東日流外三郡誌第七八巻

奥州秋田之住
秋田民部介孝季

注言

此の書は津輕藩の許なき書物なり。依て是を公にせしては科を受く事必如なり。徒らに他見に及し自他倶に罪科を蒙るべからず。常に門外不出、他見無用と心得べし。

寛政庚申年七月
孝季花押

哀住地渡島之譜

奥州津輕の六郡を領下にしてその勢々を誇りき安倍一族。日進月歩の代々を終りにしては、水瀬に生滅せるうたかたの如くして久しからず。無常の理りに習へて、今は往古蹤跡だに覚りがたし。嘉吉三年安倍一族、南部義政の侵領に長期に渡りて交戰せども、故地を離るるを以て一族の安泰ならばやと、水軍を總挙して渡島に渡れり。安倍盛季は松前に勝軍舘を築きて居し、安東教季は上國勝山柵に居し、その一族郎党は江さしに居住して安泰せしも、安倍康季のみは復び一族のつはものを率いて津輕に歸り、金井浦に居して吹浦及び秋田土崎浦にその勢を復す。亦津輕藤崎に白鳥舘を復して、行丘城主北畠氏の庇護に依りて安東義季を住はしめたる後に、秋田に蒼龍寺を建立して、是處に入道して寂す。

亦渡島松前に住はむ安倍盛季は倶づれの十三山王坊阿吽寺の住僧らと舘の内にはるけき十三山王を偲び、是處に阿吽寺を建立し入道し法名松空坊と號して第二世となる。亦上國に勝山柵に住はむ教季も舘の下に上國寺を建立し、津輕に散りにける一族の戰士を追善供養せり。盛季に次いで入道し法明坊と法名なして寺住せり。かくては奥州に日下將軍の威風津輕に復し、亦々故地を離れて渡島檜山の地に散住せし安倍・安東両主の末路や、蝦夷地に一族を安住せしむのみにて、その後は哀れにも亦蠣崎藏人に松前上國の柵をゆづり渡して奥州秋田に移りたるは、ねたましくも故地津輕を忘却せらざらんためなりと傳曰ふなり。

明和元年十月廿一日
秋田師季花押

蠣崎藏人之拓島誌

享徳三年蠣崎一族、安倍義季と倶に南部氏に敗れて渡島に退きぬ。蠣崎藏人、安倍義季と謀りて報恨なる南部一族を誅滅せんと互に戦備を保つて一挙に兵を起さんとせる事前に、間諜南部氏に報じて安東義季は津輕に敗れ、亦蠣崎藏人は南部田名部浜に敗れ、一族を海に遁し渡島に退きぬ。亦安東義季も金井浦より再び松前に渡るも、再度秋田に渡り補陀寺に入道して寂す。一方蠣崎藏人は安倍兼任松前大舘主より上國華澤城及び勝山城をゆずり渡され、茲に蠣崎氏、蝦夷地を拓しむ。

然るに地民なる蝦夷大いに蜂起して、茲に安東氏より兵を合挙を受けて起こり、蠣崎藏人・蠣崎信廣を將となして渡島檜山の地より蝦夷を北方に追挙なして征せり。その頃秋田土崎城主家季に男子なく、松前より兼季を招きて継君せるに依って、松前大舘を蠣崎氏に與へて秋田に赴く。茲に松前及び下國の領は蠣崎一族の實權と相成りぬ。

寛永二年五月六日
秋田民部基季

山王胎藏界法場愢立

嘉吉三年十二月十日、柴崎城より十三法場阿吽寺及び山王の住僧卽ち實相坊・山王坊・永善坊は住寺の寳像を奉じて、安倍盛季の軍船に便乘なし渡島に渡りける。先づ永善坊は上國に念佛庵を結び、實相坊は江刺に法華庵を結び、山王坊は松前に阿吽寺を開山して各々十三山王の盛教たりしを愢て一族の信心を深ましめたり。亦安倍一族の者をして自から此の三寺を奉施して建立せしめ今に至りぬ。

