東日流外三郡誌第廿

第廿 東日流外三郡誌
注言
本巻の史談は史實明確なれども世襲に仇眼さるるの憂あり。亦紅毛國の進みたる諸學を用いたるは尚以て外藩國通交を禁ずる幕藩の禁書と相成りぬ。依て世界共通の世至るまで、本巻は他見無用・門外不出と心得べし。必ず本巻の正統なる史觀の至らむ期ぞ至らん。
寛政十二年八月十五日
秋田孝季
一、總方
諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽とぞ天竺國の聖人・釋迦牟尼佛は衆生に説教せりと曰ふ。亦紅毛國の聖人・キリスト教主は幸なる哉、心の貧しき者よ、神は汝のものなればなり、と衆生に説き、その教理は國境も人種にも上下を造らず、平等攝取の自由道に救道せる世界民族の心にぞ定まりて信仰さるるに至る。吾が國は神道・佛道をして階級を造り、亦諸神佛の諸法・諸行も多し。然れども眞理に叶ふ□無常の長説耳にして、架空夢幻夢想の脱皮を得られず、徒らに衆生を信仰に以て外道に洗脳ある耳なり。歴史も亦是の如し。非理法權天の實相は眞實一路なれども造話作説の史傳ぞ相渡りて遺らむは、現世傳はれる征者讃美の歴史なり。依て本巻に意趣せる東日流六郡誌大要は歴史の原に發しその終末を断ぜず。終りなき末代に通貫なして遺し置くものなり。
寛政十二年八月十五日
秋田孝季
和田長三郎吉次
菅井眞澄(白井姓より菅井、菅江ともかく)
曽我友彦
安倍伊賴
二、荒覇吐神之事
凡そ吾が國の古代に起りたる信仰とはアラハバキイシカホノリガコカムイなり。アラハバキとは全能神と曰ふ意にして、イシカとは大宇宙、ホノリとは大地、ガコとは水の一切なり。紅毛國シュメール王ギルガメッシュが古代より天地水を神とし相として、一切の眞理は天然自然なるを神の靈相とて崇拝せる信仰なり。その渡来せる拝神の行法はいと易く、天に仰ぎ地に伏し水に六根を清め乍ら、ただ身心を以てアラハバキイシカホノリガコカムイと唱ふ耳にあり。火を焚き一切の苦情を火中に向ってただ唱ふは神の稱號耳なり。抑々神とは一つ乍ら百千萬にも化靈せりと信じ、萬物の生死を司り生死輪廻の果報をなすと曰ふを信じたり。明暗は神なる眼にして、空風は息にて、雪音・稲妻は怒聲なりとて、神なる忿怒とも想いたり。噴火は神なる活相とし、寒暖は神なる寝起とて、地震・津浪・洪水の如きは神なる救罰なりと心得たりと曰ふ。
依て古代より神を鎭むる聖地を山海に選定なし、石塔を築きたるは今にして遺れる處ぞ多し。亦、石神より土ぞ練り焼きて神像を造れるも古き代より創りて、その神像ぞ能く田畑より堀り出づるあり。是を見當らば神域に奉じべし。荒覇吐神とて祀らむるは石神ぞ多くして、土焼神像また多し。神なる聖地に築くは、石を建つる塔ぞ多く、洞穴を掘りて壁に彫りたるも少なからず。亦、海中・湖底に山頂にと心して尋ぬれば甚々多く見ゆるなり。もとよりこの神なるは支那北國に起り天竺に渡りたるもあり。吾が國に渡りたるは渡民の傳にして、耶馬台にては三輪山を神とて祀りける。これは日輪の三道に縁る故なりと曰ふ。三道とは朝・昼・夕を曰ふも、生・育・死の輪廻亦は天・地・水、更には過去・現在・未来世の意趣ぞ多し。イシカホノリガコカムイとは民族の併合なき以前、東日流の住民阿蘇辺族・津保化族らの神なるも、その意趣は天神・地神・水神なれば崇拝の念等しく信仰の要なりとす。
寛政十二年八月十五日
秋田孝季
和田長三郎吉次
菅井眞澄
三、東日流祈禱師之事
古来より荒覇吐神に三行の祈禱師ありける。陰陽神をしてオシラあり、石神をしてゴミソあり、靈媒を存すイタコあるは古来よりの秘傳たり。是れを司るは女人多くして、盲人・身體不自在たるもの多し。
寛政十二年八月十五日
秋田孝季
四、東日流外三郡之事(江留間郡)
璤瑠澗郡・有澗郡・奥法郡・七里濱・外濱・玄武海をして外三郡は成れり。岩木川より西域をして璤瑠澗なり。南北を連ねて砂山・荒地・葦野・七里浜の地に十三湊・舞涛湊あり。南は盛多大舘を以て境とし、北は十三砂山にてつきる。川は岩木川・田光川にして、十三湊内水湊とて千貫湊ありしは昔なり。古城跡は大舘・權現舘あり。寺社は濱明神・璤瑠澗明神・天皇山稲荷・伊治權現・三吉稲荷・壇臨寺らを以て古寺社とす。亦、邑にては十三邑長く、富萢・砂力・千貫・神威丘・木作・吉野ら古村なり。この郡にては安東水軍栄へたるも興国の白鬚水に亡び、北都たる十三湊は一打の津浪に消えたりと曰ふなり。
寛政十二年八月日
秋田孝季
五、東日流外三郡之事(馬郡)
倭より耶馬台國の民は東日流に落着し、北族阿蘇部族・津保化族・支那漂着民らを併せて荒吐族を、君主王國を創りぬ。東日流大里は日毎に農耕に拓けるも、十三湊に漂着せし支那人の導きなり。荒覇吐神を祀るもこの頃なりしも、もとより地族の崇拝せしイシカ卽ち天なる神(ツボケ族の主神)あり。亦ホノリ卽ち大地なる神ガコ、卽ち水なる神の三神を崇めたり。是れを荒覇吐神とて全能なる神とて祀るは東に石塔山、西に神威丘なり。安日・長髄両王を祀るは有澗郡にて、於瀬堂の墳丘なり。依て安倍一族が代々此の地を庇護し、後代には山王日吉神社・柱川神社・十三宗寺・阿吽寺・長谷寺・三井寺・龍興寺・春品寺・禅林寺・壇林寺・熊野宮・尾崎神社・荒吐宮らの寺社を遺したり。
城邸は福島城・唐川城・鏡舘・柴崎城・羽黒舘・中島柵・青山舘・乙部地舘・中里舘を以て固めたる十三湊・脇元湊・下前湊・小泊湊を築き、安東水軍盛栄たり。航路は北に神威茶塚・流鬼國・日髙國、西に韓國・支那・天竺まで交りたりと曰ふ。吾が國の諸國に安倍・安東の氏子孫を遺したるはこの地より出づる多し。
寛政十二年八月日
秋田孝季
六、東日流外三郡之事(奥法郡)
南は藤崎、北は十川落合、西は岩木川境、東は中山分水嶺を堺とせるは奥法郡なり。康平五年に安倍一族が厨川に滅亡以来、荒覇吐王國の歴史を断じたるも、その遺児・髙星丸が藤崎の地に落着して再興せし處なり。寺社また古代に継ぐるあり。中山梵場寺・飯積大泉寺・大坊大光院・藤崎平等教院・行丘西迎寺・藤崎施主堂・石塔山大光院藏王堂ありて、千古の苔香に愢ぶ。城邸また藤崎城・行丘城・髙楯城ありて古戦場たる歴史の彼方に想はしむ遺跡ぞ多し。なかんずく東日流中山仙境なる耶馬台城跡・石塔山大山祇神社こそ千古の風雪に耐えたる老木の枝、風渓の流れみなながら往古の聲と相と耳眼に映りなむ。
寛政十二年八月日
秋田孝季
七、東日流内三郡之事(田舎郡)
東日流大里の東を古来より稲架と稱し、稲作創めて成れる處なり。耶馬台國王安日彦・長髄彦は大挙してこの地に至り、東日流の土肥えて稲作能く稔る號けて東日流稲架之地と稱せり。畑に植ゆる稲をイガトウ、田に植えにし稲をホコネと稱し年毎に田畑を拓せり。東日流の民の海辺に住みけるを津保化族、山辺に住みけるを阿蘇辺族と號す。遺跡にては阿蘇辺族の祀る地神ホノリカムイを阿蘇神社とて遺りぬ。亦、水なる神ガコカムイを祀りし汗石神社、天なる神を祀るべくイシカカムイを祀りし登輪陀神社あり。後世に安東一族が久里石コタンを築きてアラハバキポロチヤシをイナベとて築きぬ。以て此の地に於てをや地民に農耕を施したるは奥州に傳はりたる起原の地なりと曰ふらむ。
寛政十二年八月日
秋田孝季
八、東日流内三郡之事(平川郡)
太古より阿闍羅山にアラハバキカムイの聖地あり。石塔山の石神ぞ巨なること奥法郡石塔山に等しきなり。地民のコタンは各處に在りて、山に暮らせるも稲架より農傳はりて田畑を拓くに至る。此の地は鹿角に道ありて、農また羽州に廣く渡りぬ。安日彦立君なし、荒覇吐王とて西に五王を進むる道を荒吐道にせしにや、その往来能く用いられたり。荒覇吐族の奥州に諸族を加へたるに、アラ族・ニギ族らあり。荷薩丁より閉伊に併合せるより、平河郡の地位ぞ富まむ。安東一族の世に至りては阿闍羅千坊なる基をなしたり。極樂寺・藥師寺・羽黒權現・大日寺・大光院らその名残をとどむるも、後世の改宗多く古代なるは無きぞ悲しき。
