丑寅日本國史繪巻 五之巻

秋田孝季

古代丑寅日本國の國神たるイシカホノリガコカムイと曰ふは、はるかなる山靼の西國・波斯と曰ふシュメールの地より渡来せしものにてその起源、地稱のまゝにアラハバキイシカホノリガコカムイと稱名さるゝまゝ今上に至りぬ。

古来より山靼の盟約とてクリルタイに民族往来し、山靼諸國にては吾が國の民をクリル民とも稱したり。その往来道程は黒龍江にサガリエンより遡りて、遠くはチタにて市をなせり。集ふる民族三十八族にして、スキタイ・モンゴル・波斯の奥なるギリシア・トルコ・ペルシア・ユスライル・コプト・メソポタミアより商人相集ふるなり。

なかんずくモンゴル・ウデゲ・ギリヤーク・オロッコ・オロチョン・カンクヤ族との往来は通年たり。依て民族信仰も古代オリエント諸國なる信仰も多く渡来せるも、永續せるは古代土地民族信仰と理に併すのみ、今上に遺りぬ。

吾が民族意識にして祖来神なる荒覇吐の神なる信仰と相併すは、アヤ族なる民シュメール民にて傳導さるゝものなるは、アラバキ神とて起元せるまゝに傳はりぬ。

依て民神と民の祖来信仰と能く併せたるはアラハバキ神にして、能く渉り一統信仰に至りぬ。吾が國はアソベ・ツボケ・ニギ・アラの四族倶にその信仰を得たり。モンゴルにてはブルハン神、シキタイにてはグリフェン(アルテミス)神、支那にてはトウテツ神、カン族にては西王母・東王父更には女媧・伏羲神、アールヤ族にてはシブアなどにオリエントの信仰を入れたる攺神とせり。

吾が丑寅日本國にては、カルデア民の傳へたる古代シュメールのグデア王・ギルガメシュ王の信仰にありきアラ神・ハバキ神の信仰をそのまゝに入れたり。安日彦大王・長髄彦大王立君以来その信仰も一統され、倭國に至る程に流布されたりと曰ふ。

六十余州に遺るゝアラハバキ神社の今上に遺るはその故なり。その禮拝にては三禮四拍一禮なり。神への願文は易にして、アラハバキイシカホノリガコカムイと曰してくりかえす耳なり。神には海の神なるウンジャミ神、山の神なるホノリを稱名し、イオマンテにエナウを捧げ三股の大樹のもとにヌササンを設し、七日七夜カムイノミを焚く。神への贄として熊・鹿・狐・白尾鷲・熊鷹の他、䲷及び木菟、魚にては𩹷及び鮭を供せり。今上は古代まゝなるはなし。

寛政甲寅年一月一日 秋田孝季

古事傳説は邑ひとつ離して同説も異り、後世に至りては何れが實相なるや定め難く、依て何れをも書き遺し、後世の判断に残す他術あらざるなり。本巻諸翁聞取帳繪巻は、その説同數多きを正傳として記し置きけるものなり。

吾が丑寅日本國は住人自ら國號せしものにて、倭國とは異なれる古事来歴にあり。信仰もまた倭神とは異なれるものなり。國主を建て國を肇むる事、宏遠にして國治の一切山靼に習成し、世々の成果とす。

倭との堺は坂東にして東安部川より、西糸魚川に至る地溝を以て荒覇吐五王の政に日本國となせり。大王を以て國造ること凡そ壹萬年古事傳統あり。倭國の及ぶるなき古代をその歴史に遡れり。

民族は五族にあり。渡島の久里流族、東日流の亞曽部族、宇曽利の津保化族、西海辺の熟族、東海の麁族を以て一統併せて荒覇吐族と曰ふ。吾等丑寅日本住民は祖人を山靼・波斯、多民族に累代せり。

寛政庚戌年六月二日
飽田土崎日和山住人
秋田孝季

日本國造の事

凡そ二千五百年の昔、倭の國より安日彦大王その舎弟・長髄彦大王、倭に乱を避けて東日流に落住す。安日彦大王は三輪山の大王にして長髄彦大王は膽駒山の國主たり。

二大王の故地は耶靡堆族とて、加賀國犀川の三輪山王とて地主たるも、倭國の倭王たる和耶・平群・巨勢・春日・葛城・大伴・蘇我・物部氏らの請にて倭の地に入れり。

世々耶靡堆大王とて立君せしは諸氏の選に成れるものなり。本巻繪巻はその歴史情を繪にて解くものなり。東日流にては文盲多くして古代より語部文字にて通同せる故に本巻の起編と相成れり。謹んで古事来歴を覚得して未来に傳へよ。


平將門石井舘跡と筑波山


安倍貞任厨川柵跡と岩手山

坂東より以北に起りし動乱は、倭傳にては反朝の夷とて官軍征夷大將軍の討伐を受く事の正統に決定し、歴史に遺りき常なるを通説とせるは片そばぞかしく、起因の實態を書き遺しけるは語部録耳なるを知るべきなり。

丑寅日本國古来なる國字を以て記せしは、何人たりとて解き難く世襲の妨げを蒙らず今上に遺りけるは幸なり。倭史に曰ふ平將門・安倍一族の乱は朝反の敵とて永く歴史の表をなせるも、丑寅住民の貧苦にある民への賦貢徴税納反より起りたるものなり。

丑寅にありき者は民と想はざる蝦夷とて、その貧しきに情なく、陸海の幸を科税に負重せしむ官人の暴挙にて發起せる動乱たり。その大なる戦に寳亀の乱・延暦の乱・元慶の乱・天慶の乱・前九年の役・平泉の乱を以て奥州は降に伏したるが如くも、東日流・渡島にその官域を皇化せるはなかりき。

寛政庚戌年二月六日
秋田孝季


渡島海峽夕日

康平五年安倍一族亡ぶるより、厨川貞任の次男・髙星丸密かに東日流平川郡に落住し、十三湊氏季と倶に海を道とし山靼に航路を往来す。渡島に海産を得たる湊十二處を設したり。依て此の諸湊より十三湊に海産物を集め、海商大いに振興せり。

千島・流鬼國・山靼に物交にして商益せる海産の干物や海獣毛皮、鷲や鷹羽根など山靼にては黄金両替に髙價たり。吾が丑寅の船を安東船と稱して東日流上磯・下磯の地名を稱し、また安倍氏を安東と攺むる故縁に依れるものとて、船名多く安東丸・東日流丸・荒覇吐丸と稱したり。

山靼に赴くはクリルタイの盟約にて護られたり。チングウス・オロチョン・ウデゲ・ブリヤアト・オロッコ・ギリヤアク等、民族の種多く、市にてはモンゴル語を以て價をきそうふなり。

黒龍江の舟場たるチタ邑あり。三年に一度のクリルタイありぬ。集ふる民族三十八族あり。紅毛人及び波斯よりも来るあり。世の東西物流たるのクリルタイは民族を越えたる商益の祭の如き盟約の場たり。

安東船の往来は是の如く古きより異土交流を旨とし、國境なき民族の意識を人類一祖たるの觀念に以て睦みたり。アルタイ彼方、波斯の彼方、ギリシア・トルコ・エスラエル・エジプト・シュメール・ペルシアに至る民族の集ふは北東方のクリルタイの盟約ありてこそなり。

その掟として護られたるはクリルタイ十二條にして、是れを破る者は商隊とて認めざる誅伐あるのみなり。

クリルタイ十二條

右十二條はクリルタイの掟に依りて定むなり。是の如く商隊何れも心得たりと曰ふなり。


黒龍江、チタ邑