元禄十年四月二日
秋田賴季

安東秋滅史

嘉吉元年春三月南部義政、一挙に十三山王の聖域を犯す。十三宗の坊舎ことごとく灾り。佛寺に安ぜる寳物を奪い、是をこばむる僧等を矢にて撃殺せり。亦阿吽寺・壇林寺・龍興寺・禪林寺・長谷寺・三井寺等は旣に焼滅し、人家一軒だに残らず炎上せしに、唐川城主安倍盛季は茲に意を決して一族の難民を小泊より渡島に脱せしめ、自から唐川城を放炎せしめ、小泊崎の柴崎城に移りて、嘉吉三年十月迄に及び南部義政の軍と戦ふ。然るに安倍一族の軍は地の理、兵糧の貧しきに柴崎城を護るを断念して一族三千餘名の者を軍船にて前以て難をば脱しめたり。

南部義政、下舞の崖より柴崎城に攻め入りたる時は旣に城中はもぬけの空なり。故地を捨てたる安藤一族は茲に船首を奥尻松前上國江刺の湊に向けて安着せり。十三福島城主なる安倍盛季は勝軍舘に先住主藤原兼親に迎へられて茲に安住せり。亦藤崎城主安東教季は上國なる勝山城に安倍継季に迎へられて安住し、一族の者は江刺・奥尻・松前・福島・上國等に拓住し、農漁を以て業となし、文安元年七月一族の軍を興して安東康季、津輕に渡りて故地なる金井城を復し、亦秋田土崎に城を築き、亦蒼龍寺を建立せしめたるの威勢なり。亦津輕華和郡を全く掌中に占めたるも、文安三年にその大業中に病死せり。

宝徳三年に及びては安東義季、康季の志を継ぎ華和郡及び奥法郡を占め、藤崎に白鳥舘を築き以て津輕一統を謀り、若狭國より蠣崎藏人を迎へ大間に住はしめ戦謀互に備へて南部一族皆滅に企謀せしが、南部一族の間諜旣に是を探りて享徳二年、華和郡太郎義政を先將にして不意討てり。亦蠣崎藏人も田名部代官山の会戦に敗れ、哀れかな安東一族の津輕一統ならず、遂には再び渡島及び秋田に脱したり。幸いにして藤崎城に住むる安東義景のみは行丘城主北畠氏の庇護に依りて安住たりき。

正保四年八月三日
藤井太郎景正

渡島桧山の嵐

安東一族、蝦夷の住地を犯すことなけれども、蠣崎氏一族は蝦夷の住地を犯す故に遂には康正二年六月、夷・蠣の両方に戦起りて和人多く殺されたり。此の年大雪に糧もなく蝦夷、和人の住める浜に漁を請ふれども、蠣崎氏一族の反對に怒る蝦夷は諸酋長を挙げて蜂起せる戦いなり。依て蠣崎氏、蝦夷を討つための兵を勝山城に結し、使者を秋田に遣して援兵を請ふれば秋田城之介久季、唯一通の書状を復したるのみにして援兵一人だに遣すことぞなし。
その書状に曰く、

御親書、吾が視中に了し候。乍援兵の儀賛じ難く、茲に一筆參らして言上仕る。
抑々貴氏之城領、皆旧安倍のゆずりし地なりせば、古来旧氏にては蝦夷恨返乱蜂起の候事ためしなく候。事の實相を挙ぐれば秋田一族をして蝦夷を討つための兵は蠣崎氏執政の失策と覚え候に付き、出兵の由御断念あるべく意得下さる可候。右之段如件。

長禄元年八月七日
ひさすゑ

蠣崎殿御御坐右

上之國安倍之譜

檜山國・上國勝山城郭は十三左衛門尉藤原秀直が萩野台之合戦に敗れ、安東氏がその罪を悔はしむる為に秀直を死刑より赦して與へたる處なり。此の城郭は華澤洲崎の砦を東と北方に位し、南は海、西は天の川を濠となし、更に夷王山を以て四方を望む中央に勝山城を築かしめたる要處なり。藤原秀直は此の地を能く治拓し、蝦夷地を安東一族と倶に遠征し、江差に蝦夷の貢物を集めて財をふやし、更に北方への道しるべを開きたる司處なり。安倍貞季が夷國の民を犯さず犯すべからずとの戒を能く掟として護りたるも、蠣崎氏此の地に入りてより乱れたり。
安倍長季の文献に曰く、