寛政十二年八月日
秋田孝季
九、東日流内三郡之事(華和郡)
靈巌鬼山麓なる古跡ぞ噴火にて失す。華和の地ぞ域廣く、蒼海・山岳の幸また自然なるもの多く、古代の民能く住み付ける處なり。依て巌鬼山なる山麓に古人の住ける跡ぞ多く遺り、石造り土焼造りなる器物多く堀らるあり。なかんづく男石神社・赤石神社・巌鬼神社・鬼神社の如きは荒吐族の信仰を愢ばしむなり。古代より行来山登山信仰起り、今に盛りてその末社は東日流六郡に多し。吹浦湊・金井湊ありて、その海辺に古跡多し。巌固城・髙舘・狼倉城・金井城如きは安東一族の居城なり。佛社また春囸神社・吹浦觀音・淨安寺如きは古代なる佛社に屬す。
寛政十二年八月日
秋田孝季
十、東日流外濱之事
東日流中山分水嶺を西に外濱と曰ふ。入海深くして神田湊・後泻・大波澗・宇涛・安泻・小湊あり。安東水軍の湊たり。古くは荒吐族が阿部比羅夫の水軍攻め来たりて荒吐族がハタという小舟を以て應戦なし、阿倍比羅夫を降伏せしめたる故事ありき處なり。安東一族が築きたる鉢巻山城・尻鉢城・蓮田城あり。中山切通しより馬郡・奥法郡に通ふ山道開けるは荒吐道と曰ふ。外濱とは飛龍崎より浅虫崎に至るを地領とし、安東政季が籠れしは尻八城なり。この地を古くは後泻羊蹄山郷とて塩焼の民多く住むる處なり。寺社にては飛鳥宮・宇涛神社・荒吐神社ありて、太古を愢ばしむ。
寛政十二年八月日
秋田孝季
十一、國末宇曽利之事
宇曽利の國末は日乃本國なる北の果なり。潮速き東日流玄武の海峽、西より東に流る神々の奇岩をなす海濱、恐山なる人魂を呼ばむイタコの靈媒もまた東日流より傳はれるものなり。亦、砂鉄出づるを以てタダラの鑄法古く、安東水軍能くハタ舟の要鉄を造りたり。イカリ・活車・クサリ・金具はもとより、ホテレス・鉄砲綱ら兵具をも造れり。宇曽利に遺れる古寺は阿吽寺、荒吐神社あり。城邸にては金□城・日和見山城・安倍城ら古き代の安東一族を愢ばしむなり。湊は龍首湊・川内湊・佐井湊・大波多湊・大澗湊なり。安東水軍は興國の津波後、この諸湊に十三湊の交易をなさむとせるも、海潮の便振はず今尚以て貧しき地なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十二、都母糠部之事
宇蘇利より南にヌカンヌップ、卽ち糠部あり。東日流境に都母または坪の地ありて、荒吐王が日本中央とぞ碑を建立せりと傳ふ。もとより安東一族がその分家衆を以て拓ける土地なり。古今に通じて牛馬を産するは日本一なる處にて、漁𢭐また盛んなり。糠部に髙舘を築きしは寛治元年にして、安倍井殿が居城なりと曰ふ。湊は魔淵湊・小湊あり。海辺常に干魚なる柵ぞ城楯の如き風情たり。都母の地は外濱をして漁し、名久井岳の秘城に安東水軍なにごとに備はしめて軍資を藏すと傳ふも、その秘城ぞ何方に存在せしや知るべき人もなし。南部守行が陸奥守とて南部とせるも、もとより安東一族にては堺なき處なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十三、渡島國之事
渡島とは安東一族の前に安倍氏の祖・荒吐五王の治世に諸地のオテナぞ、その任に當れる國にて、言語また異なりぬ。イオマンテを司るオテナは天地水のカムイをイナオに造りて祀る。寒冬に強けき民なれば北海の地案水先を、安東水軍に乘じて北海の領を得たること大なり。角陽國・常夜白夜國・神威茶塚國・千島・東千島・流鬼國らを領土とせしは養老二年なりと曰ふ。渡島を日髙國と稱せしはこの頃にして、石標をこの新領に建てりと曰ふは事實なり。安東一族湊をして渡島を訊ぬるも、地民なるオテナの地領を侵したるはなし。依て永く安東一族の治下に從ふるも、後世に倭人是れを侵さむぞ忿怒なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十四、流鬼國之事
日髙國北斗峽海の彼方に見ゆる流鬼國とは地民の暮しは渡島と似たり。常にして渡島の夷人と倭人の歴史に遺るなく、安東水軍録に遺る耳なり。海幸豊かにして、地民はいさかふことなし。西に大なる國ありて、赴らば紅毛國・支那・天竺・韓國にも陸に續けりと傳はりぬ。流鬼國に湊を築きたるは安東水軍なれども、渡島・日髙の地民自在にして交りぬ。イオマンテの祀祭、渡島よりオテナに招ざれてなせるは年毎にして、神なる祀祭亦同じかる天地水の神を崇む。日乃本將軍安倍・安東は此の地に来りて日本國流鬼嶋とて標石を建てつるは延暦二年の事なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十五、神威茶塚國之事
神威茶塚國とは大國に南北を連らねたる嶋なり。火を噴く山ありて國の大なること日本の本州にも似たり。渡島に連らなりたる千島の列島果つるところに在る國なり。陸は半年を過ぐるとも常氷残りて、冬寒海をも氷結せん冬永國なり。安東宗季はこの地に来りて海幸を得たるより、流人をこの島と定めて住はしむも、その刑期終るとも歸るに望むなき豊漁の地なりと曰ふ。神のねむれる國神の起る國とて、荒吐族は神威茶塚國と稱したり。此の國にては夜空に虹の見ゆあり、日輪四角に見ゆるありて、少期の夏至りては草木の華も盛りに咲きらむ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十六、千島諸島之事
北海に列島をなす千島ぞ東西に在島す。是を神島亦は千足島とも稱すなり。常に魚群、海濤に見ゆ。これを追って大鯨も群れ巨體を海面髙く𨄌らしむさま見事なり。安東水軍はこの島々を見標として北海を渡りぬ。何れの島々にも幸あり。この幸ありてこそ人ぞ住みける。極寒なれど鳥羽・獣物毛皮にて衣をなし、雪を積み家となせるをカマクラと稱す。常に氷肉・氷魚を食すも地人の教なり。夏期に波淨まれる頃、その往来またトナリ舟にて航す。安東一族は北海をして幸に富み支那・天竺に至る海航をも得たり。然るに海は恐るべく敬ふものなりと曰ふ。
寛政十二年十二月
秋田孝季
十七、故耶馬台國之事
倭國亦は大和の國、その辺國を五畿と曰ふ。古き世にこの國を耶馬台國と稱し、百七十國の國主を併せて耶馬台國を築きたるは耶馬止彦王なり。支那より歸化せし民族にして、常に荒覇吐神を一族の神とせり。ヤンの神とて支那太古になる神なり。耶馬台國を五畿と曰ふは五王を以て國を治むる故なり。五王とは中央にタカクラ、その東西南北にワケグラを置ける故なりと曰ふ。築紫日向族と戦ふこと十餘年、故地を放棄せし安日彦王より、過却なる歴史ぞ空となりにしや東日流に起りて荒覇吐族となりにしや、本巻に遺りし始祖とぞなりぬらん。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
十八、支那安東邑之事
東日流に安東水軍起りてより徒らに人數を増したり。依て一族なる次男以下は新領の北海國、亦望みに任せて異藩地にもそかいを募りたり。然してより諸外藩との談議に依りてそかい地を委領されたるは支那國の安東邑なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
そかい日記 宗季記より
支那安東邑は東日流安東一族なる移民を以て成れり。東日流は小國なれば詮もなきなり。先に移りきは外三郡にて、従なるは内三郡なり。古代より移りき民十二萬を語部に傳へてありて、それなる暦史をぞしるべきなり。
宗季
十九、天竺往来之事
