は父・家康が存命のみぎり、信州川中島に十二萬石を以て入封せしが、忠輝若年の爲に家康は大久保長安を財政後見役とて添はしめたり。家康は、甲州金山の武田穏鑛を信州にありとて、大久保長安の推挙なりけるも、平素特収なき信州川中島に、松平家はその知行に安泰たり。

慶長十二年忠輝は、陸奥太守政宗の息女・五郎八姫を室と迎えたり。慶長十八年四月二十五日、大久保長安が入寂したる居間にありき石櫃より、幕府轉仆を企てたる書状のありとて、隱密・服部半藏の訴に依りて家捜されきに、いできたりとて、その内容にや、徳川家康六男松平忠輝・伊達政宗・秋田實季・南藩人フランシスコ會師ルイソテロ等のかかはりありとぞ覚しき書意の記行ありとて、騒々せり。

是れぞ、徳川秀忠の策したる穏謀になるものにて、幕府直接にならざる訪歐船を制止せんとせる大老らに依る作爲たるは明白たりしも、その連判になる證なき故に、大久保家の子息七人ことごとく討首となりけるは同年七月なりける。依て大久保長安一存の謀事とて落着せしも、企策ならざる大老の審議もその評定不審の異議、諸老中より大久保長安子息を誅したるを秀忠に苦情相次ぎて、事の續審議・評定を不問に断じたり。

依て、慶長十八年九月十五日夜丑満、月の浦より満月を迎ぎてサン・ファンバプチスタ號は遣歐の船路、東に西風・追手風に出帆せり。翌十九年大坂夏の陣、元和元年に大坂冬の陣を以て、徳川幕府は坂東を中央にて、全國一統の大基をなせり。

その翌年、徳川家康死去とともに幕府功勲賞罰評定のもとに、松平忠輝を攺易と決し、忠輝を以て伊勢朝熊に蟄居と相成り、その故は關ヶ原に參陣せざるの理由たり。

元和六年、訪歐の支倉常長、仙臺に歸航せるも何事の觀迎もなく、支倉常長も謹慎され、訪歐船サン・ファン・バプチスタ號は幕府・船目付同乘せし向井將監の立合にて、追波湾沖にて爆砕せり。

秀忠を中心に間言せる穏謀しきりにて、元和九年將軍を家光に譲らざるを得ずして、秀忠後事を政宗に託せり。寛永八年秀忠病にありけるを、政宗見舞ふとせしに、幕府連の謀にて制止され、再度の幕府創建時の評定、再審議評定相成りて、その矢面に秋田城之介實季が挙げられ、是も關ヶ原合戦に不參の事とて忠輝が居す伊勢朝熊に蟄居と相成りきも、後継續任とて大名の地位は政宗の請上に秀忠の添状ありて評定落着し、實季は不復乍らも朝熊に忠輝と蟄月を宴む。

文政五年七月二日  秋田孝季

丑寅日本國不滅之事

朝幕にして怖るるは、丑寅の地人なり。古より蝦夷は蝦夷を以て討つ間諜より、地殻大平なれば權謀隱密にして画策しきりにして世襲す。安倍・安東・秋田氏になる流轉の史に浮沈せる世襲のありかたや、人世の空しきに到りて了る水泡の如し。

然るにや、世に起りきは史實なり。人は是を消滅の彼方に權を以て出芽の眞相を制ふとも、出芽になる地中根を枯らせるは能はざるなり。古き安倍氏の歴史、新しき伊達氏の歴史さえも曲折さるに、眞相をゆがむるは何故ぞ。戦國にあれ泰平にあれ、非理法權天に神の法則はなれども、人は常にして己れを知る者なし。故以て、盛衰は世襲となりけるなり。

伊達政宗は父輝宗と倶に修験の信仰があり、長海阿闍梨に人の生ざま・身の置きざまをさとされて育つ。亦、讀書算・修験五遁の奥義。是れは安東一族も継主たる者をして同じく修験の道に精進せるを以て萬難を果断せる實成を得る、覇者の芯を保つて人との和を欠かざる義は破邪顯正と相成る心の持方をして何事にも遁行攻行、果断に達す。精神一途は修験の心得とせり。政宗が生涯、長海阿闍梨の教へになる役小角を心の寄所として祀れる證は、松島の瑞巌寺に遺る役小角像をして知見しべきなり。