査問之狀

一筆啓上仕り候。吾が意旨先んじて逑筆に及び候事赦し置かるべし。要の議に候は蠣崎氏が夷國を拓しむるはげみはよからずとぞ由候はねど蝦夷の財を犯し、亦拓地を奪うとの風報よからぬ傳へ是あり候に付き、此の一狀を以て審すべく事の實否を返報下されたく候。
若し風報實相なりせば、汝を上國に置かしむるに候はず、更に北方未開の地に國変のやむを得ざるべく候。依て右能く考察思慮のうえ復報下されたく候。右如件。

康正二年十月二日
長季花押

勝山殿

右の文献に想いば甚々にして蠣崎氏の横暴やるかたなき犯事なりき。

元禄十年五月
秋田賴季

安倍一族之脚跡

抑々蝦夷國を安倍一族に曰はしむれば日髙國と曰ふ。亦津輕を東日流と稱し、奥州を日髙見國と曰ふなり。安倍一族の奥州亦は蝦夷國の君坐は古く、その歴史は亦々深きなり。大古日向の一族に耶馬台國を侵され、故地を退きて奥州に住み、永く蝦夷の輩として犯されその歴史は過去に葬られ、勝者の讃美耳世に遺りき。歴史の實相は敵として觀るべきに非ず。亦味方として觀るべからず。常に相互の實相を判断して眞相を得る也。

依て津輕蝦夷、秋田に安倍一族とその歴史を訴求せるに、往古の宿敵を考せず、亦傳統及び文献・寺社傳記もまでに調ぶことよけれ。茲に奥州及び蝦夷を往古に省りみて一筆染書仕るなり。抑々奥州東日流の歴跡は、安倍一族に依りて往古の歴史を知るべきなり。耶馬台に五畿七道の領主長髄彦命の兄、安日彦命二柱を遠祖と仰ぐ安倍一族の奥州に君臨せしは、永き幾千年月に渡るなり。安倍比羅夫に依りて安倍の姓を襲稱して日本歴史に遺し顯るに至るも、安倍賴時の代に至りて奥州六國の權を失脚し、貞任衣川に敗れて討死以来その次男髙星丸が脱難、諸々を流浪し東日流に求めて安住し、藤崎及び十三湊に旧民を集めて城柵を築き、爾来子々孫々相栄ゆるも鎌倉幕府の執政に依りて次第に安倍一族の財をついばみぬ。

然れども安倍一族、十三湊に水軍を誕興し支那・韓國・何蕃・天竺までも潮路を開き、その威力たるや幕府に継ぐる財を築きぬ。無常なるや、その財力も興國二年の大津浪に依りて一刻の夢に水泡に歸して、十三湊は開湊不能の浅瀬となり、水軍は諸國の海湊に散移せり。依て安倍一族は、南部守行が奥州の國守となり奸策されて交戦し、遂に藤崎城主安東教季は敗れ、更に十三湊福島城主・安倍盛季も唐川城・柴崎城の要城も落され、嘉吉三年安倍一族はことごとく渡島檜山の蝦夷地に脱難せり。松前に勝軍舘、上國に夷王舘を以前より築きける安倍一族は、皆幕府の牙より脱して安住を得たるも、心にすえかねるは南部氏への恨みなり。

依て安倍康季は一族の強きもののふを選びて起り、兵を激して津輕金井湊に上陸し、吹浦・土崎に兵馬を募りて舞戸より巌鬼山麓を南に南部勢を破り、文安元年に至りて故地藤崎内三郡の華和郡一圓を奪回せり。その間に康季、大舘・奴代舘を築き亦盛田荘園・金井荘園及び蒼龍寺・熊野宮・加茂神社等を諸々に増築せり。應永三十一年に十三山王の十三宗寺、胎藏界・金剛界の法場を南部の軍に焼失されたる悔の菩提心故に、康季が東日流奪回の祈願をこめての心に安部再興の悲願せしたまものなり。