十三湊領主・安倍氏季の六代氏季に後継なく、藤崎城主太郎貞季より息女を養女となし、平泉より藤原權守左衛門尉秀栄を養子とて後継をなしたり。然るに秀栄は氏季滅後に至るや姓を十三左衛門尉藤原入道秀栄とて名乘り、子息秀寿・秀元の子孫に安倍姓を赦さざるなり。依て藤崎城主安東太郎は是を審しけるに秀栄の曰く、安倍姓を名襲せば祖来の怨靈に子孫を絶すなん、とて聞入れるなし。ときに子の秀寿は急世し秀栄の悲しみややるかたなく、その遺髪を天竺佛土に埋めんとて山王丸を造らしめ出で赴かしめたり。その往来は三年七ヶ月をして歸り来るに天竺佛土への創めなりと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十、満達國往来之事
支那の鮮卑、亦は金國をして満達と曰ふ。古くは吾が民族の發祥にかかわる紋吾呂夷土の地なり。地民能く馬・羊を飼いて暮せる民にて、民唄の節は渡島追分に似たる陽没を唄ふ、亦満達の奥なる蒙古なる國にてはコルデントと曰ふ唄も亦是に似たり。騎馬を能く練りて侵敵を妨ぐはチャバンドウと曰ふ馬術にて血汗馬を名馬とせり。依て安東水軍はこの馬種を得んとて北海の幸を積みて交易せんは久寿の年にして、血汗馬十二匹を得たり。爾来、奥州にその馬系を以て名馬あり。閉伊駒・糠部駒・三春駒らを遺せりと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十一、西外藩國往来之事
海洋を南に越ゆ太陽点を赤道と曰ふ。その域に國なす處を南藩と曰す。木樹枝なき大葉をなす草木多く、吾が國のネムの木に似たるもあり。住人みな腰に木皮にて造れるミノを垂れ、手足首胸に金銀を飾りなせる民多し。頭上にて荷を運び、食習ひは手つかみなり。飯を造るも竹に米を仕込みて焼き造り、魚内また石を焼きそれにて葉を包み重ねて造るもまた珍味なり。彼の國より得たるは、壼・法羅貝・綿・金・銀を干魚と交易すること利大なり。住人は吾が國人と顔・裸変らず、祖を同じうせる民なり。佛法能く渡りて崇拝せるも、吾が國民の歸依三宝とは異なりぬ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十二、髙砂國往来之事
築紫國を西南に流球國をたどりて至る國あり、是を髙砂國と曰ふ。太古に築紫國に渡り来たる日向族の故地なり。此の國に古来の習とて首狩の戦ぞ常にして、人の命ぞ輕んずる民族なるを憂むなり。安東水軍との商易にては能く斬れにし刃物を好み亦、無色なる糠酒を商ふるは益少けれど、北白熊皮ぞ金銀惜まざるに商ふるなり。北海の土獣、白狐・玀猇の毛皮も亦然なりき。安東水軍をして寄れるは少なけれど、常に流球王の請に依りて交易す。髙砂族の祖また吾が國人の祖と同じうせるはその相異ならざるに、往古の人祖いかでかこの惡習遺さむや。
寛政十二年十二月
秋田孝季
二十三、支那長安往来之事
古きより支那長安に渡る吾が國の學僧やあらむ。倭朝にては佛法・文字らを入れて智覚を支那に習ふこと久しきなり。吾が東日流にては晋の群公子一族より、倭より先に交流ありて智覚を得たり。亦、東周平王の君子・蛭子来たりて茲に農漁の要を得たるは古代の栄たる證なり。抑々支那長安の弘福寺に學ぶ吾が國の八宗髙僧たるは、今に遺るべく偉業なり。東日流にては荒覇吐神なる起原を求めて渡る者多けれど、ただ大元師神にとどまりて歸る多し。古代なる荒覇吐神の起原ぞ支那大國の何處におはしか未だに謎に秘むなり。荒覇吐神なるは東日流をして定るか否。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十四、流球國往来之事
安東水軍の流球國に交易しけるはキビサトウを欲する故なり。彼の國にては米を欲し、干魚・毘布・海苔も欲しければその利大なりと曰ふ。彼の國ぞ古き世代より海来の侵敵に侵さるる多くして倭人を好まざるも、安東水軍ぞ好みて迎へむ。小國なれど王國にして崇むる神ぞ亦、荒覇吐神にぞ似たる祭祀なり。常夏なれば海幸亦、北海にあらざる珍品あり。安東水軍ら此の島なる壼造りを得たるに依りて古壼よく似たり。ゴミソの祈法はこの國より受継ぐことぞ多くして、壼葬もかくなればなり。流球往来は年に一度なれども暴風荒れ易き國なれば海殉も亦多し。安東水軍な若者の永住しけるも多きと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十五、朝鮮國往来之事
安東水軍に年毎、十往復に海交せる國ぞ朝鮮國なり。亦、彼の國より来舶せるも多し。東日流に来りて商ふるは海幸なれど、彼の國なる藥草、東日流人の好むところなり。唐船の来舶せるも多けれど、十三湊に韓船不在なるはなく、入り替り至るなり。彼國人は能く渡島二股の湯華石を不老長寿なる妙薬とて好み、カンピロ草をも妙薬とせり。東日流にては藥師事多く、朝鮮に學びて得ること多し。依て彼の医藥師を歸化せしめたるも多し。渡島ぞ異土より見たるに藥物の寳國とぞ曰ふ。熊胆・アザラシの金玉・鱈白子・ホヤ・鮭脳みな乍ら妙薬なりとて、オテナより物交す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十六、修験宗本願と安東一族
夫れ修験宗の奥義は金剛胎藏両界に法報應三身卽一身に結びて救道とし、神佛を本地垂迹に以て心身の行を験し、以て金剛不壊摩訶如來の本地に、金剛藏王權現を垂地とせり。是の行願に導くは法喜菩薩にして、全能神とて荒覇吐神を魔障の楯と為す。是の如きは導祖役小角が一佛一神たりとも外藩渡来の神佛を導因とせず、自から以て感得せしものなればなり。修験宗を立宗せしは安東一族の永き庇護に依る、外宗の侵教を妨ぐ故なり。法界は支派暗の外道多くして衆生を惑はしむ。是の故に修験宗の本願に求道眞如の實相ありて、救世の覚道に障りなく生死輪廻の解脱に達す。
寛政十二年八月日
秋田孝季
二十七、東日流六郡誌大要記之事
東日流大要記は紅毛國人・支那人・朝鮮人らの智より識を得たる書巻なり。依て史の考學その視点に吾が國の史傳本巻に順ぜざるの項亦多し。國の歴史ぞ常乍ら勝者遇優・作説讃美に遺れども、俗に曰ふ諺に異らず歴史の實相ぞ是の如しとて過言ならざるなり。筆なす者まれなる東日流にては、その實ぞ深ける所多くせるものに語部あり。傳言ならざる語印を以て遺せる古代ぞ古事記より確信あるべし。依て本巻東日流六郡誌大要ぞ、吾が筆に成れるものなり。右の段、心得て拙書史觀を心に置べし。是の如く逑言なきこと如件。
寛政十二年十二月
秋田孝季
二十八、菅井眞澄殿津軽藩に捕れの事
藥師菅井眞澄は吾らともに荒覇吐神・安倍安東の故事を巡りしに、菅井氏この秘を津軽藩関所にて検見されしより捕はれたり。依て彼が長年に渡りて記述せる史傳書三十八巻を焼却されしは、忿怒やるかたもなし。依て本巻の著者に記名あれども、ただ本巻尋跡道中之證人耳とて記し置くものなり。菅井氏は文才あり。詠歌の才もありし諸學の先生なりしも、權に勝つをあたはざるなり。秋田藩にては自在たりしも、津軽藩にては安倍・安東の史を仇なるものとて久遠に消滅せんは藩祖よりの家訓なり。依て東日流の古事来歴を語る者なく、その遺跡とて壊滅なし、文献一紙だに遺るなきは南部氏に縁る故なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
二十九、飯詰石塔山荒覇吐神社之事
東日流中山魔岳連峯に聖なる石塔山神域あり。安東一族に縁る崇拝を今に遺しむ。此の聖地に入りては先づ、巨大なる石塔あり。太古に築けるカムイの祈り場なり。瀧水の音さわやかに大葉檜の枝鳴らす。魔岳颪に神の聲かぞと想はしむ。雲は山麓に湧く如く、立木の老いたるみきを縫ふが如くに走る苔華の香る仙境なり。湲を渡る鶯。奥深き森林に啼く山鳩。せせらぎに鳴る垂木の枝打や、心して見る處みなながら靈感を覚ゆる。かんだかき蛙の音。名も知らざる草花も、咲く季節を忘れず。聖域の古代を愢ぶるに佛法僧と木の葉づくが啼く。山また山に四方を圍まれたる石塔山。古人は何故以てこの地を聖地とせるや。