亦、紅毛人の神々を、秋田實季より贈られし山靼書を夜に更けて讀得し、心を世界に翔けたりとも曰ふ。是ぞ、安倍・安東・秋田氏は平安の頃より實行果断にして、北方領に丑寅日本國領の標を國住土民に納得せしめ、地産物交をなしたる安東水軍の誕生に到らしめたり。餘の陸羽大名に忍坐を遺したるも、世襲に消ゆなかに、秋田氏・伊達氏の今に遺る未来は如何とも予言難きも、陸羽にして古今に覇をなせし者の存續實史は久遠に遺りき史實なり。

千古の苔下に黙示せる東日流中山の三千坊に人影ぞ無くも、入峰して靈きびしく胸さわぐ松島瑞巌寺の役小角像、今に修験の行に翔ける出羽の法場。何れも金剛胎臓両界の淨と顯とに法界の調和を今になせる道場たり。

文政五年六月二日  和田長三郎吉次

津輕大浦爲信之事

戦國の世にありて久慈糠部の地に誕生せる扇丸、長じて久慈平藏は津輕南部家に養子とて入りけるより、四辺にまはる南西の武家衆をものとせず、南西の大系北畠朝臣顯村の居城行丘城を落してより、津輕一統せし爲信の果断をして敗者の間言多く遺れども、戦國にてかかる果断に事成せる武將はまれなり。

爲信をして敗滅せる津輕六郡の諸家、話多けるも、津輕藩祖とて今に遺るるは天晴なり。何事あれ世に去り世に顯れ、一國一城の主となる過却にたぐりては、萬事をして美談に遺るは少なく、亦あるべからざるなり。

津輕右京太夫爲信、正に武人の奇才也。

文政五年六月二日  和田長三郎吉次

爲信遺歌集

〽さえかへる浪こゝもとにきさらぎの
  七里長濱雪に砂負ふ

〽わくらはに心にくしや山吹の
  かほりをこめて花ぞ盛るる

〽三つ𡶶の岩木みやまも雪見えず
  わがいほあたり蟬ぞさわがし

〽まさり草光をかざる秋暮れの
  津輕は今を稻盛りなり

津輕八景/平賀郡

〽平賀野に岩木見ゆれば日の本の
  富士にもまさる我が郷の山

鼻輪郡

〽朔の岩木お山のいただきに
  朝日の昇る見や日の本を

田舎郡

〽秋盛り中野のもみぢ錦なる
  おしらあそびに人は宴げむ

奥法郡

〽行丘の山より眺む津輕野は
  稻の拓けむ黄金波立つ

馬郡

〽天日もとざせる程にあすなろの
  千古に満る中山の峯

江留間郡

〽十三湊昔想いば安東の
  古事にまつはる夕日ゆうにちを見る

上磯濱

〽鰺ヶ澤吹浦ともに北前の
  積荷荷降ろす市は盛るる

外ヶ濱

〽安方の湊に群れるうとう鳥
  松前船に啼きてたはむる

北屋文書より

古事跡口説くどき 原漢書

唐船・山靼船も来舶を常とせる吾が祖、藤原十三左衛門秀榮の居住せし福島の舘跡。山王日色神社の靜寂。十三千坊の春日内龍興寺、阿吽寺、長谷寺、禪林寺。秀榮入道に隱居せし壇林寺は今に湊迎寺也。

吾れ志すは江留間舘岡に舘を築きて潮風に當り、海幸を美味とて逝老の長寿を得む望みを、捨てもせで今に在り。

國末なる津輕にありては芦野なる大里、拓田水利の計ありて、豊げむ國土に化せんを夢む也。

文禄丙申月日  右京爲信
右、北屋文書

津輕大里之事

吾が大里、津輕藩祖の一統せる國土は、海幸・山幸の郷なり。年毎に外三郡大芦原も稻田に拓けくを賦貢に免じ、代々の藩主に在りては、藩祖の大志を相継ぎて企てぬ。

新田奉行に至りては、他國に見られざる反當に餘地を加へ、澤田にては一町歩を四反とせり。依て、幕府検地を審議評定にまかり通り、納税におこたりなく年歳に完納せり。上田・下田の儀は庄屋の判断に委ね、津輕にては身賣りの悲聞を聞かず。女郎など糠部・渡島より密住せるも科とせず。

