丑寅日本總巻

孝季

申付之事

我ガ藩ハ天明ノ大火ニ依リ二ノ丸文庫焼失シ、東日流以来ノ家史及ビ安倍氏代々ノ書簡ノ失フハ、古代丑寅日本ノ國證ヲ遺セザルノ憂ニ直面セリ。

依テ茲ニ由理源太夫胤長及ビ小野寺藏人御兩氏ノ推挙ニテ、此度其方秋田次郎孝季及ビ和田長三郎吉次ニ申付者也。

右申付之事如件。

甲辰八月六日代書
乙之介華押

許要

吾幕政之事断異土交易、爲自國之隆興旨。然北方國之境域及其風環民族諸所辺不知。

茲以汝一行許隱密之巡察一切。依爲心得何處死共口語一切露見不及著。汝異土官人捕身柄、當國之不預知事、能心得可。

茲所望金百八十両遣汝等十八人。各位遂申付本懐可。

天明癸卯年六月七日 華押
意次

先書控書きの如く、山靼巡見に出張の事は諸藩六十餘州之史探より先と相成りぬ。八百四日の旅たり。

寛政五年二月九日
江羅甚衛門
右原書飯積之住人
所在 和田壱岐

丑寅日本史大要

凡そ此の國の崩滅は奥州十二年戦役にて倭人の侵入をならしめたる閉史の故因たり。

安倍日本將軍賴良、親族なる宇曽利富忠に反忠され、その流箭にて傷負いて鳥海柵に死してより、嫡男安倍厨川太夫貞任是を継ぎて、寄来る源氏軍を敗りたるも、康平五年八月七日黄海の戦に敗れしより、小松柵は八月十七日に抜かれ、九月六日石坂柵を抜かれ、九月七日衣川関瀬原柵及び大麻生野舘を炎上さるまま九月十一日に鳥海柵落つぬ。

更にして九月十三日黒澤尻柵炎上し、九月十五日鶴脛及び比与鳥柵落つぬ。九月十七日頂戸柵・嫗戸山落ち、遂にして厨川柵落つぬ。

然るに是如き十二年戦に於て死せる人命にては住民一人だに死せず、安倍軍は八百二十九人にて、源軍は四千二百六十九人にて抜きたる。此の戦を以て丑寅日本國の治世は亡びたるも、安東氏とて東日流に再興せるを以て流胤秋田氏、三春藩主と遺りぬ。

寛政六年十月一日
浅利清隆

丑寅實録

古代なる丑寅の國は、十五萬年乃至七萬年前に人の祖、山靼より来着せり。阿蘇辺族・津保化族とて古祖の五千年になる遺跡ぞ、奥州かしこに遺れる史跡なりける。最古代なる證とては石神なり。

東に海あり、西に海あり。その中央に山ありきに聖山聖域とす。即ち東に旭日、西に没日を望むる處を石神なる聖とて、石柱または石塔を築きける。全山立木に満繁き、東西南北に水の分水嶺たるを無上たるの神場とす。その聖域、今に遺れるは東日流中山石塔山なり。

寛政五年十月七日
由理玄内

倭之丑寅攺制

倭人、丑寅に入りてより古代になる丑寅日本要史を殲滅を謀りぬ。倭史なる古き要史に日本書紀ありて、茲に丑寅を國號奪取せり。倭人はそれより丑寅を日髙見國とて號せるも、倭史のみなり。先に國號を奪い、次なるは國盗りなり。

かくして律令の至らざる奥州を治安せるが如きは言語道断なり。前九年以来とて、閉伊・荷薩體・鹿角・火内より東日流・宇曽利・渡島にては倭の立入れざる國たり。安東船の世界に征く交益の道を開きたる實史の一行さえ倭史に無かりけるも然り。一統信仰たる荒覇吐神の實傳たりとて然り。山靼紅毛國なる史もなく、ただ蝦夷とて呼稱ある耳也。

寛政五年十月十日
火内定賴

古稱日本國

東北日辺の國は日本國と號すとは舊唐書・新唐書に記載あり。加へて日本國は倭と異なりぬとぞ曰ふ。

抑々丑寅の國は日本國と國號せしは是の如く證あり乍ら、倭國を日本國としその東北を外土の如く蝦夷とて住民を併せて稱しぬ。古く國交なせし山靼を赤蝦夷と稱し、倭人との交れる者を俘囚とて倭に從屬せし如く記逑せり。實なかりき夷國征伐を造話として史載せること、自讃過多なる僞造史なり。倭史の如き奥州への出来事ぞ、架空造話を史とせり。律令の渡りなき奥州征討史實もなかりける。

丑寅日本國を是の如く倭史に遺しべく倭人の智謀画策は如何に古傳なりとて許しべからざる行爲なり。人國記の如き人の青眼を奥州住民にありきと記あるは、古代に於て山靼交流の事實の證明なり。歴史の記行ぞ是くありて然るべくを實證ありきを望む也。

寛政五年十一月六日
川辺之住人 火内定賴

日輪之民

古き倭史に記逑の候事は、吾が日辺の民此の國を、まつろはぬ化外地之蝦夷亦は俘囚・戎狄・東夷などに稱號し候。是の如きは倭衆の丑寅侵入国盗、古来立主國なるを土足破りに候手段に尋常ならず人を賎卑に宣し候事にて、征夷たるの兆戦・名目他、何事の意趣なかるべく候。

是即ち人道の非常、非理法權天の裁きに天誅の他、和睦の方便御坐無く候。抑々吾が丑寅の日本國に立君國治の候は、倭をはるかに越えにして創むる國造りに御坐候。如何に倭史の記行に僞り候も、所詮眞實に候は一にして二のあるべきに非ず。天地神明に御坐候也。

丑寅日本國とは古祖に證し候へば、山靼なる人祖國より此の國に渡り候事の由は明白に御坐候なり。古にして人の歸化定着の候は東日流語印に明細に記證證明に旨逑候も、藩禁の法度にて是を殲滅候事の故に御坐候。

凡そ我が日本國領の候はば坂東より流またその北辺に極み候て、東日流及び糠部を以て日本國領の中央と定め居り候。國主一世に御坐候は耶靡堆阿毎氏の系に流胤せる安日彦その舎弟長髄彦を以て一世とし君臨し給ふ所に御坐候也。

東日流中山石塔日迎石門にて即位以来、國能く治り稻田の拓田大いに開き候は、支那晋民の漂着し候へて引道仕る農耕の創めに御坐候。三方の海に幸多ければ民、子孫を殖しめ候て諸部の工、代々にして王政の営を向上ならしめ候。豊けき國、大葦草の國に降神山あり候へば降神草の殖生ぞ此の山峯に諸々の神々降臨せるの神話多く候へども、民をして迷信に事を挙行候なかりけり。神に信仰深き候も祖来なる山靼の傳来にて御坐候。

世降り候へば倭人、此の地なる豊産の地産要地を私にせんとて軍人を結し候て、丑寅日本國の治安泰平を乱し候より倭朝の侵領、都度に侵略ぞ試み候事重ね、康平五年安倍氏敗れてより丑寅日本國なる六千年に渡り候事の丑寅日本國の治權、倭人の奸計に落候。

爾来丑寅王國の歴史を見ざる聞かざる言はざるの法制に御坐候也。

明暦元年四月廿日
古川仙覚