アラハバキイシカホノリガコカムイ、
神なる稱號を誦す荒行者達の瀧水打つ肩の飛泉玉。安日彦命・長髄彦命を祀らむ岩窟洞にこだませる妖鬼の聲を想はしめて、逆髪立つを覚ゆ。亦修験の行者来たりては、昇龍の如き降魔調伏の護摩を焚く。夜空に飛び交ふ火鳥の聲。炎々たる法火の明りに驚く夜鴉。峯に鹿の聲、狐狸の聲もまたこの仙境ならでは聞かざる。夜の火祭りぞ三年毎なり。太古の阿蘇辺族・津保化族・耶馬台族らが世代を通して崇むるイシカホノリガコカムイ。次いでは修験宗大祖役小角が来たりて金剛不壊摩訶如來を感得せし法場にして、古代神佛道場の秘めたる靈場なり。その上なる歴史をば深く今亦古墓群仙境にある苔むす五輪塔・宝篋印塔・板碑の年號を讀みて知る。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
三十、和田神主之事
石塔山大山祇神社を祖来崇拝して、是を護持せるは和田一族の宗家なり。抑々石塔山には三十三目の秘法あり。世代をして子孫に傳へ来たるなり。木火土金水五遁の秘術、神をして諸祈法に用ふる神器百種、常にして一族に縁る安倍・安東・秋田氏の史傳書写の文献を護りて現世に至るなり。それぞ一文の利非ざる行いなり。和田一族に三浦の祖あり。衣笠城の邸に荒覇吐神なる石神あるを、人ぞ知れる處なり。依て朝夷三郎義秀は鎌倉に敗れ、安東船にて飽田に落着し、安東愛季の息女を腰入なして子孫を遺したるはこれみな荒覇吐神の加護なりとて、武家神主を祖とし子孫に傳へたるは衆をして代拝せるに非ざるなり。
依て神への祈願とて異なりぬ。武家襲にて神式をなせるは秋田神主耳にして、その祈禱法は極秘にして一族宗家累代の他見たるものなく、親族とて是を知らざるなり。天地水の精気に身心を磨き、なべて仇なるものを抜き亦是を誅し、罪障降魔の邪靈・惡靈を断つは神佛をして本地垂跡とて結び聖火を焚き、破邪の利剣にて暗なる惡の衆魔を誅滅せる法ぞ、己が戒めなるものにて他衆に依頼さるるものならずと家訓ありぬ。依て石塔山なる聖域に道をも造らざる荒行秘密道場とせり。東日流中山なる安東一族なる秘ぞ和田宗家ならでは一切知る由もなく、安東一族に急ありせば巨萬の寳ぞいだすと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
三十一、石塔山御神面之事
石塔山荒覇吐神社に八相の神面あり。第一面は安日彦、第二面は長髄彦、第三面は役小角、第四面は大耶馬止彦、第五面は安倍賴良、第六面は安倍貞任、第七面は孝元天皇事にて根子彦、第八面は平將門の神面なり。これみな久寿元年に源頼朝が寄進せる面にて、神社寳物なり。各々神面にて三年毎の靈慰あり。八相の神面をして行願せるとき、靈験叶はざるはなしと傳へ遺れり。然るに秘行なりせば行願を他見に及しべからずとも曰はれむ。賴朝奉寄の由は夜毎の惡夢に物の化顯れるに依て是を配流の明雲に告られ、石塔山に奉寄せるの段記逑遺れり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
三十二、石塔山五輪塔之事
石塔山聖域なる苔むす諸々の板碑・五輪塔を調べぬれば、古きより安倍一族・安東一族・和田一族、加へて修験僧のもの多し。石塔山の庇護なるは安東髙星以来にて、一族を埋葬せしは此の聖域なり傳ふなり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
三十三、三千坊之事
古きより東日流三千坊たるは第一に阿闍羅千坊、第二に中山千坊、第三には十三千坊とて遺りぬ。その要所たるは阿闍羅大光寺・中山大光院・十三湊十三宗寺なり。十三宗寺とは山王日吉神社にて、神護寺または阿吽寺に改へたるもあり。阿闍羅にては藤崎平等教院に改めたるもありける。三千坊とは金剛界・胎藏界の趣意に基きたる東日流法場の位地を三身にせるものなり。三身とは法・報・應にしてアラハバキ神なる天なる神イシカ、地なる神ホノリ、水なる神ガコをも併せたる稱名なり。
爾来に於ては佛寺・神社多く建立なしけるを以て、本来なる戒ぞなく、史談に三千坊たるの意を異にす。三千坊の主尊に記ありて遺れるは、
第一に大日・薬師・阿閦・阿弥陀・釋迦、
第二に金剛藏王權現、以上大光寺。
第三に金剛不壊摩訶如來、
第四に法喜菩薩、以上大光院。
第五に荒覇吐神、
第六に両界曼荼羅、以上阿吽寺。
右の如く是を二部毎に祈たる三千坊也。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
控
東日流外三郡誌・内三郡誌總集見写繪図解
東日流六郡誌大要三之巻附書
安倍安東秋田氏遺跡八十八景記
遺跡巡見者
秋田孝季
和田長三郎
菅井眞澄(菅江ともかく)
第一番 神威茶塚國北方角陽國図
古来より荒覇吐族は海を恐れ亦崇むるに舟を造りてこの國に渡り、永住せし民あり。北海を渡りしはトナリとぞ曰ふ皮舟にて、海獣及び大鯨を狩る。此の國にては日輪ぞ角光せるとぞあり。夜虹ぞ光走す。一年をして白夜、常夜あり。神の歳は人間の一年を一日昼夜にせる故とぞ曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二番 神威茶塚國図
此の國は日下領とて安東水軍が極界神威茶塚國と號けたり。角陽國より日輪いささか常日なり。海辺は漁𢭐の幸に満つ。草原は亦毛長牛・大角鹿・白狐・黒狐・海獣ら狩ぞ易し。國人皆渡島地人と同族にして、祭神亦同じなり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三番 流鬼國図
渡島日髙國なる北に續くる大島ぞ流鬼國なり。安東水軍より以前にして吾が國領たる國なり。山林・海幸多くして人住むる多く、イオマンテ如きは渡島日髙國と古習を同じふする耳ならず、安東船はこの國に湊を築きて海交す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第四番 日髙國北辰平原図
通稱渡島と曰ふも國を總稱して日髙國と號す。山林・大平原この國ならではの景勝なり。原野に遊息せし鶴群ぞ地神の使鳥とし、海湖に遊泳せる白鳥ぞ水神の使鳥とて地民是を狩る事を禁ず。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五番 渡島華澤柵趾図
渡島十二舘の一にして、蠣崎藏人の居城せし處なり。もとより渡島オテナなるシャクシャインの築けるポロチヤシなり。この舘を中央になし、夷王山舘・勝山舘・洲崎舘を砦とし、難攻不落なる要所としたる往古の歴史ぞ、天の川清流にに水音さやけく。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六番 渡島松前大舘跡図
古代より安東一族の居城たる古城なり。大舘・小舘を要城とし、渡島十二舘の本詰なり。將軍麓には現に松前藩城とてこの地を選要せるに、その地型・地物みなながら要害天然に備はる故なり。松前湊にては常に諸國船来舶す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第七番 渡島上國勝山城跡図
山頂に夷王山をポロチャシとし、麓に勝山舘をかまえたるは海来る敵の備へなり。安東一族の渡島オテナ衆を事ある毎に集むるはこの舘にして、渡島諸處に道開きたり。亦江差上の山に舘築くも意趣は同じ也。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第八番 東日流小泊柴崎城址図
