東日流外三郡誌 百十四巻付書
和田長三郎
※一部断片のみ掲載
夫以て日本國を
夫以れば日本國を水穗國と云い、亦は耶馬臺國、亦秋津州、又扶桑國とも號したり。又國を境して六十六州、二つの島已以六十八國、東西三十餘里、南北は不定なり。日本國の四方は洋々たる萬里の怒涛、國を護りて異土の侵敵にけがさるなし。
國主は神代十二代、天神國常立尊、乃至伊諾那岐尊・伊弉柵尊、乃至天照太神、乃至彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、已以十二代神代なり。
人王は百代なるべきか、神武天皇乃至神功皇后。此の時までは月支・漢土に佛法ありしかども、日本國には未だわたらずと曰すも、日本北州・東日流には漢土の漂民流着きて、十三入海に佛場を開きたるよりは、夷人崇拝の荒吐神に傳る行法に遺れり。
死を
弘通せさせ給ふ乃至四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、乃至五十代に倶舎宗・臨済宗・大日宗・眞言宗の四宗わたり、乃至五十一代平城天皇御宇に念佛宗わたりぬ。是を、渡来十二宗と曰す。
然るに、日本國に自ら生れし宗あり。依て、謹み深くして記置きぬ。大寶辛丑元年大峯行者役小角仙人、日本神道の崇拝は異土渡来の佛法耳に民心を奪崇さるゝを痛感し、茲に神佛本垂の宗を起したり。是を修験宗と號しければ、諸宗の僧徒、朝廷に直訴して役小角仙人を捕はんとするに、既に是を餘智せる役小角、唐に渡りて日本神道を弘めんと築紫勝浦より渡唐せんとするも、暴風に依りて東日流國石化崎と曰す夷國に漂着し、此の地に修験宗を遺し、今尚も民心崇拝の的なり。
此の宗を東日流於呂盧浦(東日流十三湊)に山王坊、東日流中山石化浦(東日流飯積)に大坊、東日流阿曽部山(東日流阿闍羅)に南總坊、是は、東日流三千坊と稱して榮えたり。
東日流國は日本國皇城の鬼門に當り、朝敵たる罪人、此の地に脱し来り捕る無ければ、智者多く無法自在に住みよける處なりて、世人是を夷人となし征夷の臂を向はしむも、此の域に入る武將なし。田道將軍も深侵りて死せるに及びては、東日流に入る征夷の武士もなく、安倍一族征伐の源太郎義家も安倍一族皆討を得られず、東日流に一歩たるも踏入るなし。依て茲に、安倍氏と修験宗の太歴ぞ遺しに得たる。
重ねて曰す、安倍氏の祖は長髄彦命及び物部連氏なり。亦、東日流住族は荒吐族(漢土系)津刈族(大和系)の混合血族なれば、北夷の地・渡島族と異るなり。
寛政二年五月 安東孝季
我が國の山寺は
我が國の山寺は、文治年中に十七萬一千三十七所也。月氏・漢土に對すれば、地位少か日本國に伊豆大島を對せるが如し。依て山寺を月氏・漢土に對してみるに、何の大國におとるなし。
然るに古代より日本國神を祀る神社、少かに三千餘社なり。我國開闢より以来、天津日嗣よく崇むる。佛法わたりて以来、日本神道の頂を栖とし給ふことなし。
東日流にては山寺、三大坊に五百、神社八百を爲して崇むは、安倍領主の尊王憂國心なればなり。
安永二年一月 秋田孝季
抑々東日流外三郡誌を
抑々東日流外三郡誌を書篇せるに當りては、安東氏の書巻、諸國に散じて失ふ多く、現今に傳はる史實また、あやまり多し。
依て、東日流及び羽州土崎の傳を史實とし、拙者一代に足らざる處を飯積邑庄屋和田長三郎殿に秘傳して、詳細克明せん。此の百十四巻は、冒頭にして前後相混じて讀難く解し難けれども、拙者の文才愚頭の故なれば、諸氏同族の整書願ひて仕事了申上候、敬白。
文化二年五月十七日
羽州土崎住秋田孝季
十三港の名稱は
十三港の名稱は、十三宗の意を以て號さる。
十三港三王大坊佛跡綴
佛寺・宗目、應永五年式目禄ヨリ
- 東大路
- 天台宗、法華宗、法相宗
- 西大路
- 念佛宗、律宗、臨済宗
- 南大路
- 華嚴宗、倶舎宗、成實宗
- 北大路
- 禪宗、眞言宗
- 中大路
- 大日宗、修験宗
神社十三宮
- 北大路
- 神明宮、八坂宮、熊野宮