先づ東日流一統の基を内三郡の華和に狼倉舘及び髙舘の二城を築き、文安三年七月六日康季は蒼龍寺にて病寂せり。これを継ぎける義季は若狭の蠣崎藏人信廣と謀り、一挙に南部一族誅滅の兵を挙せんと蠣崎藏人を大間に招き、東西より南部氏を討たんとせるも遂にはその軍謀も間者に依りて露見し、兵挙の以前に双方とも南部一族の不意討に突かれて、安倍一族の狼倉舘及び髙舘は落城せり。亦蠣崎氏もオロシヤよりホテレスを入手して一挙に糠部一圓を攻めんとせる前夜、ホテレスの暴發に依りて多くの騎兵を失ひて遂には南部攻めを断念して、田名部より渡島に脱したり。亦安倍義季も藤崎白鳥舘に脱して北畠氏卽ち行丘の庇護を受けて危ふく死をまぬがれたるも、はかなしな。

安倍一族の行方は再び渡島檜山か亦は秋田に脱退せざるを得られず、先づ金井湊より秋田に赴き一族を危窮より救いなして安住せしめたりと曰ふ。依て東日流に残れる安倍一族の城は北畠行丘城主の庇護を受けにし藤崎白鳥舘ただ一城にして、城主安東義景は義季の後世を継ぎて、文明十二年義景の子景季が天眞名井宮義仁親王に息女千代を室女に召さしめられてより五代、卽ち季義=通季=隆季=保季=基季まで續きたるも天正七年六月十日大浦為信、東日流一統の奸策に謀られて落城し基季は秋田土崎に脱して旭川邑に秋田氏の庇護を受けて安住し、その後の世代は秋田氏と混じて不明なるはなし。

元和七年十二月
(原漢文)秋田定季手帳より
寛政五年十月
秋田孝季㝍す

檜山勝山城図(別稱夷王舘)


築港、洲崎砦、濱明神、大舘、上國寺、夷王山舘、勝山舘、中舘、湊八幡宮、峯舘、華澤舘、明徳寺、中洲、天ノ川、


城郭八町餘
城棟七棟、住家六十棟
寺社二寺二社
右總稱號勝山城

松前大舘之図(別稱勝軍舘)


白神、及部川、傳次川、海継舘、松前川、小舘、勝軍山、西國法場、大舘、阿吽寺、松前舘、浜明神、築港、法源寺、中舘、小松前川、髙舘、唐人川、毛生川、辨天

城郭一里餘町
城棟六棟、住家三百
寺社三寺二社
右總稱松前柵也

北都築城誌

抑々奥州津輕の十三浦は阿倍一族の巨城なしも是れにつなむ奥法郡藤崎城とて十三福島城にめげぬ巨城なり。安東・阿部・阿倍・安藤・秋田と氏を異にせる由は、その区領に分家せる一族の證なり。實相は血脈皆同族なり。安倍一族の代證して安倍亦安東と氏を記すあるとも、あやまてる事なかれ。

一族の税は京師にあがり、幕府の化外の領なりせば、京の風習傳りてその□□亦々神社佛閣の祭時に用いらる。北都ぞと呼稱されしは安東水軍の盛んなりし頃を言ふなり。
津輕飯積和田文献に曰く、

安倍一族城柵、以外見望城棟不可。深林木好城郭大、亦濠最深備渓谷、以好城棟。髙處火箭弓箭不及他。人足不登處最好可。亦城籠能飲水保地窟必備可、退路為秘急危備可。亦砦東西南北見継處好可。柵十重亦重柵以迷路常密、為可名城築。右要考施可、亦敵攻一兵視外不可、常物見四方視下處最約也。安倍武策事、當好進惡當退人、命徒無益散不可。以上安倍築城要也。

文治元年八月十一日
安倍貞季花押