安東一族が嘉吉三年十二月、東日流故地を南部勢に放棄して一族ことごとく脱却せしは、此の舘を以て最期とせり。安東水軍の要湊小泊ぞ一族が涙にして、天喜二年以来なる歴史を了じたる處なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第九番 東日流十三湊図
その上の歴史は深く、安日彦・長髄彦の代より湊たり。唐・韓船はもとより諸國の商船きたりて通商せる日本古代なる古都たりしも、興国の白鬚水大津浪にて安東水軍はもとより北都の栄は一涛のもとに海砂の底に消えたり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第十番 東日流福島城址図
城邸八町餘り、平安城に勝るべし。福島城は十三湊にありき入澗城を移しめたるものなり。安倍氏季が築城せしも、その養子權守十三左衛門秀栄が改築せしより天下の名城たりしも、南部勢に野火を放され、もろくも落城。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第十一番 東日流唐川城址と龍興寺跡図
此の山城ぞ領下一望の要害に築かれたるは、安倍大納言盛季の改築に依れるものなり。長期の攻防に南部勢もただ戦殉をいだす耳にして、長期の包圍陣を以てなせるも、安東勢自から城に灾りて小泊に脱却す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第十二番 東日流藤崎城址図
康平五年厨川柵落城せる前夜、安倍日下將軍厨川太夫貞任の次男・髙星丸が乳母にいだかれて東日流藤崎に落着し、寛治二年に築城せしものなり。一族再興せし代々を經て、應永三十二年南部守行の侵領に落城す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第十三番 東日流行丘城址図
此の城邸は藤崎城青龍砦たるを建武の南面に敗れし北畠顯家の胤・顯成が安東宗季より施領されたるより行丘城と號す。天正六年大浦平藏に落城され、十三代の君継を絶す。諸行無常なりと、金光坊墓是の地に在り。
寛政十二年十二月日和田長三郎
第十四番 東日流石塔山大光院跡図
古代荒吐族よりの聖地なり。大寳辛丑元年、役小角は此の地に至り金剛界・胎藏界の法輪を修成なし、金剛不壊摩訶如來を感得す。亦地神なる荒覇吐神の大石神塔群、今に遺れむ。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第十五番 東日流日枝神社十三宗寺跡図
十三湊五大神とは璤瑠澗明神・濱明神・熊野大權現・安日神社・山王日吉神社なり。金剛界・胎藏界の両界法壇とて十三宗寺を此の境内に奉寄せしは藤原秀栄なり。山王をめぐりては禪林寺・壇林寺・長谷寺・三井寺・龍興寺・春品寺・壇臨寺らを阿吽寺に屬しめ、北都の栄を法灯に輝かしむ跡なり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第十六番 東日流於瀬堂安日神社図
荒覇吐王安日彦命・長髄彦命を葬らしむる古墳に建立せしは安日神社なり。是を通稱於瀬堂と號す。安東一族此の地を却りてより藩政にに至りては神明宮と改む。往古を秘むるはこの社跡なり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第十七番 東日流墳舘跡図
此の舘跡は南西鬼門に熊野宮、東北鬼門に神護寺を建立し、舘の鎭守とせり。墳舘とは安倍・藤原一族の菩提を鎭護せるを以て號けたるもの也。墳舘より唐川城に通ずる抜洞あり。未だ謎多き史跡なり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第十八番 東日流髙楯城図
もののべのかけし鎧かふち波か
寄手を待たで泡と消えけむ
髙楯城とはその創築に藤崎城玄武砦とて築きし舘なるも、是を萬里小路公に施領して以来、髙楯城と改たむ。十三代左衛門尉行安の代、天正十六年六月十六日大浦平藏に落城す。
寛政十二年十二月日
菅井眞澄
第十九番 東日流金井洞窟城址図
黄金を堀りたる金井洞に地底城を築きしは安藤秀長なり。その秘城をして海運の財を秘藏せし處なりとも傳ふなり。湊あり。安東水軍常住しける處に荘園ありて、大銀杏は歴史を物語る。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第二十番 東日流狼倉城址図
安東義季の築城にして、京徳の年に脆くも南部勢に落城せし古城なり。支城に髙舘ありけるも、多勢なる南部勢に奇襲されたるは種里なる金崎氏の間謀なりと曰ふ。義季は此の後、飽田檜山城主となる。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十一番 東日流外濱尻鉢城址図
安東潮泻政季は狼倉城主安東義季と謀り南部討伐を軍策せしに、鉢巻山城主安倍左京の反忠に南部勢の奇襲をこうむり落城し、政季は捕はるるも、浅虫にて蠣崎藏人に救はれ宇曽利な錦鶏城に食客せるも、渡島に渡り更に義季の養子となりて檜山城主と相成る。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十二番 宇曽利安倍城址図
安倍城とはタダラ造鉄の労人達の住居せし處なり。此の地の造鉄ぞ古き代より鋳鉄を造りて安東一族の基力たるものなれば永く営たり。鋳鑛のタダラ法は總て出雲に習へるタダラ師達と曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十三番 名久井山と都母城址図
名久井岳なる都母城は安東一族が築きしものなり。是れ援城とて急なるときの備處にして、大河兼任を討たるは初代城主安東尋季なり。此の城の所在は未だ人視に得ることなく、まぼろし城とや傳ふ耳なり。
寛政十二年十月日
秋田孝季
第二十四番 東日流合浦安泻湊図
安泻湊は外濱五湊のひとつなり。宇曽利川内湊・龍首湊・田名部湊・宇涛湊・安泻湊なり。安泻湊ぞ、十三湊廃湊たりし興國二年以来、安東水軍を起せむとせしにや、振はざるなり。
寛政十三年十二月日
秋田孝季
第二十五番 荷薩丁淨法寺図
奥州上閉伊なる荷薩丁淨法寺は安倍頻良が祖先菩提寺とて、安日山浄法寺とて建立せしものなり。此の地は東日流糠部、秋田雄勝下閉伊に至る荷薩丁道に通ずる故に隆興せり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十六番 飽田檜山城跡図
飽田檜山城跡はもと安東兼季が築ける城邸なり。支城にては茶臼舘・八森舘・脇本舘あり。常にして南部一族の侵犯を妨ぎたり。京徳の年に安東義季が城主となり、義季世嗣なき故に渡島より政季を入れたり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十七番 土崎湊福寺図
土崎湊に湊福寺を建立せるは安東鹿季なり。
〽ほだらくやわが釋迦牟尼の御教へを
求むる人の禪導開化
〽罪造る人は心ぞ三界に
六道巡るも心なりけり
鹿季の遺せる歌ぞ愢ばしむ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第二十八番 檜山淨明寺図
淨明寺なる起源は荷薩丁の安日山淨法寺より分教法場たる由来に創りぬ。安東兼季の代に立宗改め、現今に至るなり。兼季遺歌にては、
〽苔なむす石にも三年願懸ば
救はる佛ぞこの寺の石
寛政十二年十二月
秋田孝季
第二十九番 土崎湊城跡図