- 中大路
- 八幡宮、春日神社
- 西大路
- 龍神宮、髙賀茂宮、稲荷宮
- 南大路
- 安東神社、大山祇神社
- 東大路
- 磯崎神社、荒吐神社、保食宮
右は十三港三王坊耳の寺社也。
寛政元年七月一日 秋田孝季巡脚書
飯積大坊佛跡綴
修験宗耳
- 正中山
- 應身院、梵場寺、觀音寺
- 笹山
- 報身院、胎藏院、金剛院
- 馬神山
- 法身院、正覚院、天池堂
- 大坊野
- 大光院、觀頂院、修験院
- 魔神山
- 法報應院、權現堂、荒行堂
- 壺毛山
- 本垂院、不動院、法隆院
- 石塔山
- 立法院、小角院、三昧寺
- 御成山
- 三寶院、藥師堂、寶藏院
三王坊法印・覚眼房の書管より
安東水軍蒙古船と相討す
文永甲戌十一年五月五日、鎌倉状急飛脚にて十三港福島城に達す。城主安倍貞季、藤崎城主と謀りて書状を開讀せんとするも、使者飛脚曰して、一刻おくれて日本國異蕃人に侵さると判断す。依て貞季、意を決して開封す。その文に曰く、
急令の宣
安東一族に朝幕一致を以て曰す。昨月元國より我が朝に使者あり。日本國、元王の政下に降る可との難題状なりて、挙國の一致日本武士の面目國難に當りて起り、蕃軍誅滅に挙兵あらむ事を宣す。安東水軍は急ぎて、元軍を日本築紫沖に彼の敵を天誅爲可、右状如件。
文永甲戌十一年五月一日
北條時宗華押
十三浦、貞季殿
時に安倍貞季、早馬馳して藤崎城主安東(※この部分四行程、判読不能)
挙し兵船三十二艘、十三浦を出づ。然るに、門司浦に元軍をまつとて、来らず。五月日を流して、安東水軍一千三百人兵糧に乏しく、十三浦に歸港せんとす。十月四日、太宰府より許を得て五日朝出船し、卯刻にはるけき對馬島に煙りあり。洋上に群がむ異船、四百五十艘を數えたり。
依て安倍貞季、門司に使船をして三十一艘ことごとく水軍着鎧し、對馬島に潮をきりにける。一方、對島にては國府の八幡宮に陣せる對島守護代・資國等、西佐寸浦に陸上少かなる元軍と伐ひて伐取ると雖も、資國が一族悉く伐死す。
時に安東船、村上水軍八十艘を待ち伏せ、一呑に對馬島を攻むれど、敵船影なく西佐寸浜は死人の山なり。依て玄海に元船を追ふも見當らず、空しく歸國に船路を東西にとりませるや、十艘の元船を見ゆ。
依て村上水軍是に先潮して交戦し、火箭に早くも四艘を𣲽ましむ。是れにおくれずと安東水軍、残る六艘の元船と弓を撃合ひ遂に全艘を誅𣲽せしめたり。されば、元軍の船群何處にと、洋上を対馬に向し探るも、亦空しく見當らず。
再び門司に歸りて、弓箭を積み用水を積みて船出でむ。時に十月十四日なり。その頃に元軍の群船は壹岐國へ押寄せ、守護代平内左衛門景隆等、城郭を構へて應戦すると雖も、蒙古乱れ入る間、景隆自刃す。この島の百姓男等は殺され、女をば集めて一人として害せざるはなし。
時に安東水軍、壹岐島より南へ引歸る元船と戦ひて、激しく船打て矢のつきはるまで戦けるが、敵船は巨船ゆえに戦例安東水軍になく、安倍貞季、村上亥十郎又介と謀りて潜泳强けき武者を召して、鋸斧を以て敵船の舵を斬り落し、不自在なる元船に火箭を放つれば、敵船多く𣲽み、西へと遁しける。
時に安東船、十二艘を𣲽ましめ、三百人海に殉じたり。敵船また十五艘𣲽み、元軍一萬餘、海に溺死せり。然るに西に向はむ元船、百済國にて武具を積み、再び十九日より二十九日の間、筑前博多・箱崎・今津・佐原へ寄せ来るを、安東船向へて戦ふも及ばず、更に十五艘・五百人を海中に殉じせしめたり。
時に、東郷入道覚忠・子息三郎左衛門尉景資・大友出羽守直泰・弟次郎左衛門重秀・難波二郎在介・菊池次郎康成・安倍貞季・宗季、戦いて死す者相𣲽せり。安東水軍残るは破船五艘のみにて、水軍少かに七百人、門司にたどりぬ。
以来、北條氏より十六艘の新船を賜はり、十三港に歸し、水軍の急備をなせるに、歸らざる両城主と家臣に東日流の里は悲しみに更けにけり。
弘安己卯二年六月、元使周福、鎌倉に来りて日本、元に降るを申請せるに、
羽州土崎旧姓安東
秋田家秘文
原本所藏再筆篇
百十四巻付書