亦、寛永宗教攺めも、千臺藩より入潜せるとも、是を罰したる例なし。ただ、キリシタン及びイルマン更にパテレン訴人あるべくの髙札はありきも、訴人にありきはなかりける。依て外三郡に念珠をコンタチ、地藏堂をハライソと曰ふあり。地藏袈裟に十字を縫付くる風習今に是ありぬ。

地藏の図

寺社奉行も地藏信仰をして立巡るなく、津輕外三郡にては唐川地藏・川倉地藏・飯積西院地藏とて數、幾萬體なり。

津輕地藏信仰にては、故人の名を呼びて拝むる他、地藏菩薩と唱ふ者はなかりけり。幼子を亡くして地藏と石工に造らしも、女は吾が亡き子の名を呼びて涙せる。他、イタコに靈媒をして亡き人と生々の時同じくして語り合ふるさま、宇曽利の恐山法場と異ならざるなり。石なほ叫ばむや。津輕の風物詩なり。地藏堂のみにては各宗異にせるとも、一同に集まれる法場にて、何人にも支障されざる處にて、七日七夜の供養なせり。

文政五年六月二日 飯詰庄屋、和田長三郎

語部昔話一、

ベゴの金山

ベゴとは牛のことなり。昔、鹿角の和田邑に傳七と曰ふ杣夫あり。山に木を伐り、亦炭を焼きて業とす。一匹の雄牛を飼ひて、荷を里に降るを常とせり。

この牛、日中、山に草を食しては寝そべる毎日なるも、傳七、里に歸りなむとせるも、あたりに牛の居る気配なく、さては熊に襲はれしか、と急ぎ邑に歸りて人手を借り、マタギを賴みて山々を探せるも、見當らず。

傳七は、あきらめも心得らず、三日も人々をやとひて探しけるに、尾猿の澤に黒牛を見たりと告げたる山菜取の若者に聞き、何故に山また山の彼方にと、己が牛なるか否やと思案もそぞろに尾猿の澤に探してれば、まことたがはず己が飼牛たり。

此の牛、老いたるに依りて、近くナンコの賣る心算にて、傳七は放飼に太らせむ矢先の出来事なれば、その気配、牛に覚られしかとぞ傳七は牛にあやまれり。ナンコとは屠殺の事なり。

傳七を見付くる牛は走り近寄りけるを、その頭をいだきて傳七曰く、二歳のときより荷を負はせ、十年も吾れと暮せしをナンコにやると思いし、あぐどいおれば赦してけれ、と摺でやり涙せば、聞き屆くるかこの老牛悦び啼けり。

もうたる牛聲、谷間にこだまして、しきり前蹄を土にかくを、傳七見たれば牛爪に光れる石の挾まれるを見付け、あゝこれで暴走したるかと、これを取りたるに、なんと、まぎれもなき金塊たり。牛三十頭は樂に買ふほどの重きにて、傳七は悦びて村中の人に酒を興して、牛探しの禮をなせり。

この話に聞きて、津輕・閉伊・飽田の山師ら、牛の見當る澤々を金鑛ありと、群がるほどに探せども無かりければ、傳七の話もとぎれたる頃、この老牛歩くも易得ならざるに老いたるも、傳七はナンコにせず毎日草刈り与へける。

或る日、牛は木戸を破りてしきりに啼けり。傳七、不思儀に思いて牛のままに見つむるや、牛はしきりに首を山に向へて振り歩きたり。牛の思ふがままに歩けるあとをたどりて、行きつる山は小澤の小瀧にて、牛はその場に寝そべり首を振りて傳七を招くが如くして動かざるに、傳七近よりければ息なく、老牛は即ちにして死居りたり。