日和見山とは土崎城砦なり。古来より安東水軍この地を領し、東日流十三湊ともに栄へたる處なりしも、興國の津浪にて浪害したるぞ甚大たり。安東時季は是を修復なして湊起り、東日流の乱に一族を救いたり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十番 秋田川辺和田城址図
建保元年五月、朝夷三郎義秀は房州沖に漂ふを安東船に救はれ、この地を委領さるる。その子孫に和田一盛あり。上野に新田義貞と兵を合せ鎌倉を攻落し、茲に北條一族を皆滅す。この城跡は和田一族の積念地なり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第三十一番 秋田補陀寺図
元弘元年の創建なるも、萬里小路中納言藤原藤房入道し無等良雄和尚とて第二世をなしけるとき、この地に移しける寺閣なり。永く安東氏の菩提寺とて湊蒼龍寺と睦び禅道の總山たりき。安倍・安東・秋田氏と相渡りて庇護さる。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十二番 雄勝厨川柵跡図
康平五年、羽の清原一族の奸策にて安倍一族末期の柵とて籠りたるも、源勢に依りて落城せむ。厨川太夫貞任が城を枕に討死せる前九年の役は、此の柵に了りぬ。貞任の遺児髙星丸は重臣菅野左京・髙畑越中らに護られ東日流に落る。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十三番 小松柵趾図
前九年の役にて小松の柵ぞ源軍總滅の戦たり。安倍宗任が主將たりし軍策見事なるに、源軍攻めては討たれ、退きては追討され、源賴義が敗走のとき従う者少かに六騎なりと曰ふなり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十四番 川崎柵跡図
前九年の役にては安倍家任が籠れし柵なり。源軍この柵を攻めたるに、その主將八幡太郎義家なるも難攻不落にして、多く戦殉をいだせり。源軍、鳥海柵の安倍正任に不意を突かれて敗走せしは、此の柵に恨みたり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第三十五番 鳥海柵跡図
天喜五年、安倍日本將軍賴良が流れ矢に不覚なる死を遂げたる柵なり。賴良が遺骸をはるか荷薩丁なる安日山淨法寺に埋葬せし後、安倍厨川太夫貞任は忿怒に燃えて源軍を各所に討敗り、源軍敗走するとも生残る者十三騎と曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十六番 栗原一乃迫古戦場跡図
古今に通じて征夷軍はこの迫に戦ひて、荒覇吐族を敗りたるはなし。まして冬期なる戦尚以て抜難し。前九年の役にては、源軍はこの迫をさけて進軍せるほどなり。
〽仇し世のうらみさまよふ栗原の
なれはあらばき陸奥の嵐ぞ
寛政十二年十二月十二日
秋田孝季
第三十七番 阿津賀志山古戦場図
古くは後三年の役の後なる平泉攻めなる、源軍二十八萬騎を駆したる奥州への戦ぞこの地にて語り草多し。前九年の役にては安倍貞任が此の地に楯垣なして、源軍是を抜くこと能ざる一期の戦耳にて、あとなる戦ぞ源軍みな是を抜きたり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十八番 阿久利川古戦場跡図
前九年の役を仕かけたる藤原説貞の矢策の戦場なり。安倍貞任、父賴良の名代とて賦貢談議定まらず。歸途にこの道を通りしから説貞の伏兵に襲はれしも、貞任は是を見抜きて應戦し、皆滅せし處なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第三十九番 衣川柵跡図
衣川柵にて世人の知れるところなり。前九年の役にては安倍貞任・源義家の攻防に歌ありき。
〽衣の舘はほころびにけり 義家
〽歳を經し糸の乱れの苦しさに 貞任
義家の下の句に、貞任前の句を詠みし物語ぞ後世なる作説なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第四十番 遠野貞任山図
安倍一族が前九年役の後なる穏里は閉伊遠野邑なり。今に號くる貞任山ぞ南北に在り。主君を山に祠りし故に猿石邑と遺りそれぞれに崇拝せし處なれども、その實なるは金鑛なるタダラなりとも亦、軍資秘藏の故なりとも傳ふ。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第四十一番 來朝柵跡図
此の柵跡ぞ古代なるはハララヤなり。亦宮澤柵と相似て、奥州の荒吐族ぞ西南に勢を擴げむ跡ぞと知る。築堤今に崩れざる處に立って四方を眺むれば往古の古城とぞ覚ゆるも、樹多ければ畑地となれる處のみハララヤなる中央ぞと知る。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第四十二番 東日流中山耶馬台城址図
大地なる大人手を想はしむる城跡。積なす石垣、人馬も入り難き深山に築きし古代なる城。永くまぼろしの耶馬台城とて傳はりぬ。安日彦・長髄彦が落着せし冬越しの地とも傳はりぬ。是ぞ東日流中山に未だ謎なりき。
寛政十二年十二月
和田長三郎
第四十三番 矢巾柵跡図
矢巾なる郷に徳丹城ありきも、山手なる台地に遺れる矢巾柵ぞ人知らざる要柵なり。荒吐族が創むるタカクラ跡なるも、古代事なりせばその跡ぞ駐め難し。此の地に安倍安國が柵なす處ぞ矢巾柵なりと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第四十四番 白河関跡図
白河関たるは後世なるも、安倍日本將軍賴良が奥州を以て倭朝の外なる地領とて境なせる陣場を張りたるは此の域なり。依て、永く白河より北に入りては蝦夷國とぞ化外地となし、住むる民を蝦夷とせしは倭朝辨なり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第四十五番 鎌倉安東船築堤跡図
相州鎌倉に安東船寄湊を築堤なしけるは文治二年なり。東廻り安東船とて北海の幸を海商許されたるは、源家と祖来なかるべきことなりせば、安倍・安東に重臣たる長老の反對多きも、安東太郎貞季は是に通商せり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第四十六番 江戸渋谷道玄坂窟跡図
江戸渋谷に道玄坂あり。是れ和田一族の鎌倉に敗れし残臣が籠りたる處なり。一族に僧侶なりし道玄と稱す和田朝盛の相あり。内臣をして反忠せし三浦一族を誅伐せんがために永く駐まれしも、朝夷義秀のもとに赴く。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第四十七番 衣笠城址図
三浦義村の居城・衣笠城に荒吐神の神石ありて祠りたり。石橋山に源頼朝兵を挙げ、是れに呼應し三浦・和田の一族赴けど、丸子川洪水にて渡れず賴朝は安房に落つたるも、追討の平氏は畠山・大庭・江戸氏をして衣笠を攻め、義村死す處也。
寛政十二年十二月
和田長三郎
第四十八番 平泉景図
藤原一族が築きし黄金の殿堂も泰衡を以て炭に盡たり。源兵二十八萬騎をいだせしは、東日流安東一族の加戦に備へたるものなり。史傳に義經自刃とあるも、密かに十三湊より渡島オカムイ崎より満逹に渡ると曰ふ。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第四十九番 多賀城跡図
