丑寅日本國史繪巻 八之巻

秋田孝季

本巻に載にし安倍氏譜代華押抄は、代々一族の諸書年代に順して記したるものにして古書の證覚たるべし。

秋田孝季

安倍氏譜代華押抄


(※華押の画像つづく、一部のみここに表示。)

右華押、安倍氏・安東氏・安藤氏・秋田氏攺代累之證也。

天明二年 秋田孝季

みちのく繪草子

〽みなゝがら
  岩木お山を
   みなもとに
  流るゝ水は
   津輕大里

〽見渡せば
  上磯下磯は
     華の波
  代々に稲田と
    黄金波立つ

右京詠

〽渡り来る
  鶴と白鳥
    大萢の
  河瀬に群らぐ
     白神の舞

〽ふるさとの
  山川草木
   みなゝがら
  吾が思出に
   消ゆるなかりき

良奄詠

日本丑寅旅情

吾が日本丑寅に祖来して代々に傳はりし歴史の實相をあからさまに記逑のあるべきはなかりけるは、征夷の世襲に永く圧せられ今上に於て尚世浴のなかりきは、倭の朝幕に障りあり法度を以て古史を集焚せる故に以て文書遺らざりき。丑寅の事はたゞ蝦夷として、倭の化外に在りまつろわざる民とて耳、征夷讃美に遺れる耳なり。

人を討つは天地水の神に報復を受くは、生死に甦りのなき神罸も恐れなき冥界にさまよう、と曰ふは荒覇吐神の法則なれば、退きて安住の地に移りき丑寅の民をして、人との殺伐を好まざる民を撃退とし、その信仰を邪教とてその民を討つは神皇の正統とし、丑寅の民を國賊とて永く圧し今上に尚やむをなかりき。

白河以北一山百文とは、人も地位も輕視せる倭稱の諺なり。亦太古より丑寅日本國の國神たる荒覇吐神を外神とし、川神とか客神とかや倭神と入攺て古稱を滅したるも、今にしてその信仰を皆滅の叶はざるは幸たり。

悪横久遠ならず。この世襲の了りなん兆あり。人の自在たるの世の至らばや起つべし。

明治十五年二月 和田末吉

東日流中山三千坊

〽月影の至らぬ鄕は
 なけれども眺むる人の
 心にぞ澄む

淨土宗の開祖法然坊源空が詠ける歌なり

〽明日あると思ふ心の
 仇櫻夜中に嵐の吹
 かぬものかは

善信坊の詠ける歌なり

〽とこしない生死本願
 求めつる久しき果に
 弥陀の近道

右は師弟にありき金光坊圓證の詠ける歌なり


金光、善信、源空

奥州に念佛を以て布教し、はかなくも殉ぜし金光坊。亦、越州佐土に強けく念佛の布教を流罪の身に以て求道を遺したる善信坊。もとより源空の師弟たる不屈の信仰たるは、地神なる古代信仰荒覇吐神稱名に南無阿弥陀佛を入攺て布教せる説法に依りて地民の信仰を化縁せるは、金光坊が佐渡にて善信と對面せしより、まさに念佛と荒覇吐神信仰の併合に以て成せる末法念佛獨明鈔の故縁なりと能く覚つべし。

弘安甲申年
法明山大泉寺
法明坊

修験大要

奥州東日流に大寶辛丑年、役小角仙人流着し、中山に大法場たる三千坊の道場を開きたるは、中山石塔山に正念の本地垂跡三身即一身と曰ふ法報應の道場を開山して以来なりけるを覚るべし。

爾来荒覇吐神と信仰を併せたるは、安倍・安東一族にて護持され来たりぬ。石塔山道場にては諸宗の宗旨一切を平等として、尚山靼及び古代オリエント波斯に至れる諸行の本願にも入れて、世界信仰の一束を以て崇拝せし道場の本願とせり。

抑々神佛は本来一にして求道の本願たるを以て、役小角が自から是を感得せしは本地金剛不壊摩訶如来にして、その垂地を金剛藏王權現として、人世の正邪を済度に法喜大菩薩を以て茲に修験道場の本尊とせしは、役小角自からの往生を以て石塔山に遺されたる由来故縁たり。

長享二年八月
大光院住僧
利天阿闍梨