流石、傳七涙して、家に鍬取り歸りて牛を葬むるべく土堀りければ、底になる石磐に當りてそれを見つるや、傳七驚きたり。枝を通して當るる日輪の光りに輝くは彼の山師ら見付得ざる金鑛たり。

此の澤に牛を葬むりて、傳七は骸の角先を斬りてかたみとし、ねんごろに土盛り、一柱建てなし、ベゴ塚とて他言せぬまま傳七は二度と牛飼うなく暮せるに、不可思儀や人の世話にてオバコばもらい夫婦となり、あたりもうらやむ睦ましさに暮し、傳七、三人の子に惠ぐまれ、長男を丑太郎、次男を丑之介、長女をおうしと名づけたり。

傳七老いて、八十三歳にして死せるも、長男丑太郎のみに彼の金鑛の處在を告げて、如何なるありても掘りてはならずと戒め、丑太郎も是を護れり。

文政六年七月十三日  語部そで

語部昔話二

糠部名久井の話なり。大古より名久井の山に仙人住めり。眼は鷹の如く百里四方を見通し、鼻にかぐこと亦然りなり。身に着くものは毛皮にて、七尺の杖を突き、六匹の狼を手馴け、八匹の熊をも馴しめ、土窟を掘らしめて住むと曰ふ。仙人の名は大毘古命と曰ふも、仙人の口ならずのうわさにて稱されき名付けなり。

名久井とは、古き世に名喰と曰ふ意にして、名を捨つる境界の山境なり。日本中央とは、本州の國果てなれど、丑寅日本國をして中央とせるは流鬼國に及ぶる領界を示せるものなり。

吾國を護る神とて、長髄彦命の妹女をめとりし大毘古命、天の浮舟にて此の山𡶶に天降れる古事ありて、名久井岳こそ倭神の天降れる聖山と曰ふ。

大毘古命、是れ秋田系図にも見ゆかし古神話の一説なるも、倭の三輪山にては世にも無かりける神武天皇を史源とす。依って信じべきに當らざるも、古事は正實なり。

文政六年七月五日  磯野權重

語部昔話三

糠部荷薩體の地に安日山あり。三大川水源にて、西に流る米代川、東に流る鳥淵川、南に流る北上川の水原分水嶺なり。倭が丑寅日本國の地祖なる三つの聖流なり。代々をしてこの河にまつはれる歴史を秘にして、今も流る川面を見よかし、元なる水は無けれども、流れぞ絶間なかりき。丑寅日本國歴史の聖流なり。

濤々と上に木の荒潜れる天雨を集めて湲流となり、大河となりけるその川辺になる歴史の數々、流脈絶えざる河の瀨音に耳をかたむけよ。人の創めより川辺に古人は住み、流れに木を浮べて往来し、海より登る魚漁の幸、命の糧、兵兵萬馬の戦にも人の血を流し去りし川、雨泥も集め淸らしむ母なる川を、今更に心鎭めて古事を愢ぶべし。

文政六年七月一日 閉伊遠野邑、安倍國香

終章

本巻は六巻を以て終了せり。丑寅風土記、古きも新しきも通史になき實史を以て記載せり。

代々をして權政に實證はありにくく、僞は萬里に渉り易く、眞實は人の耳見に障りて顯れ難し。然る眞實は萬論を拔くなり。世に僞を眞事に遺す者は救はれ難く、人とて世に遇難し。

子孫に曰ふ。貧くも心に貧しきを拔ふべし。善惡の道理は誰とてぞ心中にあり。唯、己れの心に何れを選ぶるかに定まれる也。子孫よ、此の國は古祖が開きし日本國なり。もとより倭國とは國創も異にせる故國なり。蝦夷とはなんぞや。化外とは何ぞや。此の地は倭に非ず、丑寅の日本國とて、古祖の國號せし故地なり。大志を以て歴史の實相・相傳を坂東より北魁に挙げよ。此の國は吾等が骨なり、肉なり、血なりと覚つこそよけれ。

明治四十四年十二月日 和田末吉