古くは荒吐族のアガタハララヤなり。後世に坂上田村麻呂の駐留せし處にて、倭の防人達籠れる要城たりと傳ふるも、坪の石文如き後世なる造話史に綴らる多し。多賀城はもとより安倍・安東が居城せしタカクラなりと覚つべし。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十番 膽澤柵跡図
此の柵は荒吐五王なる阿丁流伊が居城なれども、坂上田村麻呂に不意を突かれ討死せる處なり。田村麻呂はその首級を持ちて倭に遁げ朝庭への面目をなせるも、日本史傳の如き史實は露もなかるべきなり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十一番 桃生柵跡図
水嶋島足が居城せし處なり。然るに阿部帝は道鏡法王に乘ぜられ、陸奥の黄金を荒吐五王たる權にて正王の許を得ず献じたり。依て髙位を賜る島足は荒吐族に歸族せず、倭に永住しける。爾来奥州征夷の軍、陸奥を侵領す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十二番 東日流荒吐神社跡図
東日流中山魔岳に荒覇吐石堂ありて、東西の日輪に崇拝す。魔ノ岳とぞ山號せる故はこの山ときには動き、ときには地鳴りせる故なり。安東一族が寳物を秘藏せし故に造話なるたぐいとぞ傳ふもあり、何れぞ實相なるかやさだかならず。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十三番 大平山荒吐神社図
秋田なる太平山に荒吐神を祠りたるは秋田城之介安東舜季なり。湊安東・檜山安東をして常にいさかい起り易く、一族の崩ぶるを北に津輕大浦氏・南に最上・東に南部の急雲ぞ怪しく、安気の得ざる故以ての事なり。秋田城之介實季の藩大名たるを得たるは神護なり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第五十四番 南貞任山荒吐神社図
黄金を求めてタダラを起しめたる南貞任山は安倍一族が悲願なり。依て荒覇吐神を建立せしが、その金鑛ぞ得られず鉄を得たり。南貞任山造鉄にては刀剣能く斬れにして、刀工能く求めたりと曰ふ。是よりタダラ神とて祀るぞ久しけれ。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第五十五番 相州不二山荒吐神社図
富士山山景は東より見たるぞ景勝なり。古代この峯より火噴ずるとき塵砂西を覆せり。依て草木多く死枯なして生々に窮せるとき、東に飢を求めきたる者は皆征夷に從したる輩なれば是を東に入れず。荒覇吐神に悔て建立せるは倭臣のものなりと曰ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十六番 出羽湯殿山荒吐神社図
出羽なる三山に湯湧ける岩あり。古代に是を荒吐神たりしが、大日如来とて現今山伏な信仰に屬す。依て是を湯殿山とて荒覇吐神を忘れつるも、神なる忿怒ありせば湯湧ぞとどまり四辺火泥に埋むなんと曰ふなり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第五十七番 亘坪毛山荒吐神社図
ツボケ山とは東日流中山のみならず、亘郡に存在す。この連峯に和田山ありきは後稱なるも、津保化族ぞ亘郡に至れるは古事をして疑ふべからざるなり。荒覇吐神社のありきは古代ならず、和田一族の寄進なれと傳ふ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十八番 田村郡三春城図
もとより三春藩祖ぞ荒覇吐族系なれば、秋田・宍戸・三春の段に治まれしも、ただ関ケ原戦に參陣なきとて故地を棄てなむ。幕令尚藩祖實季をも伊勢朝熊に隠居たりしはやるかたなき忿怒なりき。三春城五萬五千石いかで安泰あらん。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第五十九番 大峰山修験荒行図
大峰山は役小角が金剛・胎藏両界曼荼羅法壇を求めたる本地垂跡の根本をその一印一結に心身を以て天地水の三身を法報應に一印一結せるは金剛不壊摩訶如來にて本地とし、金剛藏王權現を垂地とて一印一結の感得は成れり。その行道に求めらるは山岳修験が求道とされたり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第六十番 拝葛城神社図
葛城神社は役小角が幼少にして天地水の神にその一生を捧ぐる發願所となりける、天なる神の聲を授けらる處なり。役小角が求道に導きたるは婆羅門なる阿羅羅迦羅摩仙人なりとぞ曰ふも、小角が心に顯れたる靈告なり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第六十一番 金剛藏王尊図
金剛藏王とは役小角自から感得せし忿怒尊なり。金剛藏王の靈験とは天地水の大自然を荒ぶるより觀念せり相なり。天なる自然・地なる自然・水なる自然に修験の靈を顯したるものなれば、天竺・支那の法行に便らず小角が自得なり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六十二番 金剛不壊摩訶如來図
金剛不壊摩訶如來とは大自然の調和なる靈相なり。依て金剛藏王の本地とて全能神とせし感得は役小角が東日流にて荒覇吐神の靈告にて感得せりと曰ふなり。依て本尊崇拝に在るは石塔耳也。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六十三番 若州羽賀寺図
若州羽賀寺は安倍大納言盛季の長子・安倍日下將軍安東康季が勅命に依て再興せし佛閣なり。依て爾来安東氏の菩提寺とて秋田實季より藩主代々この寺閣を庇護し来たり。此の寺は勅願道場にて寺寳多し。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第六十四番 松前阿吽寺と松前城
渡島松前に建立せる阿吽寺は嘉吉三年、十三湊領主・安倍盛季が東日流放棄の砌り本尊を持參せしを阿吽寺とて建立せしものなり。藩城・松前城は安東氏が居城大舘、日和見山台地に設したる者也。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第六十五番 東日流藤崎平等教院図
古図に依れる写画なり。藤崎城北鬼門を鎭むがために建立せし平等教院萬藏寺なるは、鎌倉より諸々大工を入れて造営ならしめたる寺閣なり。亦梵鐘・佛具をも鎌倉工に造れるものなるも、津軽藩にて解寺・移轉さるぞ恨めしき。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第六十六番 秋田髙清水山王日枝神社
秋田なる山王日枝神社は古くは荒覇吐神なれども、是を大平山に移しめたるに依り安東兼季が西大津叡山日吉大社より鎭守の神分けをなしたるものなり。神垣の日枝に鎭む神桂千代に八千代にいや栄祀る
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六十七番 糠部十王院図
糠部なる髙丘に十王院あり。小湊を見渡せる安東水軍舘に建立せる寺閣なり。十王院とは地獄道の戒を衆生に説くを二尊の本願を十王に當て法場とせしは諸國にまれなる寺閣なり。安東三郎尋季が大河兼任を供養して建立す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六十八番 宇曽利錦鶏城址図
宇曽利錦鶏城とは蠣崎藏人の築城なるも、南部攻めの前夜に煙硝爆發事故起りて成らず、一族挙げて安東政季ともに遁航し松前に移りぬ。子孫は松前藩を継ぎて現今に至らむ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第六十九番 糠部相内山伏神楽図
糠部相内神楽に毎年淨法寺に奉納せるあり。通稱山伏神楽と曰へどもその祭文たるや荒覇吐神への唱文なりせば、荒覇吐神への祭文そのまま奉じたるものなり。亦これを安比踊りとも曰ふは安日ならん。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第七十番 糠部湊図
糠部湊は古くは魔淵湊と稱す。安東水軍東廻り船の要湊たり。十三湊を西廻りとしその通商なせども、船難多く振わざるなり。依て漁𢭐湊とて代々を經にして現今に至る。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第七十一番 都母之石碑図
都母の石碑とは北斗の領極むより糠部都母の地ぞ日本中央たりとて、安倍致東が建立せり。角陽國・神威茶塚國・流鬼國・千島國・日髙渡島國・奥州・築紫・流球島をして日本中央と刻せりと曰ふ。依て名久井岳を日本中央山とも稱す。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第七十二番 多賀城神荒吐神社図
陸奥多賀城邸に荒脛巾神社ありける。卽ち荒覇吐神なり。天地水の三社を祭りしは多賀城、日本史傳の如き倭の防人達の奥州掌握ぞならざる故なる證なり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第七十三番 江戸城神荒吐神堂図
大江戸城に荒脛巾祠堂あり。是れ大田道灌の信仰に依れるものなり。是の荒脛巾神社は武藏國の至る處に存在し、地人是を深く信仰す。荒覇吐神の城神たるは大元明神とやに改稱なして祠るもあり、諸國に多し。三春城もその一城なり。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第七十四番 東日流古代荒吐神像図
荒覇吐神なるはその神像、もとより自然なりければ無きを旨とせるも、岩石を刻りて造れるもの・土を練り焼きて造れるもの多く顯る代に至るなり。東日流より奥州・坂東・越に至る神像皆是の如くを正像とす。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第七十五番 渡島イオマンテ図
渡嶋なる荒覇吐神祭事は古来なるイシカホノリガコカムイなりて、イナオを三立建にして祀るオテナ祭司とて仕り、これをイオマンテと曰ふ。他に熊祭り・大ふくろう鳥祭りあり。神へのいけにえとするもありける。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第七十六番 東日流イタコ図
東日流荒覇吐神にイタコあり。生れ乍ら盲目にて生育せる女子をイタコとて修行なさしめり。老ゆイタコほどに靈界に去りし故人を靈媒なすと曰ふなり。鳴絯弓・大念珠を用いて呼靈し、亦送靈なさしめり。
寛政十二年十二月
和田長三郎
第七十七番 東日流ゴミソ図
東日流荒覇吐神にゴミソと稱す祈禱師あり。衆の病・運勢ら判断す。主尊に石神多く崇拝され、剣抜・グシ打・骨焼の法をなして占ふなり。誦文は各々同じかるも、地邑に依りていささか行法も異るあり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第七十八番 東日流オシラ図
東日流荒覇吐神にオシラと稱す神懸りありて、子無きや嫁無きや長床にある病人らにとりつく魔障を祓ふ。亦、衣食住の諸願もなせるにオセンダクとて祭日にぎわふなり。陰陽神を鈴付けて禮拝す。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第七十九番 石塔山石神像図
はるかなる遠き世に東なる海より大なる丸太に乘せて流れ着きたる神あり。石輕ければ異藩國之神なるも、胸に荒覇吐神なる印ありて驚けり。壼ありて是亦、異土なる品ぞと曰ふ。是く文献ありて石塔山洞に捧げしか。洞窟より出土せる神像是の如し。
寛政十二年十二月
秋田孝季
第八十番 イナオカムイ図
イナオとはシナマンダの木を刻りて神なる化身とて祭壇に捧げ奉るものなれば、聖なるものとて大事とせるはシナマンダの木なり。この木皮は衣を織りなすにも用いらるなり。イナオカムイの石なるは立石をなし、四方を敷石とし、オテナの墓とせり。
寛政十二年十二月日
和田長三郎
第八十一番 大和三輪山神社図
古き世に大和國三輪山にて大根子彦・根子彦の王ぞ卽位す。荒覇吐神を山頂に鎭坐なし安日彦王・長髄彦王の故地を奪回せし君臨なり。三輪山神社ぞ御神體ぞ天然自然なるは今も改めざる信仰なり。是れ荒覇吐神なる靈力全能なればなり。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第八十二番 荒吐秘像
古くは阿曽部族・津保化族・荒覇吐族に渡りけるイシカホノリガコカムイを祭祀なす石物とて陰陽秘像を用ふ儀式ありき。卽ち神なるマグワイの秘行にて、是は人視のなき夜半の密行なり。これを神器とて王位に委ね継ぐ。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第八十三番 マグワイ神楽図
十三湊濱の明神にマグワイ神楽を奉納す。マグワイ祭文に曰く、
〽されもめでたやあらはばきさまよ
先祖の代から男と女ごあ世の中もつどごあ
こっからだあらそっからだ
金の鍵こあ男物銀の鍵穴こあ女物
両方はまねば實こあ成らぬサノササ。
寛政十二年十二月日
孝季
第八十四番 太刀振り図
毎年サナブリになりて行ふは太刀振り虫送りなり。大虫龍を藁にて造り天に歸すとて髙枝にかかげ稲を害なす虫とて藁にて造りその藁虫に辰年生れ巳年生れ男女の童に鯉三段に斬らせたる魚肉を喰へさえ川に流す祭りなり。
寛政十二年十二月
和田長三郎
第八十五番 東日流大光院山秘行図
祖来和田一族に山秘行ありける。大祖安日彦命・長髄彦命・耶馬止彦命・安倍賴良・厨川貞任・平小次郎將門・和田義盛の怨靈を鎭むる密行にて夜、丑満刻に行ずるものなり。是れぞ密行なればこれをのぞきたるもの、怨靈にとりつかれて死すと曰ふなり。
寛政十二年十二月
和田長三郎
第八十六番 東日流石塔山役小角墓図
役小角は大和國葛城上郡茅原の生なり。幼少にして葛城神社に仕り神佛をして爭ふさまをなげき、獨り大峯仙境に入りて行を修む。八宗のもの小角をよしとせず上訴し、小角は伊豆に流され、大寳元年に赦さるも、小角は修験の道を支那に求めて渡航せるも嵐にて東日流に漂着す。小角、荒覇吐神に感銘し石塔山に永住して葬ず。
寛政十二年十二月十一日
和田長三郎
第八十七番 東日流中山しるべ図
津輕藩の中山調べとて安東一族に縁る神社佛跡を取潰す為なり。中山しるべ図はその要を記したる図なりせば、他見に及ぼすべからず。心して秘を護るべし。安東一族は不死鳥なりせば、いつの日にか陽光に當らん日ぞ近からん。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
第八十八番 了記 吹浦湊図
吹浦湊は十三湊に次ぐる湊たりしも、東日流大里に道無く、荷駄耳にて商ふ品、事に會ざる多し。依て濱道を通すも海荒れては道亦消えぬ。かくありて振はざるは糠部湊にも等しく、安東水軍は年毎に諸國港に往きて歸らざる多し。
寛政十二年十二月日
秋田孝季
後記
史跡巡りにては寛政五年より文政元年に至るなり。本画はその都度に實写せるものなり(画集は別巻に綴る)。右自寛政五年至文政元年史跡見写一巻本巻八十八景記以て六郡誌大要を了す。
追而
右は明治卅九年、原漢文書を再筆に解く
津輕飯詰村住人
和田長三郎末吉
明治卅九年五月三日
和田末吉